☆1-7☆最悪の初授業 ②
呼吸を整えるたびに、先ほどまで聞こえていた“妹の声”がただの幻だと理解が深まっていく。
(罠だ。あれは全部、俺を止めるための)
視線が鋭くなり、森の奥に潜む気配を真正面から見据えたノエルは、もう迷いを捨てて一歩踏み出し、剣先を黒い獣の気配へと向けた。次の瞬間、地面が爆ぜるように魔物が一気に蹴り出し、黒い影となってノエルへ跳び掛かってくる。その動きは空気を裂くほどの速度だった。
「《氷槍》!」
背後からアルベルトの声が鋭く響く。
森の空間に魔力が走り、無数の氷の槍が瞬時に生成される。氷の槍は一直線にその胴体を貫き、冷気が一気に広がりを見せ、空気中の水分すら凍りついた。
だが、これで終わりではない。続いて、白い閃光が森を走る。
「《光断》!」
アイリスの剣が眩い光を放ち、空間ごと断ち切るように振り抜かれた。光の軌跡は魔物の首を正確に捉え、一閃のもとに切り落とす。確かな手応えに、誰もが一瞬「終わった」と思った。
しかし次の瞬間、異変が起きる。頭部が地面に落ちるよりも早く、魔物の身体は紫色の煙へと変わり始めたのだ。崩れ落ちるのではない。まるで最初から実体など存在しなかったかのように、静かに消えていく。
やがて跡形もなく霧散し、森には再び静寂だけが戻った。
「消えた……」
ノエルは剣を構えたまま呟き、目だけで煙の残滓を追ったが、そこにはもう何もなかった。
「幻影ですわ」
アイリスは剣を軽く振り、刃に残った紫の煙を払った。冷静な動作の中に、わずかな警戒が残っている。
「ですが、単なる映像ではありません。攻撃には質量があり、こちらの術式とも干渉しました」
「幻術で作られた魔物ってことか?」
ノエルは剣を下ろさず、視線を森の奥へ向けたまま問い返した。
「恐らくは」
アルベルトが即座に答えながら、ノエルたちのもとへ駆け寄る。氷の魔力を収束させつつ、周囲の気配を探っていた。
「君はなぜ一人で飛び出す!」
到着するなり、アルベルトはノエルの胸ぐらを掴みかける勢いで詰め寄った。
「カティアが襲われてたからだ」
「声そのものが罠である可能性を考えなかったのか!」
「考えるより前に身体が自然と動いたんだよ」
ノエルの迷いのない返答にアルベルトの眉が跳ね上がる。
「それを無謀と言うんだ!」
そのやり取りを見ながら、ソルとルナは空中で小さく頷く。
『生徒会長の話』
『無謀と勇気を混同するな』
ソルが淡々と言い、ルナも続ける。あまりにも冷静な補足に、アルベルトの怒りが一瞬だけ空振りする。
「ちゃんと覚えてたんだな」
「感心している場合か!」
アルベルトの怒声が森に響き渡るが、ノエルは一歩も引かない。
「でも、カティアはいた」
「結果だけで正当化するな!」
厳しい声が返ったが、その奥には完全な否定ではない揺らぎがあった。
「ご、ごめんなさい……」
小さな声が割って入る。
カティアは俯いたまま、両手を胸の前でそっと握りしめていた。まだ幻術の影響が完全には抜けていないのか、その表情には深い疲労の色が残っている。
「私が、助けを求めてしまったから……」
「カティアが謝ることじゃない。襲われたら助けを呼ぶのは普通だ」
その言葉には迷いがなかった。カティアの存在を否定しないための、強い断言だった。
「しかし、助ける側が警戒を怠ってよい理由にはなりませんわ」
アイリスの声は厳しく響いたが、その視線はノエルだけでなく周囲全体を見渡しており、責めるというより状況を正しく整理するための冷静な指摘だった。
「ノエルさん。あなたは先ほど、魔物の声へ反応していましたね」
「家族の声だった」
ノエルが短く答えると空気がわずかに張り詰めた。
「やはり」
アイリスはゆっくりと息を整え、先ほどの違和感を言葉にした。
「わたくしには、テラ様の声が聞こえました」
その言葉に、周囲の空気が一段重くなる。
森の静寂がさらに深まり、まるで誰かが耳を澄ませているかのような圧が生まれた。アイリスは僅かに唇を引き結び、剣の柄を握る手に力を込める。
「“剣を捨てなさい”と」
静かな告白だった。だが、その内容は明らかに異常だった。
三大英雄の一人【テラ】
初代聖剣の称号を持つ女性が、戦闘中にそんな言葉を発するはずがないとノエルは眉をひそめる。
「それ、絶対に偽物だろ」
「当然です。テラ様が敵を前にして剣を捨てろなどと仰るはずがありません」
アイリスもすぐに同意するように言い切る。
だが、その声にはわずかに硬さが残っていた。
『アイリスの中のテラの人物像』
『常に戦う戦闘狂?』
ソルとルナは同時に、まるで観察記録のように淡々と小さく呟き、アイリスの頬がわずかに引きつる。
「テラ様は高潔なお方です!」
反論するその声には、信仰にも似た強い意志が宿っていて、ノエルは肩をすくめる。
「戦わないとは言ってないぞ」
「高潔に戦うのです!」
「結局、戦うんだな」
ノエルの呟きに、アルベルトが腕を組んだまま視線を横へ流す。彼は少しだけ間を置いてから、低く言った。
「僕には、兄上の声が聞こえた」
その言葉に、空気が一瞬だけ変わり、ノエルはすぐに振り向いた。
「何て?」
アルベルトはわずかに視線を落とし、剣の柄を握る手に力を込める。
「……“失望した”と」
一瞬だけアルベルトの表情が曇ったが、それはほんの刹那で、すぐに顔を背けると感情を押し殺すように息を吐いた。
「無論、偽物だと分かっていた」
その言葉は強がりにも聞こえたが、本人はそれ以上語ろうとしなかった。
ソルとルナが静かに視線を交わす。
『とても反応していた』
『氷槍が少し曲がってた』
「黙れ!」
アルベルトの声が森に響き、氷の魔力が一瞬だけ揺らいだことで、周囲の草が白く凍りかける。ノエルはその様子を横目に見つつ、また魔物が消えた場所へと視線を戻した。そこには紫色の煙は一片も残っておらず、まるで最初から何もなかったかのように、森はただ静かに広がっていた。
「嫌な試験だな」
ぽつりと漏れた言葉には、苛立ちと警戒が混ざっていた。
ただの戦闘ではない。心の奥に踏み込んでくる種類の仕掛けだと、誰もが理解し始めている。アイリスは剣を鞘に戻しながら、冷静に分析を続けた。
「適性試験ですから、戦闘能力だけを測るものではないのでしょう」
その声は落ち着いているが、先ほどの動揺を完全に消しきれてはいない。
「判断力、精神耐性、協調性。複数の要素を確認していると考えられます」
理屈としては正しい。だが、それが余計にこの試験の不気味さを際立たせていた。
「入学前から性格の悪さも確認できたぞ」
ノエルの言葉にソルとルナが同時に視線を上げる。
『教師の性格が悪い』
『ノエルでも分かる悪さ』
「先生への評価は試験項目に含まれませんわ」
「入れてほしいな」
アイリスが即座に訂正するように言い、その言葉にノエルは少しだけ間を置いてから、空を見上げるように呟いたその時、突然空中に鐘の音が響いた。
一度、二度、三度と澄んだ音が森全体へ広がり、その余韻が消えるより早く、上空に白い光が集束していく。
やがて光は形を持ち、半透明の数字として空に浮かび上がった。
──制限時間、六十分
───残り時間、五十八分三十二秒
空間に浮かぶ数字は、まるで砂時計のように静かに減少していた。だがその減り方は穏やかではなく、一定のリズムで刻まれるたびに、周囲の空気がわずかに重くなる。ノエルはその異常な現象を見上げ、焦りを隠せずに声を上げた。
「もう時間が減ってる!」
その瞬間、数字の下部に淡い魔力の線が走り、まるで“開始条件”が遅れて発動したかのように、さらに減少速度が加速する。アイリスは即座に状況を分析し、冷静に結論を口にした。
「着地した時点から始まっていたのでしょう」
しかしその説明は、状況を理解する助けにはなっても、安心には繋がらない。むしろ“すでに手遅れの可能性”を強調するだけだった。
ノエルは思わず声を荒げる。
「説明前から時間を減らすなよ!」
そのやり取りを見ていたソルとルナは、淡々とした調子で空間の異常を評した。
『悪徳商法』
『無料期間が短い』
「授業を商売に例えるな!」
あまりにも的確すぎる比喩に、場の緊張が一瞬だけ奇妙な方向へ逸れる。だがノエルは即座にツッコミを入れ、現実へ引き戻した。
その声が響いた直後、数字の下に新たな文字列が浮かび上がる。まるで契約書の追記のように、じわりと滲むように現れたそれは、明らかに“条件追加”を示していた。
──課題
その言葉は空間そのものに刻まれたかのように、四人の頭上へ浮かび続けていた。
──制限時間内に出口を発見せよ
──同一区画へ配置された全員で帰還せよ
──尚、一人でも欠けた場合は失格とする
無機質な文字が淡々とルールを告げる。
ノエルはそれを見上げたまま、隣に立つ三人へ視線を移した。カティア、アイリス、アルベルト。だが出口は見えない。遠くに歪んだ光の膜だけが確認できる。
「全員で帰還か……」
ノエルは小さく呟き、その言葉の重さを確かめるように周囲を見渡す。誰か一人でも欠ければ失格。だが出口は見えない、遠くに歪んだ光の膜だけが確認できる。つまりこの試験は、個人能力ではなく“連携”を試している。あるいは、切り捨てを誘う仕組みだ。
「やっぱり、この四人が同じ班みたいだな」
ノエルは軽く肩をすくめるが、視線は鋭いままだった。足元の地面は不安定で、踏みしめるたびにわずかに沈む。空間そのものが生きているような圧力がある。
「そのようですわね」
アイリスは魔力の流れを観察しながら答える。指先に微細な光を宿し、歪みを測定していた。すでに戦闘時の思考へ切り替わっている。
「失格になった場合はどうなる?」
アルベルトが空中の文字へ問いかける。冷静だが警戒は隠せない。
返答はなく、沈黙だけが落ちる。
だが次の瞬間、最下部に一文が浮かび上がった。
──なお、救助費用は学生側へ請求する場合がある
「金を取るのか!」
アルベルトの声が即座に跳ね上がり、冷静さが崩れ、空間へ一歩踏み出した。
『学院は商売上手』
『フィンが喜ぶ』
「喜ばないと思うぞ!」
ソルとルナの言葉にノエルはツッコむ。そのやり取りが、わずかに空気を緩めた。
「救助費用ということは、実際に危険が存在するという意味ですわ」
アイリスは空間の歪みを睨む。
「一人でも欠ければ失格。故意に仲間を置き去りにすることも認められない」
彼女は一歩下がり、全員の位置関係を確認する。すでに戦術配置を組み立てていた。
「単独行動は避けるべきだな」
アルベルトも頷く。感情は収まり、冷静な判断へ戻っている。
「まずは現在位置と出口の手掛かりを探す。カティア、歩けるか?」
「はい。少し痛みますけど……」
右足へ体重をかけた瞬間、顔がわずかに歪む。蔓に掴まれた痕がまだ赤く腫れ、魔力の痺れが残っていた。
「無理しなくていい」
ノエルはすぐにしゃがみ、視線を合わせる。
「背負うよ」
「えっ?」
カティアは一瞬理解できずに瞬きをする。
「歩くのが遅くなったら危ないだろ」
「で、でも……」
戸惑いと遠慮が混ざる中、ノエルは軽く笑った。
「遠慮しなくていいから」
その言葉は命令でも説得でもなく、ただ当然のように差し出されたものだった。
『そんなノエルに残念なお知らせ』
『カティアより背が低いから無理だと思う』
「今それを言うな!」
『背負うと共倒れになる未来しか見えない』
『ノエルの心と体が傷つく覚悟、ある?』
「バカにするなよ!俺は女の子一人くらい背負える!」
ノエルはムキになって背中を叩いて見せる。カティアはその様子を見て、少し困ったように微笑んだ。状況を冷静に見ていたアイリスが、一歩前へと踏み出す。
「それ以前に、負傷の程度を確認するべきですわ。足元失礼致しますね…《治癒》」
呆れを含んだ声とともに、アイリスはカティアの横へ静かに膝をつき、カティアの足首へそっと手を添え、治癒の魔法を展開する。光は柔らかく、しかし確かな精度を持って患部へ浸透していった。
「骨に異常はありません。軽い打撲です」
「治療できるのか?」
「私の治癒魔法は応急処置程度ですわね」
アイリスは淡々とそう言い切ると、ノエルたちを見た。
「そもそも魔法というものは、古代語の意味を正しく理解し、正確に詠唱できる者が、その言葉に“意思”を乗せて初めて成立するものですわ」
指先を軽く立てる。
「そして重要なのは、それだけではありませんの」
「それだけじゃないのか?」
ノエルが首を傾げると、アイリスは小さく頷いた。
「ええ。“想像力”ですわ」
「想像力?」
「例えば同じ治癒魔法でも、“どう治るか”をどれだけ具体的に思い描けるかで結果は変わりますの。骨が折れているなら、ただ“治れ”と思うのではなく、“骨が正しい位置に戻り、細胞が再生し、痛みが消えていく過程”まで明確に想像する必要がありますわ」
「うわ、細かいな」
「ですから、専門知識がある者ほど魔法の精度は上がりますの。人体の構造を理解している治癒術師と、そうでない者では、同じ詠唱でも結果がまるで違います。つまり、治癒魔法は“癒しを専門とする者”には到底及びませんの。足元にも、ですわね」
「そんなに差が出るのか」
「ええ。魔法とは知識と想像と意思の総合芸術ですもの」
それでも、謙遜するアイリスの治癒魔法は、赤く腫れていた部分を徐々に色を引かせ、痛みの痕跡だけが残る程度まで落ち着かせた。カティアはその変化に驚いたように目を見開いた。
「ありがとうございます、アイリスさん」
素直な感謝の言葉に、アイリスは一瞬だけ視線を逸らす。
「礼は結構です。同じ班の者が動けなければ、わたくしたちも失格になりますから」
『照れ隠し』
『本当は優しい』
「合理的な判断ですわ」
アイリスは即座に言い切ったが、その耳はわずかに赤い。ノエルはそれを見て肩をすくめる。
「二人、気に入った人にはずっとそれ言うよな」
『事実を言っただけ』
『否定は無意味なこと』
「お前らな……」
呆れたようにノエルがため息をつく中、アイリスは何事もなかったかのように立ち上がった。
「歩けますか、カティアさん」
「はい。もう大丈夫です」
カティアは慎重に足を踏み出した。
痛みは完全には消えていないが、歩行に支障が出るほどではない。むしろ先ほどまでの違和感が嘘のように軽くなっていた。
当然のことながら、この程度の負傷は彼女にとって問題にもならない。黒い蔓の動きも、襲撃の前にすでに把握していた。本来であれば捕まる必要すらなかったのだ。だが今回は、ノエルを引き寄せるためにあえて受けた一手に過ぎない。
しかし──コンラッドの幻影はカティアの想定以上に精巧だった。
視覚だけではない。聴覚、触覚、魔力感知、痛覚、空間認識、そのすべてへ同時に干渉し、現実と錯覚させるその完成度は、世界最高峰と評される理由が誇張ではないことを証明していた。
(これほどの幻術を、教室全体へ同時展開するとは…)
カティアは表情を崩さぬまま、空中に浮かぶ制限時間を確認する。
──残り五十七分
この空間構造であれば、単独でも術式の中心を割り出し、強制的に脱出することは不可能ではない。だが、それを行えば即座に違和感が生じる。観察されている可能性がある以上、今は“カティア・リューゲン”という新入生として振る舞う必要があった。力を隠し、情報を集め、ノエルへ接近する。
同時に、コンラッドからも監視されている可能性を考慮する。それは実に厄介な状況だった。
「カティア?」
ノエルの声がすぐ近くで響き、気づけば彼はすでに顔を覗き込むほどの距離まで来ていた。
「まだ痛い?」
「い、いえ。大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
(…近い)
あまりにも無防備に距離を詰めてくる。
桃色の瞳に、ノエルの顔がはっきりと映り込んだ。事前に聞いていた通り、確かに中性的な印象を持つ整った顔立ちだ。少年としてはやや繊細で、どこか危ういほどに優しい雰囲気を纏っている。…だが本人は、自分の顔を意識する様子がまるでない。相手の表情を読むよりも先に、心配という感情だけが前に出ている。
そのため、こちらの微細な変化には気づいていない。カティアはその事実を静かに観察しながら、わずかに目を細めた。
(…本当に、無防備な人ですね)
「ノエルさん」
アイリスの冷たい声が飛ぶ。
「カティアさんが困っていますわ」
「え?」
「顔が近すぎます」
「あ、ごめん!」
ノエルは慌てて距離を取ると、場の空気がわずかに緩んだが、その一方でソルとルナは淡々とした視線を交わしていた。
『これだからノエルは村でセイレーンと呼ばれる』
『無自覚に人の夢と希望を破滅させて、被害者が増えていく』
「その呼び名を此処で広めるな!」
アルベルトが眉をひそめる。
「セイレーン?何だ、それは」
「何でもない!」
ソルとルナは容赦なく続けた。
『美しい歌声と容姿で人々を魅了し、淡い夢すらも破滅させる男』
『男はノエルが女性でないことを惜しみ、女性はその魅力に心を奪われ、結果として老若男女問わず絶大な人気を誇っていた』
「全部言うな!」
ノエルは頭を抱え、アルベルトはしばらく無言でその様子を見つめていた。その視線には純粋な疑問と検証の色が混ざっていた。
「君が?」
「その疑う目は何だ!」
「歌声はともかく、容姿については──」
アルベルトは改めてノエルを観察した。ダークブラウンの髪に、大きな瞳。黙っていれば少女と見間違える者もいるだろう整った顔立ちだ。だが、先ほどまでの叫び声や、妖精たちと本気で口論していた姿が脳裏に蘇る。
「外見と中身の差が大きいからな…」
「どういう意味だ!」
ソルとルナが即座に補足する。
『見た目は綺麗』
『中身はノエル』
「俺の中身を悪いものみたいに言うな!」
そのやり取りを見て、カティアは口元を押さえ、小さく笑った。
その笑みにアイリスの視線が一瞬だけ向く。ほんの僅かな違和感。先ほどまで足を痛め怯えていた少女とは思えないほど、カティアの魔力の流れは整いすぎていた。呼吸、脈拍、魔力の循環、そのすべてが静かすぎるほど安定しており、まるで最初から乱れていなかったかのようだった。アイリスの指先がわずかに動くが、その異変を悟らせぬよう表情には一切出さなかった。
「……カティアさん」
「はい?」
カティアはすぐに、弱々しい表情へと戻した。
「何でしょうか」
「いえ」
アイリスはそれ以上は言わなかったが、ロイヤルブルーの瞳の奥には、小さな疑念だけが静かに残っていた。
☆
四人は森の奥へ向かって歩き始めたが、出口の場所は示されておらず、方角を確認しようにも空の月はどこから見ても同じ位置に浮かび、木の幹へ目印を付けても数分後には傷が消え、来た道を振り返ると景色が変わっていた。
「完全に迷わせる気だな」
ノエルが先ほど確かに刻んだはずの印はどの木にも見当たらない。指先でなぞった感触すら曖昧で、まるで最初から何もしていなかったかのように森が“修正”している。
「出口を発見することが課題なら、単純に歩き続けても辿り着けないでしょう」
アイリスは周囲の魔力の流れを読み取りながら答える。彼女の視線は常に一定の方向を探しているが、そのどれもが正解に繋がっていないことを理解しているようだった。
森全体が一つの巨大な迷宮術式として機能している。そう判断するには十分すぎる異常だった。
「何らかの法則か、手掛かりがあるはずです」
アイリスは冷静に言いながらも、わずかに眉を寄せる。完璧主義の彼女にとって、解けない構造はそれだけで不快だった。
「魔力の流れは?」
アルベルトが足を止め、空間そのものを観測するように目を細めた。彼の周囲には微細な氷の粒子が漂い、空気中の魔力密度を可視化している。
「一定ではありません。複数の方向から流れ込んでいます」
アイリスの返答に、アルベルトは小さく舌打ちする。
「僕も同じだ。中心となる術式の位置を特定できない」
氷の粒子が揺らぎ、まるで答えを拒むように霧散するその瞬間、空気が一段と重くなった。
『上に魔力が集まっている』
ソルが空を指差す。オレンジ色の瞳は月を見ているのではなく、そのさらに奥を見透かしているようだった。
『下にも魔力が集まっている』
ルナは地面を指した。青い瞳は静かに、しかし確信を持って下方を示している。
「どっちだよ」
『つまりは両方』
『空間全体が魔力の塊』
双子の妖精は同時に答えた。その言葉は冗談ではなく、事実をそのまま述べているだけのような淡々とした響きだった。
「つまり、出口の方向は分からないのか?」
『分からない』
『妾たちも万能ではない』
ソルとルナはあっさりと認めた。普段の自信満々な態度との落差に、ノエルは一瞬だけ肩の力が抜ける。
「素直に認めるんだな」
『ノエルより万能だから問題ない』
『ノエルに比べたら十分優秀だから問題ない』
「俺を基準にするな!」
即座に叫ぶノエルに、森の静寂がわずかに揺れた。だがその声すら、どこか遠くへ吸い込まれていくように感じられる。
「静かに」
アイリスが足を止めた。その声は低く、いつもの軽口とは違う緊張を含んでいた。
四人の視線が一斉に彼へ向く。アイリスは周囲の空気を見つめながら、ゆっくりと続ける。
「今、森の“呼吸”が変わりました」
森の右側から、木々の向こうを踏みしめる足音が聞こえた。規則正しく、迷いのない歩調。一人分の気配だと分かるのに、妙な圧があった。
四人は反射的に背中を寄せ合い、それぞれの武器を構える。ノエルは剣を抜き、アイリスも同じく剣を静かに構えた。アルベルトは両手に冷気を集め、空気がわずかに白く曇る。
カティアは鞄の横に括り付けていた細い杖へ手を伸ばした。それは仕込み杖で、刃を抜けば教師陣とも渡り合えるほどの武器だが、今はその正体を隠し、怯えた新入生のように両手でぎこちなく構えている。
「誰かいるのか!」
ノエルが呼び掛けると足音が止まるが、返事はなかった。
「生徒なら、名前を答えろ!」
アルベルトが続けると、しばらく沈黙が続いたのち、やがて木々の間から人影が現れた。
「僕だ」
出てきたのは、アルベルトだった。
「………は?」
ノエルは隣へ視線を向けると、そこにもアルベルトがいた。同じ金髪、同じ翡翠色の瞳、同じ制服、背丈も声も表情も完全に一致していた。
『うわ、増えた』
『うるささ二倍、耳が痛くなる』
「そこを心配するな!」
隣にいたアルベルトが声を上げる。森から現れたアルベルトも、同じように眉を吊り上げた。
「偽物から離れろ、ノエル!」
「そちらが偽物だ!」
二人の声が重なる。
声色も、抑揚も同じであり、どちらも魔力の波長も完全一致。呼吸のリズムすら同じで、外見的な差異は一切なく、ノエルは交互に二人を見る。
「面倒なことになったな」
状況を整理しようとするように、ノエルは額を押さえながら呟いた。
幻術の気配はあるが、どちらにも“本物らしさ”が残りすぎている。
「本物はどっちだ?」
問いかけは単純だが、答えは極めて難しい。
片方は幻影であるはずなのに、思考の癖まで再現されている。
「僕だ!」
即座に一人が声を上げる。
その声には焦りと苛立ちが混じっている。
「僕に決まっている!」
もう一人も一切の間を置かずに言い返す。
どちらも一歩も引かない。
『両方うるさい』
ソルが冷たく言い放つ。
空中で腕を組み、呆れたように二人を見下ろしていた。
『見分けがつかない』
ルナも静かに首を振る。
妖精王ですら識別できない異常な精度の模倣だった。
「ソルとルナでも分からないのか?」
ノエルが思わず問いかける。
『魔力も同じ』
『記憶の表面まで模倣している』
ソルとルナが淡々と分析する。
それはもはや幻術というより“存在の複製”に近かった。
「先生、本当に性格悪いな!」
ノエルは思わず叫ぶ。
この状況を作り出した術者への純粋な怒りだった。その横で、アイリスが静かに剣を抜いた。光を帯びた刃が、二人のアルベルトへ同時に向けられる。
「動かないでください。どちらかが幻影です」
声は冷静だが、空気は張り詰めている。
少しでも判断を誤れば、実体の方を傷つける可能性がある。
「「当然だ!」」
二人のアルベルトが同時に答えた。
「同時に話さないでください!」
アイリスの声が一段強くなる。
判断材料が増えるどころか、混乱が加速していた。
「彼が真似をしている!」
「そちらが真似をしているのだ!」
互いに指を突きつけ、完全に同時進行で言い争う。声の抑揚、怒りのタイミング、呼吸の間まで一致している。
「これ、終わらないぞ……質問して見分けるしかないな」
「「僕にしか分からない質問をしろ」」
二人が同時に胸を張る。その自信すら完全に一致しているのが、逆に恐ろしい。
「じゃあ、好きな食べ物は?」
ノエルは最も単純な質問を投げた。
「「子牛肉の香草焼き」」
答えは重なった。完全に同時で、声の揺れも、言い切るタイミングも一致している。
「嫌いな食べ物」
続けてノエルが問う。
「「茄子」」
またも同時で沈黙が落ちる。
「意外と子どもっぽいな」
「「関係ないだろ!」」
『完全再現』
『短気まで同じ』
「ベッドの位置決めのじゃんけんで、何を出して負けた?」
「「チョキだ!」」
二人は悔しそうに答えた。
「偽物まで覚えてるのか」
「記憶を読まれているのかもしれませんわ」
アイリスは警戒を崩さない。
「あるいは、最初からわたくしたちの会話すべてが監視されている」
『やっぱり教師の性格悪い』
『趣味が悪い』
「そこは俺も同意する」
カティアは二人のアルベルトを見比べた。
片方は本物で、もう片方はコンラッドの幻影だ。精神魔法に長けた彼女には、その差がわずかに見えていた。本物の周囲には、感情に伴う魔力の揺れが確かに存在している。苛立ち、警戒、そしてノエルたちに偽物と誤解されたくないという焦りが、自然な順序で滲み出ていた。
一方で幻影にも同様の反応は再現されているが、その魔力の発生順序だけが僅かに逆転している。コンラッドは人間の反応を極めて精密に模倣しているが、心そのものまでは複製できていない、いやしていないと言うべきか。
「カティアは、どっちだと思う?」
「えっ?」
「何か分からない?」
「わ、私には……」
カティアは胸元で両手を握りしめた。
「ごめんなさい」
正解を見抜くこと自体は難しくない。だが、精神魔法が苦手な新入生という立場で、世界最高峰の幻影を即座に見破るのはあまりにも不自然なことだ。
「謝らなくていいよ」
ノエルは二人のアルベルトへ視線を向ける。
「もう面倒くさいし、どっちも本物でいいんじゃないか?」
「「良いわけがない!」」
二人のアルベルトの声が重なり、森の静寂を切り裂いたその直後、空気がわずかに揺れる。
ソルが片方のアルベルトへ向かって飛び、宙でぴたりと停止した。
『あ、発見した』
「何が?」
ソルは森の奥から現れたアルベルトの頭上へ移動し、無表情のまま観察する。
『顔面着地の時の名残』
『大地との接吻の名残』
ルナも続いて隣へ浮かび、同じように見下ろした。
『右側が本物のアルベルト』
『本物は髪の中に苔が少量紛れている』
「そんな見分け方があるか!」
最初からノエルたちと行動していたアルベルトが怒鳴る。同時に、森から現れたもう一人のアルベルトの表情がすっと消えた。翡翠色の瞳が、ゆっくりと赤へ染まっていく。
「当たりみたいだな」
ノエルは一瞬の躊躇もなく地面を蹴り、剣を横薙ぎに振り抜く。偽アルベルトは腕を上げて受け止めようとしたが、刃はその防御ごと胴体を断ち切った。切断された肉体は崩れ、紫色の煙へと変質する。
だが頭部だけは宙に残り、アルベルトと同じ声で笑った。
《兄上は、お前を見ていない》
その言葉に、アルベルトの表情が強張る。
《兄上にとって、お前は出来の悪い弟でしかない》
「黙れ!」
アルベルトが感情のまま手を伸ばすと、氷の魔力が一気に収束し、偽アルベルトの頭部を包み込み、それは粉々に砕け散った。紫の煙は森の奥へと散り、やがて完全に消える。
後には何も残らず、静寂だけが戻った。
「アルベルト」
「何だ」
「大丈夫か?」
「何がだ」
アルベルトは呼吸の乱れを隠すように顔を背ける。
「あれは幻影だ。偽物の言葉など、僕には何の意味もない」
『強がり』
『かなり効いた』
「黙れ!」
ソルとルナの淡々とした指摘に、アルベルトが怒鳴り返すその様子を見て、ノエルは軽く笑った。
「本物だな」
「何?」
「怒り方で分かった」
「今さら確認するな!」
アイリスは剣を鞘へ戻さず、煙が消えた空間を鋭く見据えていた。残滓の魔力はすでに薄れているが、そこに“何かがいた”という痕跡だけが、空気の歪みとして残っている。
「仲間の姿だけでなく、記憶や弱点まで模倣する。厄介ですわね」
その言葉には、警戒というよりも分析に近い冷静さがあった。
「先生は、俺たちを仲間同士で疑わせたいのかな」
ノエルが視線を巡らせながら呟く。
「可能性は高い」
アルベルトは肯定しながら、周囲の気配を切り分けるように集中している。
「課題は全員で帰還すること。だが、同時に偽物を混ぜてくる。誰を信頼するか、その判断も試験なのだろう」
空間そのものが“疑い”を仕掛けてくる状況。単純な戦闘よりも厄介な心理戦だった。
「じゃあ、合言葉を決めよう」
ノエルは人差し指を立て、思いつきをそのまま口にする。
「今ここで決めた言葉なら、後から現れた偽物は知らないかもしれない」
「幻術空間自体に会話を聞かれていれば意味がありませんわ」
アイリスの指摘は冷静そのものだった。
「じゃあ、声に出さず決める」
「どうやってだ」
「全員、好きな数字を頭の中で思い浮かべる」
「共有できないだろ!」
「そうだった」
『考えてから話すのはノエルには難しい』
『ノエルは可愛い猪、ウリ坊だから仕方がない』
「バカにするなよ!」
軽口の応酬の中にも、緊張は消えていない。むしろ、互いに“いつも通り”を保つことで、精神の均衡を保っているようでもあった。
その中で、カティアが小さく手を上げた。
「あの……触れ方を決めるのは、どうでしょうか」
「触れ方?」
ノエルが振り返る。
「たとえば、合流した時に右手で左肩へ触れてから、名前を呼ぶとか……」
「幻影に見られていれば真似されますわ」
「そ、そうですよね……」
カティアはすぐに俯いた。自分の案が不十分であることを理解している表情だった。実際の彼女は、もっと確実な方法をいくつも知っている。個人ごとに異なる魔力波長を封じた暗号、精神へ特定の刺激を与えた際の反応差異、深層記憶にしか存在しない問いを用いた識別、それらはすべて、金糸雀挽歌で“識別”のために叩き込まれた技術だった。
しかし今の彼女の立場では、それを口にすることはできない。
「いや、やらないよりはいい。偽物が見てないところで使えるかもしれない」
ノエルのその言葉は、カティアの提案を否定せず、むしろ肯定する形で受け止めていた。
「右手で左肩に触れて、相手の名前を呼ぶ。それで統一しよう」
短い協議の末、最低限の識別方法が定まった。
アルベルトも渋々ながら頷く
「ただし、これだけで本物と判断するな。他の反応も確認する」
「決まりですわね」
「アイリス」
アイリスも同じ動作を返す。
「ノエルさん」
続いてアルベルトも同じように肩へ触れた。
「カティア」
「は、はい。アルベルトさん」
カティアの返事は少し遅れたが、確かに成立している。
『妾たちの合図は?』
『可愛くてかっこいい合図をしたい』
ソルとルナが不満そうに揺れる。
「二人は俺から離れるな」
『分かった』
『ずっと一緒』
「こういう時だけ素直だな」
ノエルは小さく息を吐いた。緊張の中に、わずかな安堵が混じるが、それはほんの一瞬の静けさに過ぎない。この空間はまだ終わっていない。むしろ今、ようやく“本当の試験”が始まった。




