☆1-22☆内通者
試験終了後、観客席に残っていた見学者たちは次々と退場していった。広い演習場には先ほどまでの戦闘の熱気が嘘のように消え去り、静寂と余韻だけが淡く残っている。その中をノエルはゆっくりと歩き出す。肩には小さな姿に戻ったソルとルナがそれぞれ乗り、いつものように寄り添っていた。すでに四体の守護機兵は魔力消費を抑えるために召喚を解除されていて、ノエルはそのまま、待機していたアルベルトたちのいる観客席へと向かった。
「歌、すごかったな!」
真っ先に駆け寄ってきたのはフィンで、目を輝かせながら興奮気味にノエルの肩を叩く。
「恥ずかしいから忘れろ」
「また聞きたい!」
「嫌だ!」
拒否するノエルに、フィンはまったくめげない。そのやり取りを見ながら、アイリスが静かに歩み寄った。
「見事な歌でしたわ」
「ありがとう」
「あなたがセイレーンと呼ばれていた理由も理解できました。確かに、あの容姿と歌声で誘惑されれば、老若男女問わず人生を誤る者もいるでしょう」
「そこは理解しなくていい!…ってか褒めながら酷いこと言うな!」
ノエルがツッコむと、アルベルトが間に入った。
「アイリス。言い方を考えろ」
「褒めています」
「どこがだ!」
『アルベルトは誘惑された?』
『顔が赤かった』
「されていない!」
「何の話だ?」
ノエルが首を傾げると、全員が一斉に視線を逸らした。
「何でもない!」
少し離れた場所からノエルの様子を見ていたシャスールが、静かに歩み寄り、彼のそばで問いかけた。
「村の歌、十二曲あるんだよね?」
「そうだよ」
「……あの戦歌以外も、同じ仕組みを持つ可能性が高い」
「仕組み?」
ノエルが首をかしげると、そこへヒストリアが話に割り込んできた。
「あなたの歌は、地脈から魔力を吸い上げていました!」
「は?」
「地脈の魔力を歌声へ取り込み、循環させ、整えた上で外へ返していたのよ!」
ヒストリアは興奮を隠さず、早口で説明する。
「意味が全然分からない」
「大丈夫よ!私も完全には分かっていないわ!」
「歴史学の先生が分からないなら、俺に分かるわけないだろ!」
「だから調べるのよ」
ヒストリアの瞳がきらりと光る。
「十二曲全部歌って頂戴!! 一曲ずつ測定するから!」
「嫌だ」
「……眠っている間に記憶から直接採取する方法も」
「絶対に嫌だ!」
拒否するノエルの横で、アミュはヒストリアの肩をがっしりと掴んだ。
「生徒の記憶を勝手に覗こうとしない」
「本人の同意があれば」
「取れそう?」
「…取れなさそう」
「じゃあ諦めて」
あっさりとした結論だった。
そのやり取りを見ていたシャスールが、ぽつりと呟く。
「歌は古代詠唱」
「シャスールは何か知ってるのか?」
ノエルがすぐに反応する。
「少しだけ」
「教えてくれ」
「まだ確証がない」
「じゃあ何で意味深に言った!」
「雰囲気」
「お前も存外適当だな!」
ノエルのツッコミに、シャスールは表情を変えずに肩をすくめた。その様子に、周囲から小さな笑いが漏れる。試験後の張り詰めていた空気が少しずつほどけていき、演習場にはいつもの穏やかな雰囲気が戻りつつあった。
その中で、ノエルはふと周囲を見回した。
「……あれ?カティアは?」
カティアの姿が見当たらず、ノエルは首を傾げたが、その問いにアイリスが落ち着いた声で答えた。
「保健室へ行くと言っていましたわ」
「そっか…じゃあ試験が終わったって伝えに行こう!」
ノエルがそう言った瞬間、別の声が割り込む。
「その必要はないよ」
背後からコンラッドの声が響く。
ノエルたちが振り返ると、そこに先ほどまで柔らかな笑みを浮かべていた担任教師の姿はなかった。代わりに、冷静で研ぎ澄まされた表情のコンラッドが立っている。
その隣にはローザ、レオンの姿も並び、教師たちが纏う空気は先ほどまでの穏やかなものとは一変していた。
「先生たち?何かあったの?」
コンラッドは一度、ゆっくりと周囲を見渡した。視線の先にいるのはノエル、アイリス、アルベルト、フィン、シャスール、そして生徒会の面々であり、その場に集まっている者たちの中で、生徒会を除けば全員がカティアと何らかの接点を持っていたのを確認する。
「カティア・リューゲンは、学院長とアドモン先生によって保護拘束された」
コンラッドが静かにそう告げた瞬間、場の空気が一気に張り詰めた。
「拘束?どういう意味だよ」
ノエルの声には理解が追いつかないというより、理解したくないという動揺が声に滲んでいた。
その問いに対し、アミュが落ち着いた口調で説明を引き継ぐ。
「今朝の称号測定器に、不審な観測術式が仕込まれていたのは覚えているな?」
彼は一度言葉を区切り、続ける。
「その術式はノエルの測定時だけ起動する仕組みだった。そして発動した結果、逆流した魔力が仕掛けた本人、あるいは術式と接続していた者へ損傷を与えた可能性がある」
その説明を聞いた瞬間、ノエルの胸の奥で嫌な感覚が強く跳ねた。カティアの名が脳裏に浮かび、今朝の彼女の姿が鮮明に蘇る。顔色は悪く、右腕を隠すようにしていたこと、そして触れようとした瞬間に明確に拒絶されたこと。その時にはただの体調不良だと思っていた違和感が、今になって一本の線として繋がっていく。
「まさか……カティアの腕に?」
ノエルの声はかすれていた。その問いに、コンラッドは静かに肯定し、アルベルトの表情も一気に強張った。
「測定器から逆流した魔力と一致する損傷が確認されている」
「でも……何かの間違いじゃ…」
ノエルは必死に否定するような声を上げたが、ローザは容赦なく現実を突きつけた。
「現在、事情を確認中です。ただし──カティア・リューゲンという身分そのものが偽装である可能性が高いと判断されています」
その言葉に、場の空気が完全に沈黙した。
アイリスが眉をひそめる。
「偽名……ということですの?」
「そうです。年齢、出身、称号、そのすべてに不審な点が見つかっています。身元は現在、学院側で再調査中です」
ローザの声は冷静でありながら厳しさを含んでおり、場には重い沈黙が広がった。やがて、その静寂を破るようにノエルが一歩前へと踏み出した。
「…拘束って言ったよな?カティアは怪我してたんだろ?」
その問いに、コンラッドが頷き答える。
「治療は行われているよ」
そして、少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「学院へ危害を加える可能性がある人物であることは否定できない。けれど同時に、負傷者を保護するのも教師の役目だ」
「痛いことして聞き出したりはしないよな」
ノエルのその問いに、コンラッドは一切の迷いなく首を振った。
「しないよ。僕たちは教師だからね」
その言葉だけが、重く静かに場へ落ちた。それは昨夜、地下神殿で耳にした言葉とまったく同じ響きを持っていた。教師は学院の生徒を守護する守護者である。たとえ疑いのある相手であっても、生徒として学院に在る以上、そして傷ついているのなら、まず守る───その理念が、改めて胸の奥に深く刻まれていく。
「ただし、彼女が他の生徒を傷つけるために入り込んだなら、話は別だ。目的が分かるまで、自由にはできない」
アミュの青い瞳が鋭くなり、普段の豪快で兄貴肌な表情は消えていた。そこにあるのは、学院全体を守る結界師としての顔だった。
「カティアは…」
ノエルは小さく呟いた。昨日の出来事や今朝の光景が、頭の中で何度も繰り返される。入学試験で助けたこと、朝食を共にしたこと、わずかに笑い合ったこと、体調を気遣ったこと、そして仲間だと思えた時間。その一つひとつが、まるで手の中の砂のように静かにこぼれ落ちていく。あの時間は本当にすべてが嘘だったのか。
「何のために学院へ?」
ノエルの問いに、コンラッドは一拍置いてから静かに答えた。
「まだ分からない。ただ、測定器の術式は君の情報を狙っていたことは確実だ」
「俺を?」
ノエルが眉をひそめると、コンラッドは淡々と続けた。妖精王二体と契約する召喚士という事実を前提に、最初から仕込まれていた可能性が高いというのだ。
シャスールはノエルたちからそっと目を逸らした。
カティアの腕に残る異質な魔力にはすでに気づいていたが、それを誰にも告げることはなかった。その理由を自分でも明確に説明することはできない。ただ一つ確かなのは、彼女の内面で起きている変化を感じ取っていたからである。
昨日時点でのカティアの感情は任務と利用意識に支配されており、ノエルに対しても警戒と冷徹さしか存在しなかった。しかし時間が経つにつれ、その内側にわずかな揺らぎが生まれていくのを“観て”いた。罪悪感、戸惑い、そして温かさに触れることへの恐れ、それらが混ざり合い、彼女の在り方そのものを少しずつ変えていった。
その結果、敵であるはずのカティアは、いつの間にか完全な敵とは言い切れない存在へと変わりつつあった。
「ノエル、大丈夫か?」
フィンが静かに呼びかける。
「分からない。騙されてたなら、怒るべきなんだろうけど…」
カティアの笑顔を思い出す。小さく、不慣れで、それでも確かに笑っていた。
「…あの笑顔も全部、嘘だったのかな」
ノエルの問いに誰も答えられなかった。
────
───
──
第二訓練場でノエル・メレディスの召喚獣登録試験の戦闘が行われていた頃、王立アストル魔法学院の本棟地下では、特別保護室が静かに機能していた。
そこは白一色で統一された空間であり、壁・床・天井から医療器具に至るまで徹底した清浄さを保っている。しかし本質は医務室ではなく、無数の術式によって魔力通信・転移・召喚・精神干渉などあらゆる干渉を遮断する完全封鎖空間だった。さらに中央の透明結界は治療用であると同時に、対象を拘束するための装置でもある。
その内側に、カティア・リューゲンが椅子に座っていた。
右腕には包帯、眼鏡は外され、薬の影響が薄れたことで髪の一部は本来の鮮やかなピンクへ戻りつつある。彼女は俯きながらも周囲を冷静に観察し、逃走経路を瞬時に計算していたが、結界構造と配置から脱出は不可能だと理解していた。
正面には二人。
錬金術師アドモン・メディシンと、そして学院長ディオーネ・ジュピター。
小柄で幼い少女のような外見を持つディオーネは、柔らかな雰囲気で椅子に座っているだけに見える。しかしカティアは、その見た目に一切の油断を抱かなかった。外見と実力が一致しないことを、彼女は本能的に理解していた。
(結界を破る……無理)
視線だけで構造を読む。
(アドモンを人質に取る。これも無理。あの男、見た目に反して隙がない)
精神干渉、仕込み杖の奪取、床への破壊術式、仮死による搬送誘導、治療時の隙を突いた逃走──頭の中で十を超える脱出経路が瞬時に組み上がっていくが、そのどれもが最終的には同じ結論へと収束していく。
ディオーネという存在がいる限り、どの選択肢を取ろうとも結果は変わらないのだと、カティアは直感していた。
(……動いた瞬間に終わる)
雷が落ちる──それは予測ですらなかった。
どう逃げるかを考えたその先には、必ず自分が地面に倒れている光景がある。まるで最初から決まっている未来のような感覚だった。
カティアはわずかに指を握りしめる。室内は静まり返っている。だがその静寂の奥には、深海に沈められたかのような重圧が確かに存在していた。
そして、その沈黙を破るようにディオーネが口を開いた。
「さて。まずは、名を聞こうかの」
「……カティア・リューゲン」
迷いなく答えたその瞬間、隣で記録用の魔道具を操作していたアドモンの指先がぴたりと止まる。ディオーネは表情を変えないまま、静かに首を横へ振った。
「それは偽名じゃ」
「……では、オウルアイ」
「それも暗号名じゃな。本来の名は?」
カティアの瞳がわずかに細くなる。
それは恐怖ではなかった。もっと深い領域に、無遠慮に踏み込まれたような鋭い警戒だった。
「……一体、どこまで知っているの」
「ほとんど知らぬよ」
「信じろと?」
「信じるかどうかはお主の自由じゃ。ただのう、お主が一人で思いついて学院へ入り込んだとは思っておらん」
カティアの呼吸がごく僅かに乱れた。それは見逃せるほどの微細な変化だったが、アドモンは即座にそれを捉えていた。眼鏡の奥の視線が一瞬だけカティアへと向かい、その周囲に漂う魔力へと移る。感情の揺れに呼応するように、魔力波形が細かく乱れているのが見て取れた。
「私の所属する組織の名でも聞きたいのかしら」
「話してくれるなら聞くぞ」
「ハッ、言うわけないでしょ?断るわ」
「そうか」
カティアは思わずディオーネを見る。
「……それだけ?」
「それだけじゃ」
ディオーネは肩をすくめる。
「話したくない者へ、話せ話せと言い続けても疲れるだけじゃろ」
「普通、尋問する側が言う?」
「わしは年寄りじゃから疲れやすい」
「六百年以上生きてるくせに」
口から出た瞬間、カティアは自分の言葉に気づき、目を見開いた。昔と同じ調子で思わず突っ込んでしまっていたのだ。ディオーネの眉がぴくりと動くのを見て、カティアは咄嗟に視線を逸らした。
「……何でもないわ」
「ほう」
「何よ」
「いや?」
ディオーネは妙に嬉しそうに目を細めた。
「……ああ、そうじゃた!実はのぉ…わしはこの学院へ来た可愛い生徒のことは、昔からよく覚えておる」
カティアの顔が僅かに強張る。
「……何の話?」
「入学してきた者も。卒業していった者も。途中で学院を去った者も全てじゃ………お主は今も昔も可愛いなぁ?」
空気が止まった。カティアの顔から警戒心が一瞬だけ消え、代わりに浮かんだのは純粋な困惑だった。
「……は?……人違いじゃないですか?」
「いやいや、わしの“かわいこちゃんセンサー”を舐めるではない!可愛いノエルの召喚獣登録試験を見ようと思って客席へ向かったら、お主がおったので驚いたぞ」
(……見た目も中身も昔から何も変わってないじゃない、この人)
恐怖が一瞬で呆れに変わり、隣でアドモンが盛大なため息をつく。
「学院長」
「何じゃ」
「話が脱線しています」
「しておらぬぞ」
「しています」
「可愛いは重要じゃ」
「今は尋問中です」
「尋問においても可愛いは大事じゃろ」
「初耳です」
「今わしが決めた」
「勝手に決めないでください」
アドモンは額を押さえ、カティアは二人を見比べる。
(……何なのよ、この空気)
もっと違うものを想像していた。罵倒、暴力、脅迫、魔術による強制自白、場合によっては処刑。潜入任務に失敗し、正体まで露見したのだから、それくらいされても不思議ではないはずだった。なのに目の前で繰り広げられているのは、学院長と教師による、どうしようもない言い争いだった。
「さて、今後についてじゃな」
ディオーネが突然カティアへ視線を戻した瞬間、空気がわずかに変わった。表情も声色も先ほどと変わらず穏やかなままだったが、それでもカティアの背筋には自然と力が入った。
「……これから私をどうするつもり?」
「まず休ませる。話せる状態になったら、また話を聞こう」
「答えなければ?」
「また休ませる」
「いつまで?」
「答えたくなるまでじゃ」
「……気長ね」
「年寄りじゃからの」
「さっき疲れやすいって言ったじゃない」
「待つのは得意じゃ」
「都合が良いわね」
どこまでも調子を崩される。
けれどカティアは理解していた。逃がすつもりなど毛頭ないのだと。ディオーネは最初から自分を完全に掌の上へ置いている。それなのに、壊す気配だけはない。その一点がどうしても分からなかった。
敵なら排除する。利用できるなら利用する。役目を果たさないなら捨てる。
カティアにとっては、その方が遥かに理解しやすかった。
「……私が生徒を殺そうとしたかもしれないのよ」
「そうかもしれぬ」
「学院そのものを壊すつもりだったかもしれない」
「そうかもしれぬな」
「なのに、こうして寝かせて、治療して、拷問もなし。自白剤もなし。…学院というのは随分と生ぬるいのね」
カティアの口元に浮かんでいた嘲笑は、次の瞬間にはすっと消えた。空気が一変し、まるで世界そのものが息を止めたかのような静寂が落ちる。ディオーネは動いていない。魔力すら放っていない。
それなのに、身体が本能的に警告を発していた──逃げろ、と。だが、逃げ場はどこにもない。ただ、小さな少女の顔から笑みだけが消えていた。
「誤解するでない。わしらは優しくあろうとはする。じゃが、甘くはないぞ。お主がこの学院の生徒を意図的に傷つけたと確認されれば──わしは容赦せぬ」
薄黄緑色の瞳が、まっすぐカティアを射抜いた瞬間、皮膚の上を冷たいものが這うような感覚が走った。そこにあったのは脅しでも怒鳴り声でもない、もっと静かで、だからこそ恐ろしいものだった。単なる事実の提示。明日は朝日が昇ること、水は低い方へ流れること、そして生徒を傷つける者はディオーネ・ジュピターが排除するということ。その三つは同列の、揺るぎない現実として並べられているだけだった。カティアは、その瞬間に理解した。
(……そうだった…昔からこの人はそうだった。ふざけて笑い、可愛い生徒を追いかけ回しては他の教師たちに怒られているような存在なのに、ひとたび生徒が傷つけられれば──誰よりも恐ろしい女性)
「学院長、それ、普通に脅しですよ」
アドモンが軽く息を吐く。
「脅しではない」
「今のはどう聞いても脅しです」
「事実じゃ」
「事実を怖く言うことを脅しって呼ぶんですよ」
「最近の若者は細かいのう」
「細かくないですよ」
ふっと重圧が消え、カティアは自分でも気づかぬうちに止めていた息を静かに吐いた。ディオーネは何事もなかったかのように、再び穏やかな表情へと戻っていた。
「じゃがな」
「……何よ」
「今のお主は傷ついておるそして学院の制服を着ておる」
「これは潜入用、私は偽物の学生よ」
「それでも授業を受け、教室へ座った。友と話した」
言葉が止まった。脳裏に浮かぶのは、ノエル自分よりずっと年下で、くだらなくて、騒がしくて、鬱陶しいほど真っ直ぐな子どもだった。
「……そんなもの」
否定しようとした。けれど、言葉は途中で途切れた。任務だった、偽装だった、演技だった。……そう言ってしまえば簡単なはずなのに、彼らの前で笑って過ごした時間まで偽物だと断言することだけは、なぜかできなかった。そんなカティアの揺らぎを見透かすように、ディオーネの声がふっと柔らかくなる。
「教師というものはな、傷ついた者がおれば治療する。それ以上の理由など、要らぬ」
(……また)
ノエルと同じだった。条件もつけず、対価も求めず、理由すら並べ立てないまま、ただ勝手に手を差し伸べてくる。たとえ相手が自分たちを裏切ろうとしていた人間であっても、その姿勢は変わらない。意味が分からないし、理解したくもなかった。
「……気持ち悪い」
「む?」
「あなたたち、気持ち悪いわ」
吐き捨てるように言った言葉にアドモンは肩をすくめた。
「ああ、それはよく言われますよ」
「嘘ね」
「ええ。今初めて言われました」
「どっちなのよ!」
「元気が戻ってきたようじゃな」
「……最悪」
カティアは顔を背けた。
胸の奥では、怒りとも恐怖ともつかない感情が渦を巻いている。
これまで、自分の生きる意味はただ一つだった。ニグルム。絶望の底にいた自分へ手を差し伸べ、かつて愛した人の面影を持ちながら、世界を憎む自分を否定せず、ただ居場所だけを与えてくれた存在。
だからこそ、命すら差し出せると思っていた。それだけで十分だったはずなのに。
しかし今、その確信が揺らいでいる。
ノエルたちと過ごした、ほんの僅かな時間。人生全体から見れば瞬きほどの出来事のはずなのに、それは消えず、異物のように胸の奥へ残り続けていた。
「……今更…どうしてよ」
カティアは俯き、誰にも届かないほど小さく呟いた。




