☆0-4☆ルーベ村
鍛冶場の重たい扉を押し開けると、外の空気が一気に流れ込み、昼の陽射しが鋭く目に刺さった。炉の熱気に包まれていた身体が急に冷やされ、ノエルは思わず目を細める。遠くからは村人たちの話し声や、風に揺れる畑の葉擦れの音が聞こえていた。
明日の朝には村を出る。
その事実が胸の奥で静かに重みを増していく。そう思うと、見慣れた家も畑も、道端の古びた柵さえも、いつもより鮮明に見えた。何気なく通り過ぎていた景色が、一つひとつ記憶に刻まれていくように感じられる。
ノエルは父からもらった剣を腰へ下げた。革のベルトに固定された鞘が、歩くたびに鞘が足へ当たり、自分が本当に旅立つのだという実感を与えてくる。その重みは、ただの鉄ではなく、父の想いそのもののように感じられた。
『似合ってる』
頭上をふわりと飛びながら、ルナが静かに言った。陽の光を受けて、彼女の金髪が淡く輝いている。
「そうか?」
ノエルは少し照れくさそうに視線を逸らしながら答える。
『剣だけは立派』
すぐ隣で、ソルが淡々と続けた。表情は変わらないが、言葉は容赦がない。
「俺も一緒に褒めろよ」
ノエルは不満げに眉を寄せる。
『今後に期待』
ソルは間を置かずに言い放った。
「入学前から評価が厳しい!」
ノエルの抗議が青空へ響いた。
家へ戻ると、木製の扉を開けた瞬間、柔らかな布の匂いと糸の香りが漂ってきた。居間の机には色とりどりの布や糸が広げられ、窓から差し込む光がそれらを優しく照らしている。
セキレイとリーナが並んで座り、小さな袋へ最後の縫い目を入れていた。二人とも真剣な表情で針を動かしていた。
「あら、戻ってきましたね」
セキレイが顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべながらノエルを見る。その視線は自然とノエルの腰の剣へ向けられた。
「よく似合っています」
「母さんまで剣だけ褒めるのか?」
ノエルは肩を落とす。
「ノエルにも似合っていますよ」
「言い直された気がする」
「お父さんが三日間、ほとんど寝ないで作ってたんだよ」
リーナが針を布へ通しながら何気なく言った。
「三日間も?」
「リーナ」
背後から入ってきたフォーガスが低い声を出す。腕を組み、少し気まずそうな顔をしていた。
「それは言うな」
「なんで?」
リーナは首を傾げる。
「格好がつかん」
「父さんでも、そういうの気にするんだな」
「気にしてない」
「今言っただろ」
ノエルの即座のツッコミに、フォーガスはわずかに視線を逸らした。
セキレイが穏やかに笑い、完成した小袋を持ち上げる。光を受けて布の色がやわらかく浮かび上がった。
掌に収まるほどの大きさで、深い緑色の布から作られている。表面には少し歪んだ黄色い鳥と、小さな太陽と月が刺繍されている。
「こちらは、私たちからです」
「お守り?」
ノエルは興味深そうに身を乗り出す。
「はい。旅の安全を願って作りました」
セキレイは優しく頷いた。
ノエルは机の前へ座る。椅子がわずかに軋む音がした。
セキレイが袋の口を開き、中身を一つずつ見せる。最初に出てきたのは乾燥させた数種類の香草で、ほのかに爽やかな香りが広がる。
「これは魔除けの香草です。森の近くを歩く時、嫌う魔物が多いそうですよ」
「母さんが採ったのか?」
ノエルは香草を覗き込みながら尋ねる。
「ええ。リーナと一緒に」
「わたしが見つけて、お母さんが崖から落ちかけた」
リーナがさらりと言った。
「少し足を滑らせただけです」
セキレイは平然としている。
「崖で足を滑らせるのは、少しじゃないよ!」
ノエルが思わず声を上げる。
「怪我はありませんでしたから」
「そういう問題じゃない!」
ノエルが顔を引きつらせると、セキレイは不思議そうに首を傾げた。
普段はおっとりしているが、時折大胆な行動を取る。その様子を見て、父が母に惚れ込み冒険者を辞めた理由の一つは、目を離すと危なっかしいからではないかとノエルは思った。
「次は、家族全員の髪です」
セキレイは細い糸で束ねた四種類の髪を見せた。
フォーガスとノエルとリーナのダークブラウン、そしてセキレイの長いグレー。四人分の髪が小さな輪になるよう結ばれている。
「俺の髪まで入ってるのか?」
ノエルは目を丸くする。
「昨日、寝ている間に切った」
「勝手に切るな!」
リーナの言葉にノエルが即座に抗議する。
「一本だけだよ」
「朝、変な寝癖がついてたのはそのせいか?」
「それは元から」
『ノエルは寝相が悪い』
『妾たちを何度も潰しかけた』
「だったら頭の上で寝るなよ!」
ノエルが叫ぶ。
『暖かい』
『髪が柔らかい』
「俺を寝具にするな!」
セキレイは笑いながら、髪の束を香草と共に袋へ戻した。
「離れていても、家族がノエルのそばにいるようにと思って」
「家族の髪を入れるのって、普通なのか?」
ノエルは少し戸惑いながら尋ねる。
「ルーベ村では昔から行われているおまじないですよ」
セキレイの指が自分のグレーの髪へ触れる。
「血を分けた家族の髪には、遠く離れていても互いを結ぶ力が宿るといわれています」
「本当に力があるのか?」
「さあ」
セキレイは柔らかく笑った。
「本当かどうかは、大切ではないのかもしれません。帰ってきてほしいと願う気持ちを、形にして持っていてもらうことが大切なのです」
ノエルは小さなお守りを見つめた。
手作りらしく縫い目は揃っておらず、黄色い鳥の刺繍は少し丸く、鳥というより太ったヒヨコのようにも見える。
「この鳥は?」
「金糸雀です」
セキレイが答えた。
「金糸雀……」
「昔、姉さんが好きだった鳥です」
叔母のカナリア。ノエルは会ったことがなく、母から話を聞くだけの存在だ。歌うことが好きで、ノエルによく似ていて、料理が壊滅的に下手だったという。
「お母さんが刺繍したんだよ」
リーナが言った。
「少し丸いけど」
「少し?」
「鳥だと分かる程度には鳥です」
セキレイが真剣に答える。
「母さん、自分で言ってて悲しくならないか?」
「可愛らしさを優先しました」
『丸いひよこ』
『美味しそう』
ソルとルナが刺繍を覗き込んだ。
「鳥を食べ物として見るな!」
『焼き菓子に見える』
『蜂蜜をかけたい』
「お前たちの頭の中はいつも甘い物でいっぱいだな!」
リーナはお守りをノエルへ差し出した。
「裏はわたしが縫ったんだよ」
裏返すと、やや歪んだ文字で刺繍が入っている。
──必ず帰ってくること
ノエルはその文字をしばらく見つめた。
胸の奥にじんわりとした感情が広がる。
「命令形なんだな」
「お兄ちゃんは、お願いだと聞かないから」
「聞くよ」
「村が魔物に襲われた時も、逃げてって言われたのに前へ出たでしょ」
「それは……」
「お兄ちゃんは、誰かを守る時、自分のこと忘れるから」
リーナは笑っていたが、膝の上で握られた手には力が入っている。
「だから命令! 必ず帰ってくること」
「分かった」
「怪我もしないこと」
「それは約束できない」
「じゃあ、大怪我はしないこと」
「努力する」
「変な女の人についていかないこと」
「俺を何だと思ってる?」
「騙されやすいお兄ちゃん」
「俺はそんなに騙されやすくない!」
『昨日、村長に王都では石が金になると言われて信じた』
ソルが言う。
「あれは少しだけだ!」
『先週、リーナに歌う大根があると言われて畑へ行った』
ルナも言う。
「確かめに行っただけだ!」
「ほら、騙されやすい」
リーナが胸を張る。
「自慢するな!」
ノエルはお守りを受け取り、首から下げた。
布越しに香草の穏やかな香りが漂う。
胸元へ触れる小さな重みは、父からもらった剣とは違う。剣が前へ進むための力なら、このお守りは帰る場所を忘れないための重みだった。
「ありがとう、母さん。リーナ」
「どういたしまして」
セキレイが微笑む。
「なくしたら一生許さないからね」
リーナが釘を刺す。
「急に重い!」
「家族全員の髪が入ってるんだよ」
「分かってる。大切にする」
ノエルはお守りを服の内側へしまった。
布が胸へ触れた瞬間、ほんの一瞬だけ微かな温かさを感じた。まるで内側で小さな光が灯ったような感覚だった。
「今、何か……」
ノエルは胸元を押さえる。
「どうしました?」
セキレイが心配そうに覗き込む。
「いや」
もう一度触れてみても、ただの布の感触しかない。
「気のせいみたいだ」
母と妹から貰ったお守りは、何事もなかったかのように静かに揺れていた。
☆
まだ空が薄暗く、東の空がわずかに白み始めた頃、ノエルはゆっくりと目を覚ました。窓の外からは鳥のさえずりと朝露の匂いが漂ってくる。
しばらく天井を見つめたあと、ノエルは静かに身体を起こした。
いつもならリーナに叩き起こされる時間だが、今日は違う。自分の意思で目を覚ましたという事実に、ほんの少しだけ誇らしさを覚える。
寝台から降りると、音を立てないように身支度を整えた。顔を洗い、服を着替え、父からもらった剣を腰へ下げる。そのずしりとした重みが、これから始まる旅が現実であることを静かに教えていた。
必要な衣服や道具を詰めた鞄を背負い、机の上に置かれていた学院からの入学許可証を手に取る。
紙の感触を確かめるように指でなぞりながら、その内容を目で追った。
「ある」
小さく呟き、確認してから、丁寧に鞄へ戻す。…だが三秒後、不安が頭をもたげる。
ノエルはすぐに鞄を開け、再び取り出し、同じように確認する。
「やっぱりある」
その様子を、寝台の上からじっと見ていたソルが、淡々とした声で言った。
『さっきもあった』
隣で横になっていたルナも、欠伸をしながらゆっくりと身体を起こし、続ける。
『突然消えない』
ノエルは眉をひそめながら、紙を見つめたまま答える。
「分かってる。でも、王都まで行ってから忘れたって気づいたら困るだろ」
『十回確認した…次に確認したら燃やす』
ノエルは慌てて顔を上げた。
「ソル、冗談でもやめろ!」
『おちゃめな冗談』
「お前が無表情で言うと冗談に聞こえないんだよ!」
結局もう一度だけ確認してから、ようやく鞄へしまった。深く息を吐き、気持ちを落ち着けると、ノエルは荷物を持って部屋を出る。階段を下りると、木の床がわずかに軋む音が静かな家の中に響いた。
まだ早朝だというのに、食卓にはすでに朝食が並んでいる。湯気の立つ料理に、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、温かいスープの香りが部屋を満たしていた。
セキレイはいつも通りの笑顔で迎えてくれたが、その目元はわずかに赤い。
フォーガスは何も言わず、黙々とパンを食べ、リーナは何度も欠伸をしながら眠気を誤魔化すように口を動かしていた。
ノエルは椅子に腰を下ろしながら、少しだけ苦笑する。
「皆、朝早くない?もう少し寝ててもよかったのに」
リーナは眠そうな目をこすりながらも、すぐに言い返した。
「お兄ちゃんの出発時間、早いんでしょ?見送らないで寝てる妹がいると思う?」
ノエルは肩をすくめる。
「いつもなら、俺が寝てても容赦なく起こすけどな」
「お兄ちゃんは、今日珍しく自分で起きたから偉いね」
ノエルは呆れたように笑う。
「十六歳にする評価じゃない」
そのやり取りを聞いていたソルが、テーブルの上にちょこんと座りながら言った。
『ノエルは一人で起きられた』
ルナもソルの隣で頷く。
『学院生活へ向けた大きな成長』
「お前たちまで子ども扱いするな!」
食卓には、いつもと変わらないやり取りが流れていた。パンをちぎる音、スープをすする音、軽口を叩き合う声。
特別な言葉を口にすれば、それだけで別れが現実になってしまう気がする。
だから誰も、あえて何も言わない。
普段通りに笑い、普段通りに言い合い、普段通りに同じ食卓を囲む。それが、この家族なりの送り出し方だった。しかし食事が終わり、ノエルが鞄を背負った瞬間、空気は静かに変わる。
椅子を引く音がやけに大きく響く。誰もが、その瞬間を待っていたかのように、視線がノエルへ集まる。
ノエルは一度だけ深呼吸をしてから、口を開いた。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい、ノエル」
セキレイはゆっくりと頷き、微笑むが、その笑顔は、ほんの少しだけ震えていた。
「母さん」
「手紙を書いてくださいね」
「うん」
「食事は、きちんと食べてください」
「学院は食堂があるから大丈夫」
セキレイは少しだけ眉を寄せる。
「自分で作ろうとしないでください」
ノエルは思わず声を上げた。
「母さんまで!」
フォーガスが無言で立ち上がり、玄関の扉へ向かうと、その重い木の扉を開けながら短く言った。
「馬車が来る。外へ出るぞ」
ノエルは頷き、家族とともに外へ出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
そして目の前に広がる光景に、思わず言葉を失いノエルは足は止まる
「何だ、これ」
家から村の入り口まで、人が並んでいる。
老人も、大人も、子どもも、ほとんど村人全員が集まっていた。
手には旗や花束、食べ物の包みが握られている。
フォーガスが横で静かに答える。
「お前の見送りだ」
ノエルは驚いたまま振り返る。
「聞いてないぞ」
フォーガスは淡々と返す。
「言ってないからな」
ノエルは思わず声を荒げた。
「普通、本人に知らせるだろ!」
フォーガスはわずかに口元を緩める。
「知らせたら逃げると思った」
「どこに逃げるんだよ!」
その時、一人の村人がノエルに気づいた。
畑の方から声が上がる。
「ノエルが来たぞ!」
その声をきっかけに、周囲が一気にざわめいた。
「召喚士様の出発だ!」
「王都で良い婿を見つけてこい!」
ノエルは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「だから、俺は男だって何回言えば分かる!」
歓声と笑い声が一斉に広がる。
ノエルは照れ隠しのように頭をかきながら、ゆっくりと歩き出した。道の両側から、次々と声がかかる。
「ノエル、これ持ってけ!」
畑仕事をしている女性が、干した果物の包みを差し出し、ノエルは受け取りながら笑う。
「ありがとう」
女性はにこやかに続ける。
「それはソルちゃんとルナちゃんの分だからね!」
ノエルは一瞬固まる。
「俺のじゃないのか?」
女性は別の包みを差し出した。
「ノエルにはこっち」
それは硬そうな黒パンだった。ノエルは思わず眉をひそめる。
「差が大きくないか?」
『妾たちは可愛いから』
『ノエルも可愛いけれど、よく食べる』
ソルは当然のように言い、ルナも続ける。
「いや、まぁ可愛いのは確かだけど!!てか、俺は可愛いよりかっこいいが良い!!」
別の家の老人が、ゆっくりと歩み寄り、小さな菓子袋を二つ差し出す。
「ソル様、ルナ様。旅のお供に」
ソルとルナは同時に受け取り、軽く頭を下げる。
『感謝する』
『良き民』
「俺には?」
「若者は自分で働いて食え」
「俺にだけ厳しい!」
道を進むたび、ソルとルナの前には菓子が積み上がっていく。蜂蜜菓子、砂糖をまぶした木の実、果実の焼き菓子、飴、小さなパン。
二人は無表情のまま、それらを次々と受け取っていた。
『妾たちは愛されている』
『人気者』
「これ、俺の見送りだよな?」
その様子を見て、ノエルは呆れたように言い振り返ると、村長が杖をつきながら力強く答えた。
「そうだぞ!お前が連れていかないと、ソル様とルナ様が村を出られんからな!」
ノエルは思わず叫ぶ。
「俺は運搬役か!」
『大切な役目』
『菓子を落とさないで』
「自分で持て!」
子どもたちがソルとルナの周りに集まり、小さな手を振りながら声をかける。
「ソルちゃん、帰ってきたら遊ぼうね!」
『考えておく』
「ルナちゃん、お土産ちょうだい!」
『甘いもの以外なら』
「お菓子は譲れないんだな!」
ノエルよりも盛大に見送られる二人を見て、村人たちは笑っている。その笑顔の奥にある寂しさを、ノエルは感じ取っていた。
十一歳で召喚士の称号を得てから、村のみんなはずっと自分を見守ってくれていた。
何も召喚できず落ち込んだ日も、森で奇妙な儀式をして笑われた日も、魔物の襲撃で無茶をした日も。
どんな失敗をしても、この村に帰れば誰かが声をかけてくれた。
その温かさが、胸の奥にじんわりと広がる。
「ノエル」
村長が杖をつきながら前へ出る。
その動きに合わせて、周囲のざわめきが少しだけ静まった。その表情は、いつもの冗談めいたものではなく、穏やかだった。
「お前は、ルーベ村で初めて王立アストル魔法学院へ入る若者だ」
ノエルは真っ直ぐに頷く。
「うん」
「王都には立派な人間もいれば、嫌な人間もいる。村では見たこともないものへ出会うだろう」
ノエルは少しだけ笑う。
「父さんにも似たようなことを言われた」
村長は小さく頷く。
「なら、わしから言うことは一つだ」
村長はノエルの肩を軽く叩いた。
その手は年老いているが、しっかりとした温もりがあった。
「都会に染まって、敬語ばかり使うつまらん男になるなよ」
ノエルは思わず声を上げる。
「礼儀を教えろよ!」
村長はさらに続ける。
「あと背が伸びなくてもあまり気落ちするなよ」
「いや、俺の成長期これからだから!まだ伸びるからな!」
「期待しておる」
にやりと笑う村長のその顔は、まったく信じていないもので、ノエルはすぐに抗議する。
「その顔やめろ!」
再び笑い声が広がる。
温かく、賑やかな笑い声が村全体を包み込む。その先、村の入り口には、王都へ向かう乗合馬車が静かに停まっていた。
朝日がゆっくりと昇り始め、馬車の影を長く伸ばしている。
新しい旅の始まりが、すぐそこまで来ていた。




