☆1-23☆ 学院の教師陣
放課後、王立アストル魔法学院の本部棟最上階にある中央会議室には、巨大な円卓を囲むように学院長を含めた四十名の教師たちが集まっていた。否、正確には一名だけがその場に不在だった。
「遅いですわね、アドモン先生は」
ローザ・フレイルが腕時計へと視線を落とす。背筋は一切の乱れもなく伸び、ワインレッドの髪は丁寧にまとめ上げられていた。その鋭い灰色の瞳は、会議室の扉を静かに見据えている。
周囲には、王立アストル魔法学院が誇る教師陣が揃っていた。学院の教師全員が最低でも上級の実力者であり、そのうち八名は特級弍星、そして学院長ディオーネ・ジュピターただ一人が特級壱星に位置する。
特級が八名も同時に在籍するという事実は、三千年以上に及ぶ学院の歴史を振り返っても前例のない異常事態であった。後世、この時代はやがて【アストル学院の黄金時代】と呼ばれることになるだろう。
それほどの面々が揃っているにもかかわらず、会議室には妙な緊張と、どこか日常の延長のような空気が同居していた。
「なぁ、これ終わったら食堂まだ開いてる?」
「会議前に食べればよかったでしょう」
「いやぁ、ついさっきから腹が減ってきたんだよなぁ」
「レオン先生。あなた、昼休みに焼肉を三人前食べていましたでしょう」
「運動したから消化した」
「午後の授業一つで?」
「オレ燃費悪いんだよ」
ローザのこめかみに青筋が浮かぶ一方で、レオンは悪びれる様子もなく平然としていた。さらに別の席では、また別のやり取り
「結界の張り直しって明日に回していいかな」
「駄目です」
「即答かよ」
「当たり前でしょう」
アミュが机へ突っ伏し、その隣ではヒストリアが大量の資料を嬉々として整理していた。
「地下封鎖区画の古代守護機兵についてなんですが」
「ヒストリア先生」
「はい?」
「今はその話ではありません」
「でも五千年前の神代のことですよ?」
「後にしてください」
「完全自律式古代魔導機兵ですよ?」
「後です」
「しかもノエル君が四体同時に契約したんですよ?」
「知っています」
「歴史的発見ですよ?」
「座ってください」
「はい」
ローザに睨まれ、ヒストリアは素直に座った。また会議室の反対側では
「やはり最近の若者は筋肉が足りませんな」
ガレスが腕を組み呟き、コンラッドが視線だけを向けた。
「何の話です?」
「精神防御です」
「筋肉関係あります?」
「あります」
「ないと思いますけど」
「精神とは脳、脳も身体の一部。身体を鍛えれば精神も鍛えられる。すなわち筋肉です」
「途中から論理が飛びましたね」
「修行が足りませんな」
「僕の?」
「筋肉の」
「会話になってないなぁ」
それが、アストル魔法学院の教師陣である。
見た目だけを見れば、穏やかな教師の集まりにしか見えない。優男のような男もいれば、気の抜けた青年、物腰の柔らかい老人、そして華やかな美女たちもいる。だが、その印象に油断した者は例外なく痛い目を見ることになる。
在校生なら誰もが知っている事実がある。
───外見に騙されるな
ここにいる者たちは全員、例外なく“化け物”である。特に女性教師陣は顕著で、ローザやヒストリアを筆頭とする彼女たちは、その圧倒的な美貌と戦闘能力から『百花繚乱の麗園』と呼ばれていた。
その異名について、生徒会副会長カルム・クワイエットはかつてこう評している。
『綺麗な花には棘がある、じゃないですよ。あの人たちは綺麗な花に猛毒があるを体現してます。怖いです』
この発言が本人たちの耳に入った結果、翌日カルムは女子教師陣から満面の笑みで呼び出しを受けることになった。
…その後、何が起きたのかは誰も知らない。本人も頑として語ろうとしない。
そんな、妙な緊張と日常が同居する空気の中で───会議室の扉が開いた。
「お待たせしました」
アドモン・メディシンが入室した。手には数枚の簡易報告書を携え、いつも通り柔らかな笑みを浮かべている。その姿を見て、レオンは片眉を上げた。
「遅かったな。で?喋ったのか?」
「色々と快く話してくれましたよ」
「お前の“快く”は信用できねぇんだよな」
「心外ですね。ちゃんと合法的な手段を使いましたよ」
ローザの視線が冷たくなる。
「特別保護室へ自白作用のある鎮静香を散布したと聞きましたけれど?」
「誤解です。僕は蝋燭の代わりに、心を落ち着けるアロマを置いただけですよ」
「そのアロマに催眠補助作用がありますわよね?」
「少し」
「自白誘導効果も?」
「ほんの少し」
「それを薬物投与と言いますのよ」
「でも身体には無害です」
「論点が違いますわ!」
レオンが手を叩く。
「はいはい、夫婦漫才は後にしろ」
「誰が夫婦ですの!?」「誰が夫婦ですか!?」
二人の声が綺麗に重なり、数人が思わず吹き出した。その空気を断ち切るように、ディオーネが机を軽く叩く。
「そこまでじゃ」
瞬間、ざわめきは一斉に消えた。
小さな学院長の一声だけで、教師全員が完全に沈黙する。
「報告せい、アドモン」
「はい」
アドモンの表情から、先ほどまでの軽さが消えた。報告書が机へ置かれる。
「断片的ですが、重要な情報を複数得ました」
円卓の中央に魔法文字が浮かび上がる。
【金糸雀挽歌】
「金糸雀挽歌、それが彼女の所属組織です」
数名の教師が眉を寄せる。
「由来については答えませんでした。“現行世界の破壊”が組織の最終目的のようです」
「世界の……破壊?」
教師の一人が呟く。
「ええ。ただし本人たちは、それをある種の“救済”や“浄化”として認識している節があります」
コンラッドが指を組む。
「典型的な破滅思想だね」
「首領は?」
ディオーネが問うと、円卓へ新たな名が浮かんだ。
【ニグルム】
「男。年齢その他の詳細は不明。彼女が絶対的な忠誠を向けている人物です」
次々と五つの名前が浮かぶ。
【ルブルム】【カエルレウム】【ウィオラーケウム】【フラーウム】【ウィリデ】
「直属幹部、五名」
ローザが目を細める。
「実力は?」
「全員が“特級”です」
完全な沈黙が落ちた。先ほどまでのざわめきとは質の異なる、重く張り詰めた静寂である。ここに集う教師たちは誰よりも「特級」という言葉の意味を理解していた。それは努力の果てに辿り着ける領域ではなく、才能という壁を越えた先にのみ存在する、上級のさらに上──人の枠を逸脱した本物の怪物たちの領域だった。
「どの程度の特級じゃ」
「最低でも特級弍星相当です。……そして首領ニグルムについて、彼女は明らかに情報を隠しました。そこから幹部以上であることが想定されます」
レオンの口元から笑みが消える。
「……国家級戦力が最低六人」
「そうなります」
誰も笑わなかった。
アミュは椅子の背に深く身を預ける。
「冗談キツいな…目的が世界破壊。戦力もある。じゃあ方法は?」
「不明です」
「そこが一番大事だろ」
「本人にも計画の全貌は知らされていないようです」
アドモンが資料をめくる。
「召喚術、封印解除、古代遺物、魔物の異常活性化…複数の計画が並行している可能性があります」
「ノエル君は?」
ヒストリアが問いかけた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。その名が出た途端、ディオーネの視線が鋭く細まり、同時に担任であるコンラッドをはじめとする全教師の視線が一斉にアドモンへと向けられた。
「なぜ召喚士を狙った?」
「断定はできません。ただ、彼の召喚適性そのものが、何らかの封印・契約・召喚体系を起動する鍵として利用できる可能性があります」
「…あいつ、面倒なのに目ぇつけられやがって…」
「あなたに言われたくはないでしょうね」
レオンの言葉にコンラッドが苦笑する。
「で、カティア本人の強さは?」
ローザの問いに、アドモンはわずかに眉間へ皺を寄せ、言葉を選ぶように一拍だけ間を置いた。
「…精神系魔法の扱いを得意とする称号なのか、異常な強さを持っています。近接戦闘技術も高く、現状の一年生が正面から戦えば、まず勝てません」
「当然じゃな」
「ただし、今の彼女には明確な迷いがあります」
アドモンの目が少しだけ柔らかくなる。
「迷い?」
「ノエル君たちです。彼らと過ごしたことが、彼女の思想へ変化を与え始めています」
数人が顔を見合わせ、ローザが静かに言う。
「信用するには早すぎますわ」
「僕もそう思います。ですが見捨てるには、もっと早い」
アドモンはそう答え、ディオーネが僅かに笑う。
「よい答えじゃ」
「それと…情報を聞き出している最中、彼女の体内で古代式の契約術が発動しました」
アドモンの表情が曇り、空気が再び変わった。
「症状は?」
「吐血と急激な魔力循環障害です。現在は意識を失っています」
「命は?」
「あります。ですが、術式の完全解析ができません」
アミュが眉を寄せる。
「お前が?」
「ええ」
世界最高峰と評される錬金術師が、認める。
「多重偽装、自己崩壊、解析へ干渉する反応型術式。こちらが深部へ触れれば触れるほど、さらに内側へ潜る構造になっています」
「解除は」
「現状では危険です」
「監視術式か」
コンラッドが呟く。
「それだけではないと思います。おそらく…処刑機能を含んでいます」
アドモンの声が低く響き、その言葉の余韻が一拍だけ会議室に落ち、室内は完全な静寂に包まれた。ディオーネの瞳からも、先ほどまでの笑みはすっと消えていた。
「……そうか」
短い一言。それだけで近くにいた教師数人の表情が僅かに強張った。
「アドモン」
「はい」
「カティアを生かすのじゃ」
「最善を尽くします」
「最善では足りん」
ディオーネが視線を上げる。
「生かせ」
「……はい。必ず」
アドモンは一瞬だけ学院長を見つめたあと、静かに深く頷いた。
レオンが机に肘をつく。
「で、結局のところ今のカティアは、ノエルにとってどうなんだ」
アドモンが答える。
「少なくとも現時点では、彼に危害を加える可能性は低いと判断しています」
「信頼できるか?」
「いいえ」
「じゃあ信用できない?」
「それも違います」
レオンが片眉を上げる。
「めんどくせぇな」
「人間なんてそんなものですよ。白か黒かだけなら、僕ら教師はいりません」
ディオーネが静かに立ち上がると、その小さな姿に反して、三十九名の教師全員が一斉に視線を向けた。
「よいか。敵は存在し、目的も“世界の破壊”と判明しておる。しかし手段も戦力も詳しいことが分からぬ。つまり我々は何も分かっておらぬということじゃ」
一拍置き、円卓へ手を置く。薄黄緑の瞳が鋭く光った。
「ならばやるべきことは一つ」
その言葉に、会議室の空気が引き締まる。
レオンが口角を上げて言った。
「調べて」
アミュが続ける。
「守って」
ローザが静かに告げる。
「備える」
ガレスが力強く頷く。
「そして鍛える」
「最後だけ完全に個人の趣味では?」
コンラッドの指摘に、わずかな笑いが漏れる。
ディオーネも小さく笑みを浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。
「今回は戦争を始めるためではない。戦争を“始めさせぬ”ための準備じゃ」
ディオーネの視線が全員へと向けられる。
「奪わせるな。壊させるな。生徒へ手を出させるな。もし敵が学院へ来るというのなら──後悔させてやれ」
その瞬間、空気が一変した。
ローザの瞳は鋭く燃え上がり、レオンは無言のまま拳を強く握りしめる。アミュは静かに立ち上がり、他の教師たちも次々と姿勢を正していく。その場にいた全員の意志が、ひとつの方向へと収束していった。
ディオーネの声だけが、静かに会議室へと響く。
教師たちの表情はすでに先ほどまでの緩さを失っていた。そこにいるのは、騒がしく言い争っていた大人たちではない。
世界最高峰の学院を守るために集った三十九名の精鋭、そしてその頂点に立つ学院長ただ一人だった。
「了解」
レオンが笑う。
「わたくしたちの生徒へ手を出すという意味を、教えて差し上げますわ」
「結界を学院全域で再構築するか」
「侵入経路をもう一度洗うよ」
「古代式術式の照合は私が」
「薬品類、精神干渉対策、解毒設備を拡張します」
「剣術訓練も増やしましょう」
ガレスの言葉にコンラッドが横を見る。
「今どさくさに紛れて授業増やそうとしました?」
「気のせいです」
「絶対違いますよね」
再び小さな笑いが起きた。張り詰めた空気は依然として残っているものの、それでも場が過度に暗く沈み込むことはなく、そうした緩急すら自然に受け止められるのもまた、彼らの強さの一つだった。
────
───
──
「それでは、次の議題へ移ります」
ヒストリアが資料を抱え、円卓の前へ出た。
「まだあるのかよ」
レオンが露骨に嫌そうな顔をする。
「あります」
「腹減ったんだけど」
「我慢してください」
「人間、腹が減ったら戦えねぇぞ」
「そんなわけないでしょう」
ヒストリアは呆れたように言いながら、指先を軽く振った。すると円卓の中央に魔法映像が浮かび上がり、ダークブラウンの髪に幼い顔立ち、訓練用の制服を着た一人の少年ノエル・メレディスの姿が映し出される。
その姿を目にした瞬間、ディオーネの身体が思わず前へと飛び上がり、ローザが冷ややかな目でディオーネを見る。
「学院長」
「何じゃ」
「座ってくださいませ」
「座っておる」
「身を乗り出さないでください」
「可愛い」
「戻ってください」
「映像じゃぞ? 抱きつけぬ」
「当たり前です」
教師数名が苦笑し、ヒストリアが咳払いした。
「……説明してもよろしいですか?」
「うむ」
「では」
映像が再生されると、静寂の中に歌声が流れ始めた。透き通るような中性的な声で歌うそれは、十二の歌の一つ──戦場へ向かう者へ送る戦歌だった。強く、美しく、気高い旋律。恐怖を消し去るためのものではない。恐怖を抱えたままでもなお前へ進む者の背中を、そっと押すためだけに紡がれた歌。
特別に大きな声でもなく、技巧を誇示するような歌い方でもない。ただ、それなのに不思議なほど耳に残る響きがあった。会議室で笑い合っていた教師たちも、その歌声に引き寄せられるように一人、また一人と口を閉ざしていく。レオンは椅子の背へと身体を預け、静かにその音へ耳を傾けていた。
「……上手いな」
ローザも僅かに目を細めている。
「本当に綺麗な歌声ですね」
歌が続く中、円卓に灯る魔法灯がほんの僅かにノエルの歌声へ呼吸を合わせるように揺れ、アミュが眉を寄せた。
「待て!…今の見たか?」
「ええ、そこです」
ヒストリアは即答し、映像を停止させた。続いて、空間には複雑な魔力波形が浮かび上がる。
「今回、ノエル君の召喚適性を測定している途中で偶然発見しました」
「何をじゃ?」
「歌唱時の魔力変動です」
ヒストリアが別の波形を重ねる。
「本人の魔力だけでは説明がつきません」
アドモンが身体を乗り出した。
先ほどまでとは違う、研究者の目。
「外部供給?」
「はい」
「誰から?」
「それが分からないんです」
分からないと言いながら、ヒストリアは楽しそうに微笑みを浮かべる。
「学院結界内に外部魔力源は確認されていません」
アミュがヒストリアの言葉に頷く。
「絶対ない。あったら僕が気づく」
「ですよね」
「なら地脈か?」
コンラッドの問いにヒストリアが微笑む。
「私も最初はそう考えました」
「違う?」
「地脈だけでもありません」
さらに巨大な図が浮かび上がる。学院地下の地脈、大気中に漂う魔力、周辺の森林に満ちる自然魔力、そしてそれらすべてを包み込むように循環する巨大な魔力の流れ。その全体像を前にして、ヒストリアの声は少し強張らせる。
「仮説段階ですが…ノエル君の歌は、地脈だけではなく、周囲の自然魔力そのものへ干渉している可能性があります」
「……それ、どのくらい珍しいんだ?」
レオンが軽く問いかける。
「現代魔法体系では、まず成立しませんね」
「ヤバいやつじゃねぇか」
「まだ断定はしていませんよ」
「ヒストリア先生がその顔してる時点で大体ヤバいんだよ」
「失礼ですね」
「褒めてる」
「なら許します」
ディオーネはそのやり取りには口を挟まず、静かに本題へ戻る。
「ルーベ村の歌と言ったな」
「はい」
「何曲ある」
「ノエル君の証言では十二曲です」
その数字に、ディオーネの目がわずかに細くなる。
「十二……」
ヒストリアは資料を展開しながら続けた。
「村では古くから伝わる民謡として扱われています。ノエル君自身も、それ以上の意味は知らないようです」
「全て歌えるのか?」
「本人いわく、歌詞がなくても全曲再現可能とのことです」
数人の教師が顔を見合わせる。ただの民謡としては、明らかに異常だった。
ヒストリアはさらに続ける。
「そして、地下封鎖区画に残されていたテラの魔力反応と、この歌の波形の一部に類似性が確認されています」
空気が変わる。ディオーネの表情から、軽さが完全に消えた。
「確かか」
「完全一致ではありません」
「割合は」
「約三割です」
「偶然と言えるか?」
「可能性はあります。しかし、調査対象としては十分に価値があります」
ヒストリアは冷静に結論づけた。
アドモンが顎に指を当てる。
「召喚士、テラの残留思念、古代守護機兵、十二の歌、そして妖精王のソルとルナ……全部、ノエル君の周囲に集まっている」
コンラッドの表情からも、いつもの軽さが消えていた。
「偶然で片づけるには、さすがに多いね」
「うむ」
ディオーネは短く頷き、視線を映像へと戻した。その眼差しはもはや一人の生徒の未来ではなく、世界規模の歪みそのものを見据えている。
映像の中ではノエルが歌っていた。女の子と間違われれば本気で怒り、学院長に抱きつかれそうになれば全力で逃げる。そんな年相応の反応を見せる、ただの十六歳の生徒にすぎない。
しかしその小さな肩には、本人の自覚のないまま、世界の異常が少しずつ積み重なり始めていた。
「……気に入らんのう」
ディオーネが低く呟く。
「何がです?」
ヒストリアが問い返す。
「世界というものを、十六の子どもに背負わせるにはあまりに重い。……ノエル本人には、まだ多くは伝えぬ方がよいな」
「同意します」
「現段階では仮説が多すぎますわ」
コンラッドとローザが静かに頷く。
「下手に自覚させれば、魔力制御に影響が出る可能性があります」
アミュも結論をまとめるように言った。
「なら決まりじゃな。調査は教師側で進める!本人には学院生活を楽しませる。それでよい」
ディオーネは軽く指を鳴らし、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「それが一番ですね。彼はまだ十六歳、子どもですから」
コンラッドも穏やかに笑った。ディオーネは再び映像へと視線を戻す。そこにはノエルの歌声が流れ、妖精王本来の姿であるソルとルナがノエルを守るよう側にいる。
「強くなりたいなら鍛えればよい」
「友が欲しいなら作れば良い」
ガレスが頷き、アミュが軽く笑う。
「恋がしたいなら──」「学院長」
ローザの鋭い声がディオーネの言葉を遮る。
「何じゃ」
「その話はお控えくださいませ」
「まだ何も言っておらぬ!」
「どうせ自分を候補に入れるつもりでしたでしょう!」
「なぜ分かった!?」
「分かりますわ!!」
会議室に笑いが広がる。
「六百歳差は犯罪だぞ、ロリババア」
レオンが軽く茶化す。
「誰がロリババアじゃああああ!!」
「事実を怖く言うのは脅しなんだろ?」
「お主だけは三億ボルトじゃ!!」
「待て待てそれは流石に死ぬ!」
雷光が弾ける。
「学院長! 会議室で雷撃は禁止です!」
「アミュ、結界を!」
「もう張ってる!」
「なんでそんな準備いいんだよ!」
「こうなると思ったからだ!」
「有能すぎるだろ!」
「褒めてる場合じゃありません!」
つい数分前まで世界滅亡を企てる組織について議論していたとは思えないほど、会議室は騒がしさに包まれていた。だがコンラッドはその光景を眺めながら、静かに笑みを浮かべる。
この人たちはいつもふざけている。くだらないことで言い争い、教師らしからぬ悪ノリを繰り返し、休日になれば平然と寝坊し、趣味に没頭し、時には生徒以上に子どもじみた騒ぎを起こす。
けれどもし明日、この学院に敵が現れるのなら、彼らは誰よりも早く生徒の前に立つだろう。一人たりとも奪わせないために、その命を懸けることを誰一人として躊躇しない。
それが王立アストル魔法学院の教師たちであり、生徒たちの───守護者だった。
☆
同じ頃、地下の特別保護室。
眠っていたカティアの指先がわずかに動き、呼吸が乱れる。額には汗が滲み、彼女は悪夢の中にいた。そこは暗闇だけが広がる空間で、その中にただ一人、黒髪に赤い瞳の男──ニグルムの姿が立っていた。
『……オウルアイ』
カティアは夢の中で膝をつく。
『申し訳……ございません…私は……必ず』
ニグルムは何も答えない。ただ冷たい赤い瞳で、自分を見下ろしている。
“捨てないで”という言葉が喉まで出かかったが、それを口にしてはいけないと自分に言い聞かせる。自分は忠実な部下であり、ニグルムの道具にすぎず、必要とされている限りにおいてのみ価値がある存在だ。だからこそ、その言葉は飲み込まなければならなかった。
『お願い……』
世界がゆっくりと色を失っていく。音は遠ざかり、光はにじみ、輪郭が崩れていった。足元から黒が滲み上がり、まるで深い水底へ引きずり込まれるように意識ごと沈んでいく。もう何も見えない。すべてが黒に溶けていこうとしたその時──
『カティア!』
別の声がした。ノエルの声だった。
振り返ると、そこには光に輝く光景が広がっていた。教室の明かり、笑い声、他愛のない会話、温かな食事の匂い、整然と並ぶ机、制服姿の自分、そしてノエルたちの姿。カティアは首を振った。
違う!私はオウルアイ…金糸雀挽歌の一員で世界を憎む者。……彼らとは違う
『カティア』
名前を呼ばれる。偽物の名、本物ではない名。それでも、どうしてその名を呼ばれることが、こんなにも──
現実の寝台の上で、カティアの唇から小さな声が漏れた。閉じた瞳の端から一筋の涙がこぼれ落ち、白いシーツへと吸い込まれて跡形もなく消えていく。けれど、その涙とともに生まれた感情だけは、もう彼女の中から消えることはなかった。




