☆1-15☆入学式
学院二日目の朝
王立アストル魔法学院の男子寮、その一室では、窓の外に昇る朝日と小鳥たちの爽やかなさえずりが響いていた。柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、昨夜アルベルトが几帳面に整えた部屋を明るく照らしている。
新しい一日の始まり。希望に満ちた学院生活の幕開けである、そんな清々しい朝に──
ノエルは、ベッドの上で死体のように横たわっていた。
「……死ぬ」
「死なない」
隣のベッドに腰掛けたアルベルトは、制服の袖に腕を通しながら冷静に答えた。もっとも、その顔色は決して良いとは言えない。翡翠色の瞳の下には薄い隈が浮かび、いつも整えられている金髪もわずかに乱れていた。
「いや、死ぬ」
「君は昨夜も地下で同じような状況を生き延びただろう」
「あれは古代守護機兵に殺されかけただけだ」
「今は何に殺されかけているんだ?」
「睡眠不足」
「規模が小さい!」
アルベルトはネクタイを締め直しながら声を上げたが、その直後に大きなあくびが出そうになり、慌てて口元を押さえた。その様子を、ノエルは半分閉じた目でぼんやりと見ていた。
「今、あくびした」
「していない」
「した」
「呼吸だ」
「口から大きく息を吸う呼吸があるか」
『あくびした』
『それもかなり大きい』
ノエルの枕元へ座っていたソルとルナがする。
「君たちは黙っていろ!」
『睡眠時間、一時間未満』
『アルベルトは限界』
「限界ではない!」
アルベルトは立ち上がった瞬間、わずかによろめいたが、すぐに姿勢を正した。だが、その一瞬の揺らぎをノエルは見逃さなかった。
「限界じゃない人間は立っただけで揺れない」
「床が揺れた」
『揺れていない』
『アルベルトが揺れた』
「容赦がないな、お前たち」
ノエルは呟きながら、顔を枕へ埋めた。
昨夜、学院地下最深部から救出された後、すぐに寮へ戻れたわけではなかった。
まず治療室へ運ばれ、怪我の確認を受け、事情聴取が行われた。教師たちの質問に一つずつ答え、古代神殿で起きた出来事を何度も繰り返し説明することになった。さらに、テラの残留思念については学院長を交えた極秘の聞き取りが行われ、加えて四体の守護機兵との契約についても詳細な確認が必要となり、すべてが終わった頃には、窓の外はすでに僅かに白み始めていた。
結局、二人が寮へ戻れたのは夜明け前で、ベッドに倒れ込んでから朝食までに残された時間は一時間もなかった。
「学院長も酷いよな」
ノエルが枕へ顔を埋めたまま呟く。
「何がだ」
「地下であったことは、とりあえず今は誰にも話すなって言った後に、今日は予定通り入学式へ出ろって」
「当然だろう。地下の件を秘密にするなら、普段通りに振る舞う必要がある」
「普段通りに振る舞える顔か、これ」
ノエルはのろのろと起き上がった。髪は四方八方へ跳ね、目は半分しか開かず、制服のシャツは片方の襟が内側へ折れ込んでいる。その様子を見たアルベルトは、思わず額を押さえた。
「まず髪を直せ」
「眠い」
「襟も直せ」
「眠い」
「ネクタイを締めろ」
「眠い」
「返事を変えろ!」
『眠い』
『妾たちも』
「お前たちは地下で途中から俺の肩に座ってただろ!」
『心が疲れた』
『甘い物が必要』
「朝食へ行けばあるだろ」
ノエルがようやくベッドから降り、そのまま一歩踏み出した瞬間、床に置かれていた鞄に足を引っかけた。
「うおっ」
前のめりに倒れかけたノエルの身体を、アルベルトが咄嗟に腕を掴んで引き戻す。
「だから、床へ物を置くなと昨夜言っただろう!」
「昨夜の俺は地下にいた」
「その前に置いた物だ!」
「過去の俺が悪い」
「現在の君が片づけろ!」
『責任転嫁』
『見事』
「褒めるなよ」
『『褒めていない』』
ソルとルナの声が綺麗に重なった。
アルベルトは溜め息をつきながらノエルの襟を直し、さらにネクタイを掴んで手早く締める。ノエルは抵抗する気力もなく、されるがままになっていた。
「お前、器用だな」
「身だしなみを整える程度は普通だ」
「俺のもできる」
「君がやらないからだ!」
『新婚二日目』
『世話焼きの夫』
「誰が夫だ!」
アルベルトの大声が部屋に響き渡り、ノエルは思わず耳を押さえた。
「朝からうるさい」
「原因は君たちだ!」
「でも、昨日より否定が速いな」
『慣れてきた』
『ツッコミに』
「慣れてたまるか!」
アルベルトは言い切ると、ノエルの頭へ片手を伸ばした。指先から僅かな冷気が流れ、寝癖で跳ねていた髪がその冷気と水分調整の魔法によって徐々に落ち着いていく。
「頭、凍らせるなよ」
「そんな不器用なことをするか」
『少し凍っている』
『寝不足で手が滑った』
「え?」
「凍っていない!」
ノエルが慌てて頭へ触れると、そこには冷たい感触だけが残っていた。
「冷たいぞ!」
「魔法を使ったから当然だ!」
『冷凍ノエル』
『朝食まで保存可能』
「食材扱いするな!」
何とか身支度を終えた二人は、ソルとルナを伴って部屋を出た。男子寮の廊下には、同じく朝食へ向かう生徒たちの姿がある。誰もが新品の制服に身を包み、これから始まる学院生活への期待を隠しきれない様子で、活気に満ちた声と明るい笑顔、軽やかな足取りが廊下を満たしていた。
その中で、ノエルとアルベルトだけが、まるで葬儀へ向かう参列者のような沈んだ表情のまま歩いていた。
「二人とも、顔色悪くない?」
通りすがりの生徒が心配そうに尋ねる。
「元気だ」
「死にかけてる」
アルベルトが背筋を伸ばして答えたのに対し、ノエルは正直に答えた。
「君は黙っていろ!」
「正直に言えって、昨日も先生が言ってた」
「時と場合を考えろ!」
食堂へ着く頃には、ノエルの意識はさらに薄くなっていた。
学院の食堂は、数百人の生徒が同時に利用できるほどの広さを誇っている。高い天井には魔法灯が整然と並び、壁際の大きな窓からは朝日が差し込み、柔らかな光が床一面に広がっていた。長いテーブルの上には、焼きたてのパンや卵料理、腸詰め、温かなスープ、そして季節の果物が所狭しと並べられている。新入生を歓迎するためか、普段の朝食よりも一段と豪華な料理が用意されていた。
「食べれば少しは目が覚める」
アルベルトは皿へ料理を取り分ける。
「何を食べる?」
「睡眠」
「料理を選べ!」
「じゃあ、枕」
「食堂に枕はない!」
『パンを食べたい』
『蜂蜜のかかったパン』
ソルが指差し、ルナも同じ皿を見つめていた。
「お前たちは元気だな」
『甘い物がある』
『元気になった』
「単純で羨ましい」
ノエルは適当にパンとスープを選ぶと、空いている席へ向かい、椅子に腰を下ろした。手にパンを持ったまま、ふと目を閉じる。そのまま、しばらく動かなくなった。
「寝るな!」
アルベルトがノエルの肩を揺さぶり、強引に意識を引き戻そうとする。
「起きてる」
ノエルは小さく、しかしはっきりとした声で返した。
「目を閉じている!」
「瞼の内側を見てる」
「何のために!」
「精神統一」
『寝ていた』
『完全に睡眠』
ソルとルナが即座に断定する。
そんな短い間にも関わらず、ノエルの手はパンを持ったまま微動だにしなくなった。アルベルトはため息をつき、やれやれと言わんばかりにそのパンをノエルの手から取り上げた。
「食べながら寝れば喉へ詰まらせる」
「返せ」
「目を開けろ」
「開いてる」
「閉じている!」
そんなやり取りをしていると、明るい声が近づいてきた。
「おはよう! 二人とも、すごい顔だな!」
フィンは、栗色の髪を朝から丁寧に整え、いつもの愛嬌ある笑顔を浮かべていた。その隣にはシャスールが並び、ピンクブロンドの三つ編みを肩に垂らしながら、金色の瞳で二人の様子を静かに観察している。
「徹夜した?」
「してない」「した」
シャスールの言葉に、アルベルトとノエルは同時に答えた。二人は思わず顔を見合わせる。
「話を合わせろ!」
「嘘はよくない」
「内密にすることと嘘をつかないことは両立できる!」
ノエルとアルベルトのやり取りは、すでに半ば口論の域に達していた。アルベルトは必死に場を収めようとするが、ノエルは正直さを優先しようとして話が噛み合わず、その様子を見ていたフィンは状況を理解しきれないまま首を傾げていた。
「何かあったのか?」
「何もない」「色々あった」
「ノエル!」
余計なことを言いかけたノエルの口を、アルベルトが片手で塞いだ。強引だが慣れた動きで、もはや反射に近い。フィンはその一連の流れを見て、目を丸くした。
「朝から仲がいいな」
『新婚』
『朝の共同作業』
「違う!」
アルベルトの声が食堂に響き、周囲の生徒たちが一斉に振り返った。彼は自分の声の大きさに気づくと、我に返ったように咳払いをし、何事もなかったかのように姿勢を正した。
「……騒がせてすまない」
「今の声で眠気が少し飛んだ」
「僕は目覚ましではない!」
フィンとシャスールは空いている席に腰を下ろした。フィンは両手いっぱいに料理を抱えており、その量は明らかに一人分ではなかった。パンが三つ、腸詰めが五本、卵料理に肉料理、さらに果物まで揃っている上、極めつけに大きな器にはスープまでなみなみと注がれていた。
「朝からよく食べるな」
ノエルが感心する。
「兄弟が多いと、食べられる時に食べる習慣がつくんだ」
「学院では料理は逃げないぞ」
「でも、うちでは油断すると弟に取られる」
「何人兄弟だっけ?」
「十四人」
「戦場だな」
「賑やかで楽しいぞ」
フィンは笑いながらパンへかぶりついた。シャスールの皿には、果物と葉野菜が中心に盛られている。
「エルフは肉を食べないのか?」
ノエルが尋ねる。
「食べるよ」
「じゃあ、何で野菜ばかりなんだ」
「肉を取りに行くのが面倒だった」
「森の狩人なのに?」
「朝は狩人も眠い」
『狩人は言い訳、ノエルと同類』
『ノエルと同じ朝に弱い』
「俺は果物を取りに行くのも面倒だ」
「それはただの怠惰だろう!」
アルベルトが指摘したその直後、白銀の髪を揺らしながらアイリスが歩いてきた。背筋は真っ直ぐで、制服には一つの乱れもない。ロイヤルブルーの瞳は朝から鋭く澄んでおり、その手には栄養の配分まで計算されているような完璧な朝食が載せられていた。
「皆さん、おはようございます」
「おはよう、アイリス」
フィンが明るく応じる。
「おはよう」
ノエルも片手を上げ、軽く欠伸を噛み殺しながら気の抜けた声を出した。その様子を見たアイリスは、ノエルとアルベルトの顔を一瞥し、眉をひそめる。
「ひどい顔ですわね」
「挨拶の次にそれか」
「事実です」
『天然毒舌』
『朝から好調』
ソルとルナはノエルの肩の上で淡々と評する。ノエルとアルベルトの様子に、アイリスは観察をしながら首を傾げた。
「どのような夜を過ごせば、そこまで疲れ果てるのですか?」
「少し色々あって」
ノエルは曖昧に答える。
「具体性が皆無ですわ」
「具体的に言えない色々」
「怪しいですわね」
アイリスの視線が鋭さを増し、二人の間を行き来する。そして、その視線がアルベルトの身体で止まった。
「アルベルトさん、僅かに右の脇腹を庇っていますわね」
指摘された瞬間、アルベルトの表情がわずかに固まり、ノエルは素直に感心した。
「よく分かったな」
「剣士として相手の動きを見るのは当然です」
「俺は気づかなかった」
「君は昨夜から何度も見ていただろう!」
「眠くて忘れた」
「僕の心配を返せ!」
アイリスの視線がさらに鋭くなる。
「負傷したのですか?」
「訓練で少し」
アルベルトは短く答えた。
「夜中に?」
「自主訓練だ」
「寝間着で?」
シャスールが淡々と口を挟んだ一言で、アルベルトの動きは完全に止まった。
「なぜ寝間着だと知っている」
「直感。…でも、動揺したってことは当たったみたいだね」
シャスールはパンを小さくちぎりながら、何事もないように静かに告げる。その言葉に、アルベルトの顔から一気に血の気が引いた。ノエルは眠そうな目をわずかに開き、ゆっくりと瞬きをした。
「お前、怖いな」
「よく言われる」
『見抜かれた』
『秘密が危険』
ソルとルナは、周囲に聞こえないほどの小さな声で呟いた。その言葉に最初に反応したのはシャスールで、金色の瞳が静かに二人へと向けられた。
「秘密?」
『何もない』
『聞き間違い』
即座に否定する二人。だが、その反応の速さが逆に不自然だった。
「お前たちまで下手な嘘をつくな!」
ノエルが思わず声を上げると、その横でアルベルトは深く長い溜息をつき、両手で顔を覆った。
「もう黙れ……全員黙ってくれ……」
精神的な限界を迎えたような声音だった。
一方フィンは、口いっぱいにパンを詰め込んだまま、楽しそうに目を細める。
「秘密の夜の訓練か。格好いいな」
「その理解でいてくれ」
アルベルトは力なく返した。もはや訂正する気力すら薄れている。
「僕も今度混ぜてくれよ」
「絶対に断る!」
「そんなに危険なのか?」
「そういう意味ではない!」
アルベルトの叫びだけが、やけに虚しく食堂に響いた。
そこへ、さらに一人の少女が近づいてきた。ベージュブラウンの長い髪に、淡いピンク色の瞳。気弱そうな印象を与える眼鏡をかけた少女──カティアだ。
「あ、あの……ここ、空いていますか?」
「空いてるよ!」
カティアが小さな声で尋ねると、フィンは笑顔で椅子を引いた。
「ありがとうございます」
カティアは静かに椅子へ腰掛ける。皿にはパンと少量のスープだけが控えめに置かれていて、ノエルはその質素な食事にふと視線を落とした。
「少なくないか?」
「朝は、あまり食欲がなくて」
「体調悪い?」
「いえ。大丈夫です」
「ならいいけど」
ノエルはそれ以上追及することなく、自分のパンを静かに半分に割ると、その片方をソルとルナへ差し出し、もう片方を自分の口へ運ぼうとした。だが、目を閉じたまま、その動きが途中で止まる。
「今度こそ寝たな」
フィンが笑った。
アイリスがノエルの名前を呼ぶが、反応がなく、アルベルトは小さくため息をつき、寝ているノエルの頬を軽く叩いた。
「起きろ」
「……起きてる」
「寝言で返事をするな!」
アルベルトがパンを取り上げると、ノエルは目を閉じたまま手を伸ばした。空を掴み、もう一度探るように手を伸ばすが届かない。すると隣に座るカティアの皿から、何の躊躇もなくパンを取った。
「あ…それ、私の……」
カティアが小さく呟く。
ノエルがそのままパンを口元へ運ぼうとした瞬間、アルベルトが素早くその手首を掴んだ。
「他人の朝食を奪うな!」
「俺のパンが逃げた」
「僕が持っている!」
「二つある?」
「カティアの物だ!」
ノエルはようやく目を開け、自分が握っているパンと戸惑うカティア、そして周囲から向けられる視線を同時に認識した。
「……ごめん」
「い、いえ」
「噛んでないから返す」
「返すな!一度握った物をそのまま戻すつもりか!」
「じゃあ俺が食べる」
「結局奪っているだろう!」
「新しいの持ってくるから」
ノエルは立ち上がろうとしたが、足元がふらついた。カティアは反射的に手を伸ばし、彼の制服の袖を掴んだ。
「危ないです」
「ああ。ありがとう」
「座っていてください。パンなら、私は本当に大丈夫なので」
「でも」
「食欲がないのは本当ですから」
カティアは僅かに笑った。その笑顔は、以前よりずっと自然なものだった。
昨日の試験でノエルは、自身の危険を顧みずカティアを助けた。同じ班だから、それだけの理由で。自分に恩を売ろうとしたわけでもなく、秘密を探ろうとしたわけでもない。ただ純粋に、仲間だから助けたのだと。
カティアには、それが理解できなかった。
利用価値のない相手を救うという行為。見返りも求めず、ただ誰かのために動くという在り方を、彼女はこれまでほとんど見たことがなかった。
しかも、今目の前にいる少年は──
「パンを奪ってごめん」
そんな些細なことにまで、本気で申し訳なさそうに謝っている。その姿は英雄的な人物というよりは、ただの寝不足の少年だ。
「気にしないでください」
「でも、朝食は食べた方がいいぞ」
「ノエルが言っても説得力がない」
アルベルトが呆れる。
「俺は食べようとしてる」
「寝ようとしているの間違いだろう!」
『食べながら寝る』
『ノエルは器用』
「危険だから褒めるな!」
カティアは思わず小さく吹き出し、その音にノエルが彼女を見た。
「笑った?」
「わ、笑っていません」
「今笑ったよな」
「気のせいです」
『笑ってた』
『確実に笑ってた』
「ソルさん、ルナさんまで……」
カティアは頬をわずかに赤く染め、そっと視線を逸らした。
以前の彼女であれば、こんな他愛もない会話に加わることなど決してなかっただろう。任務のために作り上げた人格──気弱で目立たず、周囲に溶け込まない少女という仮面を保つため、人との距離を常に計算してきた。ノエルたちに近づいたのも、あくまで打算に過ぎなかったはずだ。…それなのに、彼らの会話には警戒心を崩してしまうような不思議な力があった。考えるより先に言葉がこぼれ、笑うつもりなどないのに、自然と笑ってしまう。
それが危険だと分かっているのに、どうしても抗えなかった。
「カティアさん、大丈夫ですか?顔色が良くありませんわ」
アイリスの問いかけに、カティアは一瞬だけ体を強張らせた。
「そうでしょうか」
「睡眠不足ですか?」
「少し、緊張して眠れなくて」
「本日は正式な入学式ですものね」
アイリスは納得したように頷く。
「ですが、体調管理も実力のうちです。無理をして倒れれば、周囲へ迷惑をかけますわ」
「相変わらず厳しいな」
フィンが笑う。
「ですが、正しいことです」
カティアのその言葉にアイリスはわずかに微笑みを浮かべた。
「分かっているなら結構です。式が終わるまでに悪化したら、すぐ先生へ申し出なさい」
「はい」
『心配している』
『毒舌に包んだ優しさ』
「毒舌ではありませんわ!」
アイリスが反論するが、ノエルは半分眠ったまま頷く。
「アイリス、いい奴だよな」
「今さら何ですの?」
「でも言葉が刺さる」
「あなたには必要な刺激です」
「眠気覚まし?」
「生活態度の矯正です!」
食堂に始業を告げる鐘が三度響いた。低く澄んだ音が空気を震わせ、入学式の集合時刻が近づいていることを告げる。その音に呼応するように、周囲の新入生たちが次々と席を立ち始めた。
「講堂へ移動するぞ」
アルベルトが皿を片づける。
「ノエル、立てるか?」
「たぶん」
「不安な答えだな」
フィンがノエルの左腕を取った。
「俺が支えるよ」
「なら僕は右側を」
アルベルトが反対側へ立ち、ノエルは二人に挟まれる形になった。
「歩けるって」
「先ほど転びかけただろう」
「俺は転んでない」
「カティアが支えなければ転んでいた」
『要介護十六歳。身長差のせいでノエルが浮いてる』
『アルベルトとフィンの身長が高いからノエルの小ささがより強調されてる』
アイリスは呆れたような表情のまま先頭を歩いていく。その後ろではシャスールが何気なく果物を一つポケットへ入れ、当然のように持ち帰っていた。
さらに少し離れた位置で、カティアは集団の後方から彼らの背中を見つめていた。明るくて、騒がしくて、どこか隙だらけで…けれどその空気には、彼女がこれまで生きてきた場所には存在しなかった種類の温かさがあった。
カティアは胸の奥に生まれかけた感情を、すぐに押し殺す。
(これは任務です……忘れてはいけない)
自分は学院へ学びに来た生徒ではない。調査のために送り込まれた、梟の目だ。彼らと友情を築くためにいるのではない。
それでも──
「カティア…行くぞ、置いていかれるぞ」
ノエルは振り返り、眠そうな顔のまま、当然のようにカティアを呼び、輪の中へと入れる。
「……はい」
小さく返事をしてその後を追う。その言葉の先を、カティアは自分の中で言い切ることができなかった。
☆
──学院講堂
巨大な半円形の建物には、新入生と在校生が一堂に集められていた。
磨き上げられた床は光を反射し、天井は高く、静寂を吸い込むように広がっている。壁には王国旗と学院旗が並び、正面の舞台には三大英雄を象徴する剣・杖・三叉槍の紋章が掲げられている。
その下には、学院教師陣が整然と並ぶ。その数、総勢四十名。魔法、剣術、錬金術、召喚術、歴史、医療、防衛──それぞれの分野で頂点に立つ者たちが一堂に会している光景は、圧倒的な威圧感すら漂わせていた。
新入生たちはその姿に息を呑み、緊張した面持ちで席に着いている。
ノエルたち一年A組は講堂中央付近にまとめられ、その隣の列には一年B組が並んでいた。
移動の直前まで、フィンとシャスールは名残惜しそうに手を振っていた。
「別れを惜しみすぎですわ………隣の列なのに」
アイリスが呆れたように言うと、フィンがキリッとした表情でそれに答えた。
「友情に距離は関係ない」
「三歩しか離れてないけどな」
ノエルはツッコミを入れながら席に腰を下ろすと、そのまま背もたれに体を預け、深く息を吐いてそっと瞼を落とした。
その様子を見たアルベルトは、呆れたように肘でノエルの脇腹を軽くつついた。
「寝るな」
「まだ式が始まってない」
「始まる前から寝ようとするな」
「始まったら起こして」
「最初から起きていろ!」
ソルとルナはノエルの頭の上にちょこんと座り、小さな口で二人そろって欠伸をした。
『妾たちも眠い』
『講堂は暖かい』
「お前たちは寝ていいのかよ」
『妾たちは新入生じゃない』
『式への参加義務なし』
「羨ましい」
舞台の端には生徒会役員たちが並んでいた。その中でも最も目を引くのは生徒会長グレイシア・ノービリタスである。ライトブルーの髪と同色の冷静な瞳を持ち、ただそこに立っているだけで周囲の空気を引き締めるほどの威厳を放っていた。アルベルトはその兄の姿を目にした瞬間、無意識に背筋を正す。そのわずかな変化に、ノエルはすぐに気づいた。
「あれ、昨日の…お前の兄さんだよな?」
「そうだ」
ノエルがもう少し尋ねようとしたその時、グレイシアの隣に立っていた副会長カルム・クワイエットがこちらへ顔を向けた。明るいブロンドの前髪が目元を覆い、その僅かな隙間から三白眼気味の瞳が覗く。カルムはノエルを見た瞬間、思わず二度見し、さらに興味を抑えきれないように身を乗り出した。
「おい、グレイシア」
「式中だ。静かにしろ」
「一年生の列に、とんでもなく可愛い女子がいる」
「黙れ」
「ダークブラウンの髪の子だ。小柄で、ものすごく整った顔をしてる」
グレイシアの視線はノエルへと向かい、その隣に座るアルベルトを捉えた瞬間、わずかに動きを止めた。冷静を保っていた瞳が、ほんの僅かに見開かれる。昨夜、学院地下で異変が起きたという噂は生徒会にも一部だけ伝わっていたが、関係者の名は伏せられていた。それでもグレイシアは直感的に、その出来事に弟が関わっているのではないかと感じていた。見たところ、目の下に隈がある程度で、目立った怪我もなく、少し胸を撫で下ろす。
「……よかった」
その声は風に溶けるように極めて小さく、ほとんど独り言に近いものだったが、その場にいたカルムだけは確かに聞き取っていた。
「今、弟が無事でよかったって言った?」
「言っていない」
「言ったよな」
「黙れ」
「心配だったんだろ」
「式中だ」
「部屋の大型肖像画へ無事を報告しないとな」
その瞬間、グレイシアの周囲の空気はまるで意思を持ったかのように一気に冷え込み、温度そのものが急激に下がって凍りついた。
「次に余計なことを言えば、その口を凍らせる」
「怖いなあ」
カルムは気にした様子もなく笑いながら視線を前に戻し、改めてノエルの姿を見つめた。
「しっかし、本当に可愛いなぁ!何組だろう」
「男子だ」
グレイシアが即座に答える。
「え、何?」
「アルベルトと同じクラスであり、同室の“男子”生徒だ」
その言葉を聞いた瞬間、カルムの表情が完全に停止した。隣にいた書記のフローラ・クレマチスが、可憐な笑顔のまま会話に割って入る。
「見る目がないわね」
「いや、あれは誰でも間違える!」
「言い訳が見苦しいわ」
「フローラも絶対に女子だと思っただろ!」
「私は最初から分かっていたわよ」
「嘘だ!」
さらにもう一人の書記、コール・ジャックスが穏やかな笑顔を浮かべながら会話に入ってきた。
「副会長、恋愛に性別は些細な問題では?」
「問題だよ!」
「新たな自分を発見する好機かもしれません」
「面白がってるだろ!」
「まさか」
その否定とは裏腹に、コールの笑顔は明らかに楽しんでいるものだった。
ノエルは自分が話題にされていることにも気づかないまま、今にも眠りへ落ちそうになっている。
やがて舞台へ、学院長ディオーネ・ジュピターが姿を現した。世界で三指に入る大魔導師。黄白色の髪が照明を受けて淡く輝き、薄黄緑の瞳が講堂全体をゆっくりと見渡す。小柄な身体は幼子のようにも見えるが、その存在感だけは圧倒的で、舞台に立った瞬間に空気の質が変わったかのような錯覚すら生まれる。
しかし、舞台中央に設置された演説用のマイクは、彼女の身長に対して明らかに高すぎた。
「……またか」
アミュが小さく呟くと、コンラッドが慣れた手つきで頷いた。
「恒例行事だね」
次の瞬間、教師陣が手際よく舞台へ台座を運び込み、マイクの高さを調整していく。それは毎年の入学式で必ず繰り返される光景であり、もはや恒例事項として扱われていた。
ディオーネは特に気にした様子もなく、その台座へ軽やかに乗ると、ようやくマイクの高さと視線が揃う。そして講堂には一斉に拍手が広がった。
ノエルも周囲に合わせて手を叩いたが、その目はすでに半分閉じかけていた。
「寝ながら拍手するな」
アルベルトが小声で叱る。
「起きてる」
「目を開けろ」
「心で見てる」
『精神参加』
『肉体は欠席』
「うまいこと言うな」
「感心するな!」
ディオーネが演台の前で片手を上げると、広い講堂は一瞬で静寂に包まれた。新入生たちは、緊張と期待が入り混じった空気の中で息を潜めている。その中心で、学院長の穏やかな声だけが静かに響いた。
「新入生諸君」
落ち着いた声音は、不思議なほど遠くまで響いた。
「王立アストル魔法学院への入学、心から歓迎する。諸君らは、それぞれ異なる国、異なる土地、異なる身分からこの場所へ集まった。貴族もおれば、平民もおる。人間だけではなく、様々な種族がいておる」
シャスールは静かに耳を傾け、フィンはいつもの笑顔を消して真剣な表情で前を見つめ、ノエルも学院長の言葉に集中していた。
「しかし、学院へ入った以上、諸君らは同じ生徒じゃ。才能に身分はない。力を持つ者は、正しく学ばねばならぬ。正しく学ばぬ力は、時に持ち主自身を焼く」
舞台上の教師たちが、静かに新入生を見つめている。
「そして、才能ある若者を利用しようとする者は、必ず現れる」
カティアの指先が僅かに動いた。
「甘い言葉で近づく者、恐怖で従わせようとする者…あるいは、本人すら気づかぬうちに、道具として扱おうとする者。諸君らを狙う者は、学院の外にいるとは限らぬ。犯罪組織、宗教勢力、貴族、商人、そして時には親しい者の顔をして近づくことさえある」
カティアは俯いたまま、拳を強く握りしめた。自分はまさに、その侵入者だ。気弱な少女という仮面を被り、同級生として、仲間として振る舞いながら、その裏で学院の情報を探っている。
「じゃが」
ディオーネの声が、先ほどまでの重さをわずかに和らげた。
「怯える必要はない」
そう言って彼女はゆっくりと視線を巡らせた。そこには学院に所属する三十九名の教師たちが並んでおり、誰も言葉を発することなく静かに立っていたが、その一人ひとりが確かな存在感を放っていた。
「この学院の教師は、諸君らを守るためにいる。悩みがあれば相談せよ。脅されれば知らせよ。自分一人で解決しようなどと思うでない」
ディオーネの目が一瞬だけノエルへ向いたが、ノエルはそれを眠気のせいか気のせいだろうと、ただの見間違いとして受け流した。
「勇気と無謀は違う」
ノエルの肩が僅かに跳ねる。
『見られた』
『ノエルへの注意』
「俺だけじゃないだろ」
小声で反論するノエルに、アルベルトは呆れたように囁いた。
「昨日の今日なのだから、君のことだ」
「お前も一緒にいた」
「僕は君を助けるために巻き込まれた!」
「でも地下で結構前へ出てたよな」
「黙れ!」
ディオーネは二人の小声が聞こえたのか、僅かに笑った。
「学院で学ぶべきものは、魔法だけではない。仲間を信じること、助けを求めること……そして、自分が誰かを守る力を持つことじゃ。諸君らの学院生活が、実りあるものとなることを願っておる。四年間、存分に学び、存分に遊び、存分に───」
一拍置いて、ディオーネはにやりと笑った。
「───存分に問題を起こせ」
「学院長!!」
即座に教師席からツッコミが飛んだ。
「最後だけ物騒です!!」
「青春とはそういうものじゃろうが!」
「違います!!」
ディオーネが満足げに台座から退くと、教師陣が静かに動き出した。合図も声もないまま、壇上の台座は手際よく撤去されていく。
その作業が終わるのと同時に、入れ替わるように生徒会長グレイシアが静かに前へと進み出た。
「在校生を代表し、新入生諸君を歓迎する。学院生活では、自由と責任が与えられる。自由とは、好き勝手に振る舞うことではない。自ら考え、選択し、その結果へ責任を持つことだ」
ノエルは少し目を開けた。
「お前の兄さん、真面目だな」
「当然だ」
「お前より静かだ」
「どういう意味だ!」
「アルベルトは声が大きい」
『兄は静か』
『弟は騒音』
「君たちは式中くらい黙れ!」
その声は思った以上に大きく響き、周囲の生徒たちが一斉に振り返った。舞台上にいたグレイシアの視線も自然と弟へと向けられる。アルベルトは一瞬言葉を失い、すぐに口を閉ざして背筋を正した。グレイシアは表情を崩さなかったが、その静かな顔の奥で、わずかに眉間へ皺が寄っていた。
「怒られたな」
ノエルが囁く。
「君のせいだ!」
「お兄さんと仲良さそうだな」
「どこを見てそう思った!」
グレイシアの挨拶が終わると、続いて生徒会役員たちが順に前へと進み出た。副会長のカルム・クワイエット、書記のフローラ・クレマチス、そして会計のコール・ジャックスがそれぞれ簡潔に自己紹介を済ませていく。カルムはその中でも特に新入生の女子たちへ向けて、やけに爽やかな笑みを浮かべていた。
「相談事があれば生徒会室へ。特に女子は大歓迎だよ」
「下心が漏れてますわ」
フローラが即座に笑顔のままカルムの足を踏み抜く。
「痛い!」
「痛くしてるんですよ」
「笑顔で足を踏むな!」
会場の新入生たちから、くすくすと笑いが漏れる中、コールが淡々と補足する。
「男子生徒の相談も副会長が責任を持って対応します」
「勝手に業務を増やすな!」
「男女平等ですよ」
「正論で殴るな!」
そのやり取りを見ていたグレイシアが、静かに一言だけ落とす。
「全員、黙れ」
生徒会役員たちは一斉に口を閉じ、会場の温度が一段下がったような、重く張り詰めた静寂が広がった。
その様子を見て、ノエルは小さく呟いた。
「生徒会の人たち面白いけど…お前の兄さん、大変そうだな」
「問題児は副会長たちだ」
『弟も問題児』
『兄は苦労人』
「なぜ僕まで含める!」
入学式はその後も、来賓の祝辞、学院歌の斉唱、年間行事の説明、校則の確認と続いていった。だがノエルにとって最大の敵は、古代機兵でも封印でもなく、圧倒的な睡魔だった。
来賓の一人が長い挨拶を始めたあたりから、ノエルの頭は何度も前へと落ちていく。そのたびにアルベルトが肘で一度、二度、三度小突いて起こす──それでも眠気は容赦なく襲いかかってきた。
「起きろ」
「起きてる」
「今、完全に寝ていただろう」
「目を休めてた」
「頭まで休めるな」
首をカクカクと揺らしていたノエルの頭が、ふっと力を失い横へ傾き、そのまま隣にいたアイリスの肩へとこつんと寄りかかった。突然の重みと距離の近さに、アイリスの身体は一瞬で硬直した。
「ノエルさん」
「……」
「ノエルさん」
「……母さん、あと少し」
アイリスの眉がぴくりと吊り上がる。
「誰があなたのお母様ですの!」
アイリスはノエルの頭を押し返した。その勢いでノエルの身体はふらつき、今度は反対側へと傾く。そしてそのまま──アルベルトの肩へと倒れ込んだ。
アルベルトの身体は一瞬で硬直する。ノエルのダークブラウンの髪からは、ほのかに石鹸の香りがした。さらに耳元では、規則正しい小さな寝息が聞こえる。
「……お、おい、起きろ」
アルベルトは声を絞り出すように呟いたが、ノエルはまったく反応しなかった。
『動揺』
『昨日に続いて動揺』
「動揺していない!」
アルベルトが反射的に声を上げた瞬間、講堂は一気に静まり返った。ちょうど来賓の挨拶が途切れた絶妙な間だったこともあり、数百人分の視線が一斉に彼へと集中する。舞台上の教師たち、生徒会、新入生、在校生──その場にいる全員が、まるで示し合わせたかのようにアルベルトを見つめていた。アルベルトはその視線を真正面から受け止めることもできず、顔を真っ赤にしながら、ぎこちなく立ち上がった。
「し、失礼しました」
アルベルトは深く頭を下げると、静かにその場へ腰を下ろした。
ノエルはまだ目を覚まさず、穏やかな寝息を立てたままで、アルベルトはため息をつきながら、ノエルの頬をつまんだ。
「起きろ」
「痛い!」
ノエルはようやく目を覚まし、ぼんやりと周囲を見回す。
「何するんだ!」
「君のせいで講堂中から注目された」
「知らないよ!」
「君が僕の肩で寝たからだ」
ノエルは周囲を見回すと、まだいくつかの視線が自分に向けられていることに気づいた。
「ごめん」
「最初から寝るな!」
「でも、お前の肩硬いな。枕には向いてない」
「感想を言うな!」
アルベルトは小さく、しかし確実に怒りを滲ませた声で唸るように言った。




