☆1-8☆最悪の初授業 ③
森を進むほど、幻影の攻撃は増えていった。木の陰からノエルの姿をした偽物が現れ、頭上からはアイリスの声が降ってくる。道の先にはカティアが二人並んで立っているなど、視界そのものが揺らぐような錯覚が次々と襲いかかってきた。
それでも、事前に決めていた合図と互いの行動確認のおかげで、今のところ大きな混乱は避けられている。だが幻影は時間とともに確実に精巧さを増していた。最初は言葉や動きに不自然な違和感があったものの、今では呼吸の間や魔力の揺れさえ本物とほとんど区別がつかないほどになっている。
「また同じ場所ですわ」
アイリスは足を止めた。前方には、幹が途中で二つに分かれた大木が立っている。ノエルが以前剣で刻んだはずの傷はすでに消えていたが、それでも根元に残る青い苔の形が、ここが確かに同じ場所であることを静かに示している。
「三回目だな」
「真っ直ぐ進んでいたはずだ」
アルベルトは周囲を見渡す。
「空間自体が循環している」
「出口はこの辺りにあるんじゃないか?」
「根拠は?」
「同じ場所へ戻されるなら、離れられたくない何かがあるかもしれない」
「珍しく筋が通っていますわね」
「珍しくは余計だろ」
『ノエルが褒められた』
『今日は記念日にしよう』
「お前らまで!」
ノエルはツッコミを入れながら大木へ歩み寄り、その幹にそっと手を当てた。冷たい感触が掌に伝わるが、そこには確かな硬さと重みがあり、幻ではない現実の存在としてそこに在った。
「斬ってみる」
「待ちなさい。罠の可能性があります」
「でも、何もしなければ時間がなくなる」
空中に浮かぶ魔力表示は、残り三十一分を示していた。すでに半分近くが消費されている。
「僕が凍らせる」
アルベルトが前に出た。
「先ほど兄上が窓の蔓を凍らせたように、物質化した幻影なら、凍結で構造を崩せるかもしれない」
「兄の真似か?」
「参考にしただけだ!」
『兄上が大好き〜』
『兄上を尊敬〜』
「悪いか!」
アルベルトは両手を大木へ向けると冷気が地面を這い、幹へ霜が広がっていく。
「《凍結》!」
瞬く間に大木全体が氷に覆われる。枝も葉も根も、すべて白く染まった。
「離れろ!」
次の瞬間、凍結した大木は内側から崩壊した。轟音とともに氷片が四方へ飛び散る。
ノエルはカティアの前に立ち、剣で氷を弾き、同じくアイリスも剣で氷を弾き落とす。
「アルベルト!」
「何だ!」
「もっと静かに壊せなかったのか!」
「壊すなら同じだ!」
「破片が飛んでるだろ!」
『さすが短気』
『高火力』
「結果を見ろ!」
砕けた大木の内部には、黒い石造りの扉が現れていた。周囲には、無数の文字が刻まれた魔法陣が静かに浮かび上がっていた。
「出口か?」
ノエルが目を見開く。
「可能性はあります」
アイリスは慎重に扉へ近づき、刻まれた文字を一つずつ読み解いていく。
「《四つの真実を重ね、偽りを退けよ》」
「どういう意味だ」
「四人全員が扉へ魔力を注ぐ必要があるのかもしれません」
アルベルトは扉の中央へ視線を移すと、そこには剣を象った紋章、雪の結晶、羽、そして梟の目という四つの手形が明確に刻まれており、その瞬間ノエルの表情がわずかに固まった。
「梟?」
その言葉に、カティアの胸の奥で小さな警戒が跳ねた。梟の目──偶然にしては出来すぎている。コンラッドが自分の正体に気づいている可能性が脳裏をよぎる。彼女は眼鏡の奥からその紋章をじっと見つめた。一見すれば知識や観察眼を象徴する一般的な梟の意匠に過ぎず、魔法学院でも珍しいものではない。だが、自分の暗号名はオウルアイであり、完全な偶然として片付けるにはあまりにも一致しすぎていた。
「カティアさん?」
アイリスの声に、カティアは肩を小さく震わせた。
「は、はい」
「梟の紋章に心当たりがあるのですか?」
「いいえ。少し、不気味だと思っただけです」
「そうですか」
アイリスはそう答えたが、その視線はなおもカティアから離れなかった。先ほどの戦闘で蔓に襲われた際の魔力の反応、幻影のアルベルトが現れた時の異様な冷静さ、そして今、梟の紋章を見た瞬間のわずかな動揺。どれも決定的な証拠ではない。だが、それらが積み重なれば、不自然さは明らかだった。
「剣はアイリス、雪はアルベルトだな」
ノエルは他の紋章を順に指差していく。
「羽は俺とソルたち。梟は……カティアか?」
「なぜ私が梟なのでしょうか」
「眼鏡をかけてるから?」
「理由が雑すぎる!」
アルベルトが即座に突っ込んだ。
『眼鏡だから』
『賢そうだから』
「先生がそこまで単純な割り振りをしますか?」
アイリスの声が僅かに低くなり、その場の空気はわずかに張り詰めた。
「カティアさん。あなたの称号は何でしたか?」
「えっ……」
カティアは一瞬言葉に詰まる。
「受付では、称号の仮登録を行ったはずです」
「わ、私は……魔術師です」
「属性は?」
「精神系を少しと、補助魔法を……」
「精神魔法は不得手と仰っていましたね」
「はい」
「不得手でありながら、称号へ影響するほどの適性があるのですか?」
問いは淡々としているが、その内容は鋭かった。ノエルはアイリスを見る。
「どうしたんだよ、急に」
「確認しているだけですわ」
アイリスはカティアから視線を逸らさない。
「この試験では、何度も仲間の姿を模倣する幻影が現れています。それに紋章には『四つの真実を重ね、偽りを退けよ』と書いています」
「だから?」
「ここにいる四人のうち、本当に全員が本物である保証はありません」
カティアの顔から血の気が引いたように見えた。
「わ、私を……偽物だと?」
「可能性を挙げています」
「アイリス」
「ノエルさんは黙っていてください」
普段よりも鋭い口調だった。
「先ほど、カティアさんは幻影の魔物に襲われました。しかし、その直後からの魔力は異常なほど安定していた」
「怖すぎて、逆に何も考えられなかっただけかもしれないだろ」
「蔓に引きずられ、家族の声を持つ異形を目にして、そこまで冷静でいられる十六歳が何人いるでしょう」
「アイリスだって冷静だった」
「わたくしは幼少期から戦闘訓練を受けています」
「カティアにも事情があるかもしれない」
「さらに」
アイリスは扉の梟の紋章を指差す。
「この紋章を見た瞬間、カティアさんの魔力が跳ねました」
「不気味だったからと答えたじゃないか」
「本当に、それだけでしょうか」
カティアは胸元で両手を握り締めた。
「私……自分でも、よく分かりません」
「称号の登録内容を正確に答えてください」
「…、精神魔術師です」
「先ほどは魔術師とだけ答えましたね」
「そ、それは……」
「なぜ隠したのです」
「隠したわけではありません!」
カティアは初めて強い声を上げたが、すぐに自分の声に驚いたように口元を押さえた。
「ごめんなさい……」
か細い謝罪の声が森の静寂に落ちたが、それは状況を解く鍵にはならなかった。
「謝罪ではなく、説明を求めています」
アイリスは冷静に事実を確認するように言葉を発し、その声には一切の揺らぎがなかった。感情よりも状況の把握を優先する姿勢が明確に表れている。その様子を見たノエルは、すぐさま二人の間に割って入った。
「アイリス、もういいだろ」
「良くありませんわ」
アイリスはカティアから目を離さず、疑念を抱えたままその姿を見つめ続ける。
「証拠がない」
アルベルトは理性の側に立つようにそう言った。
「疑うに足る不自然さはあります」
「不自然だから偽物って決めるのか?」
「決めてはいません。確認が必要だと言っているのです」
言葉は冷静だったが、結論は変わらない。
アルベルトは一歩下がり、カティアへ向き直った。
「アイリスの判断は合理的だ」
「アルベルトまで」
ノエルの声に苛立ちが混じるが、アルベルトは揺れない。
「この課題は、全員で帰還することだ。しかし、幻影を仲間として扉へ通せば、どのような結果になるか分からない」
その言葉は、感情ではなく責任だった。
「だからカティアを置いていくのか?」
「置いていくとは言っていない」
アルベルトの手元に冷気が集まり始め、空気がわずかに白く染まった。
「一時的に拘束し、本物であることを確認する」
その提案は、合理的であるがゆえに残酷だった。カティアは小さく息を呑み、一歩後退する。
「拘束……」
「怪我はさせない。動きを止めるだけだ」
「やめろ」
ノエルは迷うことなく前へ出て、カティアを背に庇うように立った。
「退け、ノエル」
「嫌だ」
短い拒絶だが、そこには強い意志があった。
「状況を理解しているのか?」
「理解してる。偽物が混じってるかもしれない。カティアが怪しいところもある。だけど、それだけだ」
「それだけではない!」
アルベルトの声が森に響く。
木々がわずかに震えるほどの圧だった。
「僕たち全員の命が懸かっている!」
「だからって、証拠もなく仲間を縛るのかよ!」
「疑わしい者を自由にしたまま行動する方が危険だ!」
「疑わしいってだけで切り捨てたら、先生の思う通りだろ!」
「切り捨てるとは言っていない!」
「同じだ!」
空気が張り詰め、誰も割って入れない緊張が森全体を支配していた。ノエルはアルベルトを真っ直ぐ見上げる。身長差は大きく、体格も魔力も立場も違う。それでもノエルは一歩も退かなかった。
「カティアは俺たちと一緒にここへ落とされた。襲われて、助けを求めた。今まで一緒に歩いてきた」
「それらすべてが演技かもしれない!」
「かもしれないだけだ!」
「では、偽物ではないと証明できるのか!」
「できない」
ノエルは即答した。その潔さに、アルベルトの言葉が一瞬詰まる。だがノエルは間を置かず、さらに言葉を続けた。
「できないけど、それは俺たちも同じだ」
「何?」
「今ここにいる俺が本物だって、俺自身以外に証明できる奴はいない」
ノエルは肩にいる二人へ視線を向けた。
「ソルとルナは分かるかもしれない。でも、先生の幻術が二人まで騙せるなら、それも絶対じゃない」
『妾たちは本物』
『ノエルも本物』
「ありがとう。でも、他の三人から見れば、それも分からないだろ」
アイリスはわずかに眉を寄せ、冷静に言葉を落とした。
「だからといって、警戒を解く理由にはなりません」
「警戒はすればいい。でも、拘束は違う」
ノエルは即座に返す。その声には、いつもの軽さがなかった。
「もしカティアさんが幻影で、わたくしたちを攻撃したら?」
「その時は俺が止める」
「根拠のない自信ですわ」
「確かに根拠はない」
短く言い切ったノエルは、普段の飄々とした空気は完全に消えている。
「でも、疑って誰かを見捨てるよりはいい」
「理想論だ」
アルベルトが吐き捨てるように言う。
「現実では、一つの判断ミスで全員が死ぬ」
「疑いすぎても死ぬだろ」
「何?」
「仲間を全員疑って、誰とも協力できなくなったら、この扉は開けられない」
ノエルは視線を落とし、扉に浮かぶ四つの手形を見つめた。
「課題は全員で帰ることだ。先生は、俺たちが仲間を疑うように幻影を出してる。でも同時に、四人で力を合わせないと進めないようにしてる」
『信じすぎても危険、面倒な試験』
『疑いすぎても危険、教師の性格が悪い』
「結局そこへ戻るのかよ」
ノエルは小さく息を吐き、再びアルベルトへ向き直る。
「俺はカティアを拘束しない」
「君一人の判断で決めるな」
「じゃあ俺も一緒に拘束しろ」
「なぜそうなる!」
「カティアを疑うなら、庇う俺も怪しいだろ」
「話をややこしくするな!」
『ノエルが率先して状況を悪化させる』
『でもそれがノエル』
「味方してくれよ!」
その時、背後から小さな声が落ちた。
「ノエルさん」
カティアだった。彼女は俯いたまま、かすかに震える声で続ける。
「もう、いいです」
「良くない」
ノエルは即座に否定する。
「私を拘束してください」
カティアは両手を前へ差し出した。細い指先がわずかに震えている。
「皆さんが安全に進めるなら、それで……」
「駄目だ」
「でも」
「駄目なものは駄目だ」
ノエルは振り返り、真っ直ぐにカティアを見た。カティアの桃色の瞳が揺れている。それが演技であることをノエルは知らなかった。ただ受付で書類を落とし困ったように謝っていた姿や、同じ教室で笑っていた姿、幻影の魔物に襲われ助けを求めていた姿、その断片的なことしか知らないノエルには、彼女を疑いだけで縛ることはできなかった。
「怖いなら、怖いって言っていいんだ」
「私は……」
「誰かに疑われて平気な奴なんていないだろ!」
カティアは胸の奥に、これまでにない微かな違和感を覚えていた。
称号【啼忌梟】として彼女は、幾度となく他者の心へ干渉してきた。恐怖、憎悪、欲望、愛情──それらはすべて揺らぎに過ぎず、操るための“音”として扱えるものだと理解している。人の感情は常に不安定で、誰かを信じるという行為に確かな価値などない。人とは本質的に歪んだ存在であり、どれほど澄んだ感情に見えても、その奥には打算や恐れ、自己保身が潜む。心は均衡を保つために必ず歪む──それが彼女の結論だった。
彼女の感覚は、言葉ではなく“心の揺れそのもの”を拾い上げる。音のない波紋のように広がるそれは、嘘をつけない。そして今、彼の内側から伝わってくるものには濁りがなかった。疑念も警戒も恐怖も確かに存在している。だがそれらは表層に過ぎず、その奥にあるのはただ一つ。
“切り捨てたくない”
その一点だけで、彼はそこに立っている。計算でも演技でもない、誰かに認められるための善意でもない、ただ目の前の存在を理解しようとする、あまりにも単純で剥き出しの衝動。
これまで彼女が見てきた者たちには必ず理由があった。欲望、恐怖、立場、利益、そのいずれかが混ざり合い、心は歪みながらも均衡を保っていた。
だがノエルには、その“歪みの型”そのものが見当たらない。
ただ、まっすぐにそこにある。余計な装飾もなく、壊れやすいほどに無防備なまま、あまりにも愚直で、あまりにも危うい…そして、だからこそ、彼女の知るどの理屈にも収まらない。
カティアは無意識に息を呑んだ。
その在り方は、彼女の中に積み上げてきた常識そのものを、静かに、しかし確実に揺らしていた。
(甘い…あまりにも甘い。でも──ニグルム様が彼に執着する理由が、ほんの少しだけ分かった気がする)
「時間がない」
アルベルトは空中に浮かぶ魔力時計を見上げた。針は淡く赤く染まり、残り時間を無情に刻んでいる。
残り二十四分。その数字が、空気を一気に張り詰めさせた。
「議論を続けている余裕はない」
アルベルトの言葉に、誰も反論できなかった。
ノエルは一歩前へ出る。
「なら、四人で扉を試そう!もし何か起きたら、俺が責任を取る」
その言葉に、アルベルトの眉が動く。
「責任で死者は戻らない」
「死なせない」
「だから、その根拠は何だ!」
「頑張る!」
「精神論ではないか!」
『ノエルらしい』
『何も考えていない』
「少しは考えてる!」
ソルとルナの淡々とした声にノエルが反論するが、そのやり取りすら緊張を和らげるには至らず、空気は依然として重いままだった中で、アイリスが静かに息を吐いた。
「分かりました」
「アイリス?」
ノエルが振り返る。
「カティアさんの拘束は行いません」
アルベルトが目を見開く。
「正気か?」
「ノエルさんの意見を全面的に支持するわけではありません」
アイリスは冷静にカティアへ視線を向ける。その瞳には、依然として警戒の色が残っている。
「疑念も消えていません。ですが、この場で拘束すれば、四人の連携が崩れる可能性がある。それも危険です。だから、わたくしが監視します」
白銀の髪が、魔力光を受けて静かに揺れた。
「カティアさんが不審な行動を取れば、その瞬間にわたくしが斬ります」
「言い方が怖い!」
ノエルが思わず声を上げる。
「拘束より悪化してないか?」
「迅速に対処するという意味ですわ」
「首を見ながら言うなよ!」
「ご心配なく。峰打ちもできます」
『剣は両刃で峰打ちとは?』
『峰はあるけど小さい…上手くやらないと死ぬ』
「物理的に無理じゃないか!」
ソルとルナの冷静すぎる補足に、ノエルがさらに叫ぶが、アイリスは一切表情を崩さないまま続けた。
「必要であれば、即座に対応します。それが最も合理的です」
その言葉に、場の空気がわずかに引き締まる。カティアは小さく息を呑み、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
「本当に分かってるのか?」
ノエルが思わず確認すると、カティアは一瞬だけ視線を落とし、それから静かに答えた。
「ノエルさんが庇ってくださったから……私も、皆さんを信じたいです」
その言葉に、アイリスの瞳がわずかに細くなるが、否定も追及もしなかった。ただ一度だけ小さく頷く。
「アルベルトさん」
アイリスが視線を向ける。
「……不本意だ」
アルベルトは短く吐き捨てるように言い、冷気を収めた。
「だが、三人がその判断を選ぶなら、今は従う」
「ありがとう」
ノエルが笑顔で返す。
「勘違いするな。僕はカティアを信用したわけではない」
『アルベルトのツンデレ』
『でもこれは通常運転』
「この状況でまで言うな!」
だがその声には、先ほどまでの鋭さにわずかな揺らぎが混じっていた。時間は、確実に減っていく。それでも彼らは、次の一手へと進む準備を始めていく。




