☆0-5☆旅立ち
荷台を兼ねた客室には簡素ながらもしっかりとした屋根が取り付けられており、直射日光や雨風を防げるようになっている。左右には木製の長椅子が設置され、多少の揺れはあるものの、人を運ぶには十分な造りだった。旅立ちのための準備はすでに整っており、あとは出発の合図を待つばかりである。
御者台には白い髭を蓄えた年配の男が腰を下ろし、手綱を軽く握りながら周囲を見渡していた。普段は静かな村の入口に、これほど多くの人が集まっている光景に、彼は思わず目を丸くする。
「今日は祭りかい?」
御者は半ば冗談めかして問いかけるが、その視線は明らかに驚きを含んでいた。
「俺の見送りらしいです」
ノエルは肩をすくめながら答える。自分でもこの人数には少し気後れしていた。
「ずいぶん人気者だな」
御者は感心したように頷く。
「俺、というより肩の二人が」
ノエルは苦笑しながら、自分の両肩へ視線を向ける。
『妾たちが主役』
『ノエルは付属品』
ソルとルナは当然のように言い放つ。
「契約者への敬意はどこへ行った!」
ノエルは思わず声を上げるが、そのやり取りに周囲の村人たちから小さな笑いが漏れた。
ノエルは苦笑を浮かべたまま、荷物を馬車の後部へと積み込んでいく。旅に必要な衣類や道具に加え、村の人々から渡された差し入れも多く、荷台は思った以上に賑やかになっていた。
その中でもひときわ目立つのが、ソルとルナのために用意された大量の菓子である。袋や箱に詰められたそれらは、ひとつの鞄を丸ごと占領していた。
「絶対に全部食べるなよ」
ノエルは念を押すように言う。
『保存食』
『必要な栄養』
二人は真顔で答える。
「お菓子を栄養と言い張るな!」
やがて、ざわめいていた空気が少しずつ落ち着き、出発の時刻が近づいてくる。村人たちも自然と道の両脇へと下がり、馬車の進路を空けていった。
ノエルは深く息を吸い込み、胸の奥にある緊張と期待を押し込める。そしてゆっくりと歩き出し、家族の前へと向かった。
フォーガスは腕を組んだまま、いつものように無骨な姿勢で立っている。セキレイは穏やかな微笑みを浮かべ、息子を見つめていた。リーナは平静を装っているものの、どこかぎこちない表情が隠しきれていない。
「父さん」
ノエルが声をかけると、フォーガスはわずかに顎を引いた。
「剣の手入れを忘れるな」
短く、しかし重みのある言葉だった。
「分かってる」
「刃こぼれさせたら帰ってこい」
「修理のために?」
ノエルは軽く笑いながら問い返す。
「俺が叱るためだ」
真顔で返される。
「そっちかよ」
ノエルは苦笑した。
フォーガスは短く息を吐き、ノエルの肩を一度だけ強く叩く。その一撃には、言葉以上の想いが込められていた。
「行ってこい」
「ああ。行ってくる」
ノエルはしっかりと頷いた。
次に、ノエルはセキレイの前へと立つ。母の優しい視線が、まっすぐに自分へ向けられているのを感じた。
「母さん」
「顔をよく見せてください」
「昨日も見ただろ」
「今日のノエルは、昨日のノエルとは違いますから」
「一日でそんなに変わらないよ」
「旅立つ決心をした顔になっています」
その言葉に、ノエルは少しだけ言葉を失った。
セキレイはそっと両手を伸ばし、ノエルの頬へ触れる。その指先は温かく、幼い頃から変わらない優しさを伝えてきた。
「あなたがどれほど遠くへ行っても、ここがあなたの家です」
「うん」
「疲れた時は、帰ってきてください」
「分かった」
「逃げてもいいのですよ」
その言葉に、ノエルはわずかに目を見開いた。予想していた励ましとは違う言葉だったからだ。
セキレイは優しく微笑みながら続ける。
「逃げるのは、悪いことじゃありません。生きていれば、また歩き出せますから」
ノエルは胸元に下げたお守りへと手を添えた。そこには、この家で過ごした日々が詰まっている。
「帰る場所は忘れないよ」
「はい」
セキレイは静かに息子を抱きしめた。その瞬間、懐かしい香りがふわりと広がる。幼い頃、眠れない夜に包まれたあの温もりと同じだった。
ノエルはそのぬくもりを胸に刻み、ゆっくりと母から離れる。そして最後に、リーナの前へと向き直った。
「リーナ」
「何?」
「留守を頼んだ」
「言われなくても大丈夫」
少し強がるような口調だった。
「父さんと母さんを困らせるなよ」
「それ、お兄ちゃんに言われたくない」
「朝は自分で起きろよ」
「起きられるよ」
「俺の部屋、勝手に使うなよ」
「明日から物置にする予定」
「やめろ!」
「冗談」
リーナはいつものように笑った。その笑顔は、どこか無理をしているようにも見えたが、それでも確かにいつもの妹で、ノエルも笑い返す。
「じゃあな」
「うん」
短い言葉のやり取りだったが、その中には言葉にしきれない想いが詰まっていた。
ノエルは振り返らず、馬車へと乗り込む。窓際の長椅子へ腰を下ろし、ソルとルナを両肩へ乗せた。
御者が手綱を握り直し、声を張り上げる。
「出すぞ!」
その合図とともに、馬車の車輪がゆっくりと回り始める。軋む音が静かな朝の空気に響き、馬車は前へと進み出した。
村人たちが一斉に手を振る。
「頑張れよ、ノエル!」
「手紙を送れ!」
「ソルちゃん、ルナちゃん、元気でね!」
『また会おう』
『菓子をありがとう』
「だから俺にも何か言ってくれ!」
「顔と歌だけで生きていくなよ!」
「最後までそれか!」
笑いと声援が入り混じる中、馬車はゆっくりと進み続ける。見慣れた家々が、少しずつ後ろへと遠ざかっていく。土の匂い、朝の空気、すべてが名残惜しく感じられた。
ノエルは窓から身を乗り出し、大きく手を振る。
「行ってきます!」
その声に応えるように、さらに多くの手が振られた。
村人たちの姿が徐々に小さくなっていく。その中には、父と母の姿もある。そして、リーナも。
先ほどまで笑っていた妹は、動き出した馬車をじっと見つめていた。
やがて、その表情が歪む。
「お兄ちゃん!」
叫び声が響いた。リーナが走り出し、人々の間をすり抜け、必死に馬車を追いかけてくる。
「リーナ!?」
ノエルはさらに身を乗り出した。リーナは泣いていた。両手で涙を拭いながら、それでも足を止めずに走り続けている。
「待って! お兄ちゃん!」
「危ないから走るな!」
ノエルは叫ぶが、リーナは首を振る。
「絶対!」
息を切らしながら、リーナが叫ぶ。
「絶対、帰ってきて!」
その言葉が胸に突き刺さる。リーナは最後まで笑って見送ろうとしていたのだ。兄を安心させるために、自分の寂しさを押し殺して。
「お兄ちゃん!」
ノエルは窓枠を強く握りしめる。
「帰ってくる!」
街道に響くほどの声で叫んだ。
「絶対に帰ってくるから!」
「約束だよ!」
「約束する!」
「怪我しないで!」
「努力する!」
「変な女の人や男の人についていったらダメだからね!」
「最後に言う言葉はそれか!」
涙を流しながら、それでもリーナは笑い、やがて足が止まる。それでも両手を大きく振り続けていた。
その隣へ母が追いつき、娘の肩を抱く。父は少し離れた場所に立ち、無言で拳を上げた。
ノエルも同じように拳を上げる。
馬車は進み続け、村が遠ざかり家族の姿が小さくなっていく。
やがて街道が緩やかに曲がり、すべてが木々の向こうへと隠れていった。ノエルはゆっくりと座席へ戻る。急に静かになった車内で、胸元のお守りを握りしめた。
「出発したんだな」
ぽつりと呟く。
『寂しい?』
ルナが静かに問いかける。
「少しだけな」
『泣く?』
ソルが続ける。
「泣かない」
『鼻が赤い』
「風が当たっただけだ」
『目も赤い』
「砂が入った」
『両目に?かなり器用』
「うるさいな!」
ノエルは袖で目元を拭った。
「男が少し泣いたっていいだろ」
『最初からそう言えばいい』
『ノエルは強がり』
「分かってるなら追い詰めるなよ」
二人はノエルの左右の頬へ寄り添った。手のひらサイズの体から、柔らかな温もりが伝わってくる。
『妾たちがいる』
『一人ではない』
「知ってる」
ノエルは小さく笑った。
「これからも頼むな、ソル、ルナ」
『任せるがよい』
『菓子がある限り』
「忠誠心を菓子で維持するな!」
ノエルは呆れたように肩をすくめながらも、その口元には確かな笑みが浮かんでいた。馬車は一定のリズムで揺れ続け、車輪の音が静かな街道に溶け込んでいく。遠ざかる故郷の景色はもう見えないが、胸の奥には確かに残っていた。握りしめたお守りの温もりと、肩に感じる小さな存在の重みが、これからの旅路を支えてくれると信じながら、ノエルはゆっくりと前を見据えた。
☆
馬車は、王都へと続く街道をゆっくりと進んでいた。
車輪が石畳を軽やかに叩く乾いた音と、馬の蹄が規則正しく地面を打つ音が重なり合い、一定のリズムを刻んでいる。その音は耳に心地よく、単調でありながらも不思議と飽きることがない。馬車の揺れもまた穏やかで、最初こそ身体が振られる感覚に戸惑いを覚えるものの、しばらくすれば自然とその動きに身を委ねられるようになる。長旅に慣れていない者であっても、やがてはその揺れに安心感すら覚えるだろう。
ルーベ村を離れてから、すでにそれなりの時間が経っていた。
出発直後は、見慣れた畑が左右に広がっていた。土の匂いと、風に揺れる作物のざわめきは、どこか懐かしさを感じさせるものだった。しかし、馬車が進むにつれて、その景色はゆっくりと変化していく。畑は次第に途切れ、代わりに背の高い木々が並ぶ森が現れ、さらに進めば視界の開けた草原が広がる。森と草原が交互に現れるその風景は、単調になりがちな旅路にささやかな変化を与えていた。
街道はよく整備されている。馬車が二台並んですれ違えるほどの幅があり、石畳も比較的均一に敷かれているため、走行は安定していた。道の脇には、旅人のための道標が一定間隔で設置されており、王都までの距離や分岐点が分かりやすく示されている。遠くには、同じように王都を目指していると思われる旅人の姿も見えた。徒歩の者、荷車を引く者、別の馬車に乗る者──その姿は様々だが、この道が決して孤独なものではないことを感じさせるには十分だった。
馬車に乗っているのは、ノエルを含めて四人。
一人は行商人らしい中年の男性で、日に焼けた肌と落ち着いた物腰が印象的だ。もう二人は穏やかな雰囲気をまとった老夫婦で、互いに寄り添うように座っている。荷台には布や食料、日用品などが積まれており、長い旅を続けてきたことを物語っていた。
行商人は、村人たちから持たされた大量の荷物を見て、感心したように笑った。腕を組みながら、その山のような荷物を眺めている。
「大した見送りだったな」
その言葉を聞いたノエルは、少し照れたように頭をかいた。脳裏には、見送りに来てくれた村人たちの顔が次々と浮かぶ。
「村を出るのが俺くらいしかいないんです」
「学院へ行くんだろ?」
行商人は興味深そうに身を乗り出す。ノエルは一瞬だけ言葉を選び、姿勢を正した。
「はい」
普段であれば、年上相手でも気にせずタメ口で話すことが多い。しかし、初対面の相手には一応丁寧に話そうとしているらしく、その分だけ声がわずかにぎこちなくなる。
「王立アストル魔法学院です」
「そりゃすごい。貴族の子どもでも簡単には入れないところだ」
行商人は目を丸くし、素直に感心した様子を見せた。その反応に、ノエルは少しだけ視線を逸らす。
「入ってから通用するかは分からないけど」
「合格した時点で胸を張っていい」
その言葉に、ノエルは小さく息を吐いた。張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
行商人はそう言ってから、ノエルの肩にいる二人へと視線を移した。小さな存在に興味を引かれたようだ。
「その子たちは妖精か?」
ノエルの肩にちょこんと座っていたソルとルナが、同時に顔を上げる。無表情のまま、淡々と名乗った。
『陽の妖精王、ソル』
『陰の妖精王、ルナ』
「ほぉ、王様なのか」
行商人は思わず苦笑する。すると二人は当然のように頷いた。
『妾たちとても偉い。菓子が欲しい』
『崇めてよい。菓子を献上しろ』
ノエルは即座に顔をしかめ、肩を揺らして抗議する。
「お前たち、初対面の人に何を要求してるんだ!」
慌ててツッコむノエルの様子に、行商人は愉快そうに声を上げて笑った。
「なるほど。特殊な称号持ちってわけか。妖精を二人も連れてる奴なんて、普通はいないからすぐ分かるな」
「確かに」
納得したように頷くノエル。その横でソルとルナが淡々と続ける。
『ノエルは珍しい』
『一六歳なのにここまで女顔で、声も中性的なのが珍しい』
ノエルは即座に顔をしかめた。
「俺の顔と声は関係ない!」
そんなやり取りをしているうちに、村を離れたばかりの寂しさは、少しずつ薄れていった。馬車の中には自然と笑い声が広がり、空気が柔らかくなっていく。
窓から差し込む光は暖かく、穏やかな揺れと相まって、心地よい眠気がじわりと身体を包み込んでくる。
ソルとルナはノエルの膝の上に移動し、早くも村人からもらった焼き菓子の袋を開けていた。小さな手で器用に袋を広げ、中身を覗き込む様子はどこか楽しげだ。
「もう食べてるのか?」
ノエルは呆れたように眉をひそめる。二人は当然のように答えた。
『旅は体力を使う』
『補給が必要』
「馬車に乗ってるだけだろ」
ノエルがツッコむと、ソルとルナは一瞬だけ考えるように間を置いた。
『飛ぶと疲れる』
『だから飛んでいない』
ノエルは思わず声を荒げる。
「余計に体力を使ってないじゃないか!」
二人は気にする様子もなく、焼き菓子を齧る。小さな咀嚼音が静かに響いた。その音を聞きながら、ノエルは窓の外へ視線を向ける。流れていく景色をぼんやりと眺める。
王都までは三日。学院ではどんな仲間に出会うのか。レオンは自分のことを覚えているのか。召喚士として、もっと強くなれるのか。
ノエルは腰に差した剣へ触れ、次に胸元のお守りへ手を当てた。指先に伝わる感触が、確かな現実を教えてくれる。前へ進むための剣と帰る場所を示すお守り、その両方が、自分にはある。
ノエルは小さく息を吸い込み、静かに吐き出した。
「大丈夫だ… 何とかなる」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
その言葉に、肩の上から冷静な声が落ちてくる。
『根拠は?』
ソルが問いかける。ノエルは一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに答えた。
「ない」
『危険な考え方』
ルナが淡々と言った。ノエルは顔をしかめる。
「少しくらい前向きにさせろ!」
その時だった。
「おい!」
御者が突然、緊張を帯びた大きな声が響く。
馬車が急停止をして、車輪が軋み、身体が前へ引っ張られる。
「うわっ!」
ノエルの体が前へ投げ出される。慌てて座席へ手をつき、どうにか転倒を免れた。荷物がわずかに揺れ、老夫婦も驚いたように身を寄せ合う。
ソルとルナは焼き菓子の袋を抱えたまま、ふわりと空中へ浮かぶ。軽やかに衝撃を避けていた。
『危なかった』
『妾たちの菓子が』
「いや、俺の心配をしてくれ!」
馬が不安そうに嘶いている。御者は手綱を強く引き、街道の先をじっと見つめていた。空気が一気に張り詰める。
「どうしたんですか?」
ノエルは窓から身を乗り出す。視線を前方へ向ける。視線の先、街道の少し先の森の影が道へ落ちている場所に、黒いものが見えた。
荷物ではない、獣でもない…人だ。一人の青年が、道端に倒れている。
黒い髪に、旅人らしい黒い外套。顔は地面へ向けられ、まったく動く気配がない。風に外套の裾がわずかに揺れているだけだった。
「行き倒れか……?」
御者が警戒した様子で呟き、手綱を握る手に力がこもっていた。ノエルは馬車の扉へ手をかけ、助けるべきかどうか、一瞬の迷いがよぎる。
その時、肩の上から低い声が落ちた。
『待って』
ソルの声が低くなる。普段とは違う緊張が滲んでいた。ルナも焼き菓子の袋を閉じ、倒れている青年をじっと見つめていた。青い瞳が鋭く細められる。
『あの人間』
『普通ではない』
風が吹いた。
青年の黒髪が揺れる。
その隙間から、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。鮮血のように赤い瞳が、真っ直ぐにノエルを映した。




