☆1-9☆最悪の初授業 ④
ノエルは羽、アイリスは剣、アルベルトは雪の結晶、そしてカティアは梟の目、四人はそれぞれの扉の前へと並んだ。
「せーので触れるぞ」
ノエルが全員に声をかける。
「合図が軽すぎますわ」
「他にある?」
「ありません」
「魔力を一定量ずつ流すぞ」
アルベルトが掌を構え、術式の中心へ意識を集中させる。
「誰か一人だけが過剰に注げば、術式が乱れる可能性がある」
『特にノエル要注意。入学試験で爆発させたから』
『制御下手だから注意。きっと受付で記録されている』
「今それを言うな!」
「集中しろ、ノエル!」
「ソルとルナのせいで集中できないんだよ!」
「二人とも、お静かに」
アイリスの一言で、ノエルとアルベルトは同時に口を閉じた。張り詰めた沈黙の中、術式だけが静かに脈動していた。
カティアは梟の目へ手を近づけた。紋章からは微かな精神波が流れており、それは触れた者の魔力だけでなく感情や記憶までも読み取る術式だった。コンラッドはこの扉を通して四人の心理状態を確認しようとしているのか、あるいは自身の正体を探ろうとしているのかもしれない。
指先が紋章へ触れる寸前、カティアは精神の表層を偽装した。気弱な少女としての恐怖や不安、そしてノエルへの感謝といった自然な感情だけを表層に浮かべ、深部の思考と記憶は何重にも封じ込める。
「行くぞ、せーの!」
ノエルの掛け声を合図に四人の掌が同時に紋章へ触れた。その瞬間、魔力が一気に流れ込み、扉全体へ白い線が走った。剣、雪、羽、梟──四つの紋章がそれぞれ輝きを放ちながら中央へと収束し、一つの円を形作っていく。
「開くぞ!」
石造りの扉が低い音を立てて奥へと動き始め、その隙間から白い光が差し込んだ。
「出口か?」
「まだ油断しないでください」
アイリスが剣を構えると扉がゆっくりと半分ほど開き、その隙間から白い光に包まれた教室のような空間が姿を現した。そこには黒板や机、椅子が整然と並び、中央の教壇にはコンラッドが立っていた。
「戻れた……?」
ノエルが一歩踏み出そうとしたその瞬間──
『『違う!!』』
ソルとルナが同時に叫ぶと同時に白い光の中から巨大な黒い腕が伸びてきた。
「下がれ!《氷壁》!」
アルベルトが氷の壁を作ると、黒い腕がそれへ衝突し、分厚い氷を一撃で砕いた。
「何だ、こいつ!」
扉の向こうから、巨大な魔物が這い出してきた。先ほどの狼型とは異なり、その姿は人間に似た上半身を持ちながら、下半身には無数の黒い脚が蠢いている。顔の位置には目も鼻もなく、平らな皮膚の中央に大きな縦に裂けた口だけが不気味に開いていた。さらに左右からは六本の腕が伸び、その指先はすべて人間の手と同じ形をしていた。
「出口を守る番人か!」
ノエルは剣を構えると、魔物の縦口が開き、その奥からノエルの声が響いた。
「《カティアは偽物だ》」
続いて、アイリスの声。
「《拘束するべきですわ》」
アルベルトの声。
「《仲間ではない》」
最後に、カティア自身の声が漏れた。
「《皆さんを騙しています》」
カティアの表情が固まる。
「聞くな!」
ノエルが声を上げた。
「全部、偽物の言葉だ!」
「分かっていますわ!
アイリスは地面を蹴って魔物へ一気に接近し、白く輝く剣でその左腕を斬り落とすと、続けてアルベルトが残った腕へ氷の鎖を絡み付かせた。
「動きを止める! ノエル、中心を狙え!」
「分かった!」
ノエルは剣を両手で握り、正面から駆けると、魔物の縦口が大きく開き、その内部には父、母、リーナ、ニグルム、アイリス、アルベルト、カティア、そして自分自身の顔が無数に浮かんでいた。
「《守れると思っているのか…お前は何も守れない》」
ニグルムの顔が笑う。
「黙れ!」
ノエルは迷うことなく踏み込み、剣を縦口の中心へと突き立てたが、刃は硬い感触に阻まれ、途中でぴたりと動きを止めた。
「浅い!」
『ノエル歌って!』
『村の歌を歌って』
「こんな時に歌えって?」
ノエルは思わず声を荒げたが、それでもソルとルナは揺るがなかった。
『魔力を整える』
『声に魔力を乗せる』
その言葉は、戦場の喧騒の中でも不思議なほど静かに響いた。あまりにも真剣な顔で言うソルとルナに、ノエルは母から教わった子守唄を歌う。それは叔母のカナリアが幼い頃、母へ歌ったという旋律であり、本来なら森の中で静かに響くはずの優しい歌だった。だが今は、巨大な魔物の口へ剣を突き刺し、六本の腕に囲まれ、仲間の命が懸かる戦場の只中にいる。それでもノエルは短く息を吸い、迷いを振り切るように、その歌を歌い始めた。
「 《幼い鳥は、闇の森で道を失う
空は雲に閉ざされ、星も見えない
それでも月は、雲の向こうから鳥の名を呼び続ける
帰る場所はここにある
決して一人ではない》」
柔らかな声が幻術空間へと広がり、中性的で澄んだ歌声は川のせせらぎのように揺らぎながら風のない森の木々を震わせ、荒れていた魔力を静かに整え、剣を通して流れ込む力を一本の線へと収束させると同時に、魔物の動きはわずかに鈍らせる。
「今ですわ!」
アイリスの剣が光る。
「光よ、貫け!《光刃》!」
白い閃光が魔物の胸を貫いたと同時に、アルベルトが氷の鎖を一気に収縮させた。
「砕けろ!《砕氷》!」
魔物の体が内側から裂け、ノエルは剣をさらに深く押し込んだ。
「これで──終わりだ!」
縦口の奥にあった赤い核が砕け、魔物の全身が膨張した。
「離れて!」
カティアの声に反応した三人が、一斉に後ろへ跳んだその瞬間、黒い魔物が破裂し、紫色の煙が森一帯へと噴き出して視界を覆った。
「ノエル!」
「ここだ!」
「全員、返事をしろ!」
アルベルトの声。
「わたくしは無事です!」
アイリスが答える。
「カティア!」
ノエルは煙の中へ呼びかけたが、返事がない。
「カティア!」
「ノ、ノエルさん……!」
少し離れた場所から弱々しい声が聞こえ、ノエルは煙を腕で払いながら進むと、紫色の霧が薄れていくその先に、無事で怪我もないカティアが立っていた。
「良かった」
『待って』
ノエルは安堵の息を吐き、カティアへ近づこうと一歩踏み出したその時、ソルが即座に制止する。
『もう一人』
ルナが静かに反対側を指差し、ノエルは動きを止めてゆっくりと視線を巡らせると、扉の近くにもカティアが立っていた。
「え……?」
同じ姿、同じ髪、同じ眼鏡、同じ桃色の瞳で、どちらも怯えた表情のままノエルを見つめていた。
「ノエルさん、そちらは偽物です!」
扉側のカティアが叫ぶ。
「違います!」
森側のカティアも即座に声を上げる。
「私が本物です!」
アイリスとアルベルトが同時に武器を構えた。
「動かないでください!」
「両方とも、その場から動くな!」
「またかよ……」
ノエルは二人を交互に見比べた。先ほどの合図は、右手で左肩に触れ、相手の名前を呼ぶというものだったが、二人のカティアはまったく同じ動作で右手を上げ、左肩に触れていた。
「「ノエルさん」」
声まで完全に重なる。
『見られていた』
『合図は無意味』
「先生、本当に性格悪いな!」
「今は先生への文句を言っている場合ではない!」
アルベルトが怒鳴る中、アイリスは目を閉じて二人の魔力を探るが、すぐに眉をひそめた。
「同じですわ」
「魔力も?」
「ほとんど差がありません」
外見だけでなく魔力の波形すら完全に一致しており、カティア本人でさえ、目の前の偽物が自分の表層魔力や精神防壁の形まで精密に模倣していることに気づくほどだった。コンラッドが扉に触れた瞬間に取得された情報を利用して再現されたものだが、深層領域までは再現しきれていないため、本物のカティアにはその違和感が分かる。しかし、その差異を他者に証明する手段がないことが、何よりも厄介だった。
「ノエルさん!」
扉側のカティアが叫ぶ。
「さっき、私を庇ってくれましたよね」
森側のカティアも同じ言葉を続ける。
「証拠がなくても、切り捨てないと言ってくれました」
「記憶まで同じか」
ノエルは歯を食いしばり、アルベルトが前へ出る。
「どちらかを攻撃して反応を見るべきだ」
アルベルトの掌に氷が集まる。
「待て!」
「時間がない!」
空中の数字は残り十五分を示していた。
「扉は開いた。偽物を排除し、本物だけで通過する必要がある」
「間違えたら本物を傷つける!」
「何もしなければ全員失格だ!」
「だからって!」
「ノエルさん」
アイリスが低く呼ぶ。
「覚悟を決めてください」
「アイリスまで……」
「誰も選ばなければ、結果として全員を危険へ晒します」
「それでも、適当に斬るなんてできない」
「適当ではありません。判断です」
「証拠がないだろ!」
「戦場では、完全な証拠を待てないこともあります!」
アイリスの声が鋭く響く。
「一瞬の遅れで仲間が死ぬ。疑わしい存在を放置した結果、守るべき者が傷つくこともあるのです!」
「だからって、間違って仲間を傷つけたら同じだ!」
「では、どうするのです!」
ノエルは答えられなかった。
目の前には、二人のカティアが並んでいる。どちらも同じ顔で、同じ怯えを浮かべ、同じようにノエルを見つめていた。
どちらかが偽物であるはずだった。だが、どちらも本物にしか見えない。ソルとルナでさえ、二人の魔力は完全に一致していると告げていた。
時間だけが、無情に削られていく。
残り十四分…十三分五十九秒…十三分五十八秒…
「ノエル」
アルベルトが冷たい声で言った。
「君が選べないなら、僕が選ぶ」
「やめろ」
「合理的に判断する」
「やめろって言ってるだろ!」
「なら、君が方法を示せ!」
アルベルトの魔法により氷槍が形成され、その切っ先が森側のカティアへ向いた。
「先ほど、魔物が爆発する直前に離れるよう警告したのは扉側だ。森側は煙が晴れてから現れた」
「違います!」
森側のカティアが叫ぶ。
「私も警告しました! でも、煙の中で位置が変わって──」
「確認できない」
「アルベルト!」
「僕は班全体を守るために判断している!」
氷槍が放たれた瞬間、ノエルは地面を蹴り、森側にいたカティアの前へ飛び込むと剣でそれを弾く。砕けた氷の破片が頬を掠めた。
「ノエルさん!」
「何をしている!」
「本物だったらどうするんだ!」
「偽物だったらどうする!」
「俺が止めるって言っただろ!」
その瞬間、地面が大きく揺れた。
「次はなんですの?!」
扉の周囲に亀裂が走り、先ほど倒した魔物の紫色の煙が地面へ吸い込まれていき、森の土が崩れて巨大な穴が開いた。
「離れろ!」
アルベルトが叫ぶと同時に、二人のカティアの足元から無数の黒い腕が伸びる。扉側にいたカティアはそれに触れた瞬間に表情を失い、その全身が紫色の煙へと変わった。
「きゃあっ!」
ノエルが振り返ると、森側に立っていたのは本物のカティアであり、その両足には黒い腕が絡み付いていた。
「そっちが本物!」
カティアの体はそのまま地面へ崩れ落ちる。黒い腕は彼女を離さず、穴の奥へと引きずり込もうとしていた。ノエルは腕を一つ、二つ、三つと確かに切り落としていくが、そのたびに穴の奥から新たな腕が次々と伸びてきて、カティアを引きずり込むのに迫ってきた。
「《光断》!」
「《凍結》!」
アイリスの斬撃が腕をまとめて消し飛ばし、アルベルトが穴の縁を凍らせる。黒い腕の動きが一瞬だけ止まったかと思えば、黒い腕は黒い獣のような幻影に変わり、カティアの足首へ牙を食い込ませる。
それは実体のないコンラッドの幻術でありながら、痛みも恐怖も現実と変わらぬほど鮮明だった。
☆
1年A組教室
黒板の前には、人の背丈を優に超える巨大な透明の水晶が浮かんでいた。その表面には、抜き打ち適性試験へ放り込まれた一年A組の生徒たちの姿が、いくつもの映像となって映し出されている。炎の壁に追い回される者、仲間を置き去りにして逃げる者、幻影の魔物へ攻撃魔法を連発して魔力切れを起こし倒れる者、罠だと分かっていながら宝箱を開けずにはいられなかった者、そして中には、試験開始からほとんど動かず、隅で泣いている生徒の姿もあった。
「うん。実に個性豊かだ」
コンラッドは水晶の前に椅子を置き、楽しそうに頬杖をつきながら座っていた。片手には湯気の立つ紅茶、もう片方の手には一年A組の名簿を持ち、生徒が悲鳴を上げるたびに、その名簿へ何かを書き込んでいた。
「集団行動が苦手。状況判断は早いが他者への配慮に欠ける。魔力制御は優秀。ただし宝箱への執着が強い、と」
「お前、本当に性格悪いな」
背後から呆れを含んだ声が飛んできたが、コンラッドは振り返らない。
「褒め言葉かな」
「どう聞いたら褒め言葉になるんだよ」
部屋の壁際には、薄紫色の髪をした青年が立っていた。透き通るような白い肌と涼しげな青い瞳、中性的で繊細な顔立ち。容姿だけを見れば、物静かな芸術家か高位貴族の令息にでも見えるが、その立ち姿はあまりにも豪快で、まるで酒場で喧嘩相手を待ち構えているかのような気配を漂わせている。彼の名はアミュ・プロテクシオン。王立アストル魔法学院で防衛魔法を担当する教師であり、学院全域を覆う巨大結界を維持する“番人”と呼ばれる結界師だった。そんな彼は水晶に映る生徒たちを眺めながら、露骨なジト目をコンラッドへと向けていた。
「入学式の説明会に来た子どもを、いきなり底なし穴へ落とす教師がどこにいる」
「ここにいるよ」
「胸を張るな」
「底なしではない。きちんと底は用意してある」
「何百メートル下だ」
「幻術上では、約八百メートル」
「底なしと変わらねえだろ!」
アミュの怒声が部屋に響いたが、巨大水晶に映し出された映像はわずかにも揺れなかった。そこは外へ音を漏らさず、内部で魔力が暴走しても即座に封じ込めるために強固な結界で覆われた監視室だった。
「それに、落下の感覚も現実と同じ強さに設定してあるだろ」
「現実より少し軽いよ」
「どのくらいだ」
「三パーセント」
「誤差だ!」
「人体への衝撃は発生しない」
「心への衝撃は発生してんだよ!」
アミュは水晶を指差した。映し出された映像の一つでは、男子生徒が巨大な蜘蛛の幻影に追われて泣きながら逃げており、別の映像では女子生徒が自分の三倍ほどある蛙の舌に巻きつかれ、空中で振り回されていた。
「悪趣味にも限度があるだろうが」
「危険な状況でこそ、本性は現れる」
「だからって、巨大蜘蛛と巨大蛙を同時に出す必要はねえ」
「蜘蛛が苦手な生徒と、蛙が苦手な生徒を公平に扱うためだ」
「公平って言葉に謝れ」
コンラッドは表情は穏やかなまま紅茶を一口飲んだ。
「安心してほしい。試験領域は君の結界で覆われている。命の危険はないよ」
「俺の結界があるから好き放題やってるんだろ」
「信頼しているんだよ」
「便利な言葉だな、おい」
「教師同士の信頼は大切なことだよ」
「後で一発殴らせろ」
「暴力は良くない」
「お前が言うな!」
アミュは深い溜息をつき、再び水晶へ目を向けた。数ある映像の中でも特に大きく表示されている一つには、ノエル、アイリス、アルベルト、そしてカティアの四人が放り込まれた試験領域の様子が映し出されていた。
「こいつらが、お前の本命か」
「本命という言い方は、少し語弊があるね」
「じゃあ、注目株」
「まぁ、それなら否定しない」
コンラッドの指が水晶の表面へ触れると、映像が拡大され、崩れ落ちる足場と底の見えない深い穴が映し出される。
その縁へノエルが身を乗り出している姿が浮かび上がった。
「さて、彼はどうするんだろうね」
コンラッドは目を細めて微笑を浮かべた。
☆
「手を伸ばせ!」
ノエルの叫びが響いた。
黒い魔物は空間そのものに爪を立てるように蠢き、獲物を闇の底へと引きずり込もうとしている。足元はすでに安定を失い、重力そのものが歪んでいるかのようで、二人の身体は闇へと引きずり込まれそうになっていた。
「駄目です!ノエルさんまで落ちます!」
「落ちてから考える!」
即答だった。思考より先に身体が動いているその無謀さに、カティアは絶望と同時に、どこか救われるような感覚すら覚えていた。
「何も考えていませんわ!」
アイリスの冷静な指摘が、落下の緊張をさらに現実へ引き戻す。状況は最悪だった。
『いつものノエル』
ソルが上空を旋回しながら呟く。その声には呆れと諦めが半分ずつ混ざっている。
『落ちてから困る』
ルナも淡々と続けた。まるで事実確認のような口調だった。
「今は助けてくれ!」
ノエルの声が切迫する中、空間の歪みの中へ必死に伸ばされた指先は一瞬だけカティアの手に触れたものの掴みきれずに滑り、わずかな隙に彼女の身体はさらに闇へと沈み込んでいった。黒い魔物は歓喜するように蠢き、獲物を深淵へ引きずり込もうと首を振っていた。
「ノエルさん!」
「掴んだ!」
次の瞬間、ノエルはカティアの手首を強く握りしめていた。細い腕は、少女の姿を保つための魔法薬によって変化しているとはいえ、確かに“人間”のものであり、生きている重さと温度、そして微かな震えがそのまま手の中に伝わってくる。強く引けば壊してしまいそうなほど脆いのに、力を緩めれば確実にその存在を失ってしまうような危うさがあった。
「離してください!」
「嫌だ!」
即答だった。迷いはなく、ただ手を離すという選択肢だけが存在しなかった。
「このままでは二人とも──」
「一人より二人の方が何とかなる!」
理屈や信念ではなく、衝動に近い言葉だったが、そこには確かな熱が宿っていた。
『理論が雑すぎる』
『むしろ重くなる』
「分かってるよ!」
ノエルは叫び返したが、それでも手は離さなかった。必死に引き上げようとするが、ノエルの上半身が穴の外へと引きずられる。
床に爪を立てるが、土と苔に指が滑り、体は少しずつ前へと引き込まれていく。足元には踏ん張れるものがなく、このままでは自分も穴へ落ちてしまうと分かっていた。それでも、手を離すという選択肢は浮かばなかった。胸の奥で家族のお守りが揺れ、ルーベ村で暮らす父、母、妹の姿がよぎる。
ニグルムと交わした約束──大切なものを守ること、世界を守ること。それほど大きなことを口にした自分が、目の前にいる一人の手を離していいはずがなかった。
「馬鹿なんですか!」
背後から鋭い叱責が飛ぶと同時に、ノエルの腰にアイリスの腕が素早く回され、強引に引き寄せられた。
「アイリス!」
「助けるなら、せめて助けを求めなさい!」
「今、求めようと思ってた!」
『嘘』『思っていなかった』
ソルとルナの冷静な指摘が重なる。
「少しくらい庇ってくれ!」
ノエルが叫ぶが、状況は止まらない。
「アルベルトさん!」
「分かっている!」
アルベルトは二人の背後へ踏み込むと、両手を床へと突き、魔力を解放した。
「氷の楔よ──《氷縛杭》!」
青白い魔法陣が展開されると同時に冷気が森を駆け抜け、ノエルとアイリスの周囲へ分厚い氷が一気に広がった。氷は地面を覆うだけでなく、数本の杭となって床へ深く突き刺さりアイリスの足元を固定し、さらに細い氷の帯が伸びて彼女の腰とアルベルトの腕へと絡みついた。
「これで耐えられる!」
「冷たいですわ!」
「我慢しろ!」
「女性の腰へ断りなく氷を巻くとは、随分な礼儀ですわね!」
「今それを言うのか!」
「いま、は、喧嘩するな!」
ノエルがカティアの手を離さないように必死に掴みながら叫ぶ。
「喧嘩ではありませんわ!」
「意見交換だ!」
「どちらでもいいから引っ張ってくれ!」
『ノエル油断禁物』
『手が滑って落ちる』
「分かってる!」
カティアの手首は汗でじわじわと滑り始めていた。足元では黒い魔物が依然として噛みつき、離れる気配がない。
「ソル、ルナ! あいつを引き離せるか!」
ノエルの言葉に二人の妖精王は宙に並び、魔物を見下ろした。普段は無表情な瞳に、僅かに妖しげな光が宿る。
『魔力の核がある、右の牙』
『右の奥に術式がある』
「分かった!」
三人の力が重なり、カティアの身体は穴の縁まで引き上げられた。ノエルはすかさず左手も伸ばし、彼女の腕をしっかりと抱え込んだ。
「もう少し!」
カティアの指が穴の縁へ届いたが、穴の縁が再び崩れ、ノエルの胸元を支えていた氷も砕けたことで、二人の体は一瞬宙へ浮いた。
「うわっ!」
「ノエルさん!」
『落ちる』
『本日三回目』
「数えるなあああっ!」
「落としませんわ!」
アイリスの叫びと同時に、全身から白い光が迸った。聖剣の称号に呼応する、澄み切った魔力の輝きである。その光に押されるように、足元を拘束していた氷が軋みを上げた。アルベルトも歯を食いしばり、崩れかける氷の帯へさらに魔力を注ぎ込む。
「僕の氷を……舐めるな!」
亀裂の入った床が凍結し、崩落がわずかに止まった。その一瞬の隙を突いてアイリスとアルベルトは二人を一気に引き上げ、ノエルとカティアの身体はそのまま床へと転がり落ちる。勢いのままノエルはカティアを抱きかかえるようにして地面へ倒れ込み、数秒間、誰も動けないまま荒い呼吸だけが森に響いていた。
「……助かった?」
ノエルが呟く。
『助かった』
『ノエルは重かった』
ソルがノエルの頭へ座り、ルナは肩へ降りた。
「俺を引っ張ったのはアイリスとアルベルトだろ」
『妾たちは応援した』
『心で支えた』
「一番軽い役割じゃないか」
「ノエルさん」
カティアの声が、すぐ近くから聞こえた。
「何?」
「その……」
彼女は頬を僅かに赤くしながら、視線を下へ向けた。ノエルはようやく、自分がカティアの上へ覆い被さるような姿勢になっていることに気づく。
「あ」
『近い』
『本日二回目』
「それも数えてたのか!」
ノエルは飛び退くように起き上がった。
「ご、ごめん!」
「いえ……助けていただいたので」
「怪我は?」
「足首が少し痛みますが、歩けると思います」
カティアは足にそっと手を添えた。牙の痕はない。実体を持たない幻影であった以上、肉体そのものは傷ついていないはずだった。それでも、痛みの記憶だけは確かに残っている。
立ち上がろうとした瞬間、足が小さく震えた。
「無理するな」
ノエルが腕を差し出すと、カティアはその手をじっと見つめた。そこには疑いと警戒があった。オウルアイとして生きるようになってから、彼女にとって誰かの差し出す手には必ず裏があるものであり、善意には目的があり、親切には代価があり、信頼とは相手の弱点を知るための手段にすぎない。それが、彼女がこれまで生きてきた世界だった。
それなのに───
「また足を滑らせたら危ないし、俺に掴まれよ」
「……はい」
ノエルの裏表のない純粋無垢な感情に触れ、戸惑いながらもカティアはおずおずと手を重ねる。ノエルはカティアが転ばないようにそっと引き上げた。その手には探るような力も支配しようとする意思もなく、ただ支えるだけの温もりがあった。
「あなたという人は……」
アイリスの冷たい声が飛んできたのを受けてノエルが振り返ると、白銀の髪を乱したアイリスが額へ指を当てていた。
「危険へ飛び込む前に、ほんの一瞬でも相談するという発想はありませんの?」
「一瞬でも迷ったら、間に合わないと思った」
「それ自体は理解できます。ですが、あなた一人まで落ちれば、救助する対象が二人へ増えます」
「結果的には助かっただろ」
「結果が良ければ、過程の無謀さが消えるわけではありませんわ」
『アイリスの正論』
『ノエルの負け』
「勝ち負けの話じゃない!」
「君は本当に考えなしだな」
アルベルトも肩で息をしながら睨んでくる。
「僕たちがいなければ、確実に落ちていたぞ」
「二人がいると思ったから飛び込んだ」
「嘘をつけ!」
「半分くらいは本当だ」
「残り半分は何だ!」
「何も考えてなかった」
「やはり考えなしではないか!」
森の中にアルベルトの怒声が響き渡った直後、遠くから重い足音が近づいてくる。ずしん、ずしんと地面を揺らすその音に、四人の表情は一瞬で引き締まった。
『何か来る』
『三体』
ソルが森の奥に広がる暗闇を見つめ、ルナが反対方向へ顔を向けた。
全員が再び気を引き締める。
『前に一体』
『後ろに二体』
「挟まれていますわね」
アイリスが剣を抜くと、その銀色の刀身に白い光が宿った。




