☆1-6☆最悪の初授業 ①
風が耳元で唸り、制服の上着が激しくはためいた。身体は浮いているのではなく、ただ“落ち続けている”という事実だけが残る。
先ほどまで座っていた机も、教室の壁も、窓から見えていた王都の景色も、跡形もなく消えている。
暗闇の底で、無数の目が開いた。
それは闇そのものが“視線”を持ったかのような異様な光景だった。底の見えない空間に、円環状に並ぶ赤い光点がゆっくりと瞬き、まるで落下してくる獲物を品定めしているかのように揺れている。
空間は上下の概念を失い、重力だけが存在し、すべてを等しく引きずり落とす。その中心へ、学院の新入生たちが放り込まれていく。
「聞いてないぞおおおおっ!」
ノエルの叫びが、底の見えない闇へ吸い込まれていく。声は反響すらせず、途中で溶けるように消え、まるでこの空間そのものが音を拒絶しているかのようだった。
周囲には、同じように落下する一年A組の生徒たちがいた。悲鳴、呟き、呪文の詠唱が断片的に混ざるが、どれも闇に吸われていく。
近くにいた者もいれば、遥か遠くへ流されていく者もいる。距離の概念すら曖昧になり、互いの存在が不安定に揺らいでいる。
コンラッドの幻術は、単なる視覚的な偽装ではない。重力の方向すら誤認させるほどの高位術式であり、空間認識そのものを書き換えている。落下するノエルたちの足元へ、彼は“存在しないはずの地面”を次々と生成し続けていた。
「ノエルさん!」
白銀の髪が闇の中で揺れた──アイリスだ。
彼女は落下しながらも体勢を整え、腰の剣へと手を掛けている。重力に逆らうように姿勢を制御し、空中で軸を保つその動きは、まさに訓練された騎士そのものだった。この状況でも一切姿勢が崩れていないあたり、さすが聖剣と呼ばれるだけはある。あるいは、落下中に剣を抜こうとする辺り、単に恐怖への対処方法が攻撃へ極端に偏っているだけなのかもしれない。
「アイリス!」
ノエルは必死に手を伸ばしたが、距離は縮まらなかった。闇の中では、わずかな動きすら流れに飲まれてしまう。
「騒いでいる場合ではありません! まずは着地の準備を──」
アイリスの声は冷静だった。だがその瞳には、明確な計算と焦りが同時に宿っている。
「床がないんだけど!」
ノエルは叫び返すが、視界のどこにも“地面”と呼べるものは存在せず、ただ遥か下からこちらを見上げる赤い目だけがそこにあった。
「作ればよいのです!」
アイリスは即答した。迷いは一切なく、その声には状況を“解決可能な問題”として捉えている者特有の確信が宿っていた。
「その発想がもう強者なんだよな!」
ノエルの叫びは半ば悲鳴だった。
「《光踏》!」
アイリスが右手を下へ向け、掌から白い光を溢れさせて落下先に円形の足場を形成しようとする。しかし、放たれた光は闇の中へ広がった瞬間、霧のように掻き消え、まるで“存在すること”そのものを拒絶されたかのように消滅する。
「魔法が消えましたわ……?」
アイリスの声にはわずかな動揺が混じっていた。彼女の指先に残っていた魔力の残滓は、黒い空間へと吸い込まれていく。
「先生の幻術の中だからか?」
ノエルが叫ぶ。だがその問いに答えたのは、別の存在だった。
『違う。魔力が阻害されている』
ノエルの頭上から、淡々とした声が降ってきた。ソルは小さな羽を広げ、ノエルの髪を両手でしっかりと掴み、落下の衝撃で振り落とされないよう必死にバランスを取りながらそこに留まっていた。
『落下しながら叫ぶから、ノエルの魔力も乱れている』
反対側では、ルナが襟へしがみついていた。
風圧に髪を揺らしながらも、表情は相変わらず無機質だ。
「叫ばなくても乱れる状況だろ!」
『妾たちは飛べる』
『ノエルは飛べない』
「分かってるなら助けてくれ!」
『重い。ノエルの体重は今の妾たちの百倍以上ある』
『ノエルの体重は可愛げが足りない』
「体重に可愛げを求めるな!」
そのやり取りの最中も、落下は止まらなかった。むしろ加速しているようにすら感じられる。ノエルのすぐ下では、金色の髪を逆立てたアルベルトが同じく落下していた。彼の周囲では氷の魔力が暴走し、空気そのものを凍てつかせながら、落下の勢いに抗うように空間を冷却している。
「君たちは何を呑気に会話している!」
彼の声は怒りと焦りが混ざっていた。落下の中でも理性を保とうとしているが、状況がそれを許さない。
「呑気じゃない! 必死に助かる方法を話し合ってる!」
ノエルが叫び返し、空間の歪みの中で、声だけが必死に繋がっている。
「体重について話していただろう!」
「重要な情報だ!」
「今は何の役にも立たないだろう!氷雪よ、我が足場となれ《凍床》!」
アルベルトは落下しながら魔力を練り上げる。空中で術式を構築するという無茶な制御だったが、彼の集中力は極限まで研ぎ澄まされていた。瞬間、氷の板が生成される。透明なそれは一瞬だけ安定した構造を保ち、闇の中に浮かぶ唯一の“形”となった。アルベルトの両足がその上に触れた瞬間、彼の落下速度はわずかに緩み、氷は重力に抗うようにその場に踏みとどまった。
「成功した!」
ノエルが声を上げる。その声には希望が混じっていた。落下という絶望的な状況の中で、確かに一つの足場が生まれたことへの安堵があった。
「当然だ! 僕を誰だと思っている!」
アルベルトが得意げに胸を張った直後、氷の板は縦へと回転した。コンラッドの幻術空間は物理法則そのものが固定されておらず、重力の方向すら「観測者の認識」に依存しているため、安定した構造を作ろうとするほど、かえってその歪みの影響を受けやすくなる。
「、何っ?」
アルベルトは板の上で足を滑らせ、そのまま再び落下した。さらに回転しながら飛んできた氷が、彼の後頭部に直撃する。
「ぐおっ!」
衝撃で一瞬アルベルトの視界が白く弾ける。だが落下は止まらない。氷は支えではなく、もはや“回転する凶器”と化していた。
「何してるんだ、アルベルト!」
ノエルが叫びながら手を伸ばすが、距離は届かない。
「氷が裏切った!」
アルベルトは空中で必死に体勢を立て直そうとするが、幻術空間の重力は一定ではない。上下の感覚が数秒ごとに反転し、彼の動きは完全に狂わされていた。
『製作者に似てしまった』
『扱いづらいところがそっくりでよかったね』
ソルが淡々と評価し、ルナも続ける。
「僕の魔法は扱いやすい!」
アルベルトは必死に反論するが、その声は空間に吸い込まれていくように響きが薄く、闇の中へと溶けていく。その時、突然闇の奥からコンラッドの声が静かに響いた。
《さて、そろそろ着地してもらおう》
その声は穏やかだった。新入生たちが底の見えない闇へ落下しているというのに、まるで昼食の時間を知らせるような口調である。この空間において彼は“観測者”であり“設計者”だ。生徒たちの落下すら、彼にとっては予定された工程の一部に過ぎなかった。
「着地って、どこへ──」
ノエルが言い終わるより先に、暗闇はふっと消え去った。
重ねられていた幻術の層が一瞬だけ剥がれ、歪んでいた空間の座標が正しく再配置される。
次の瞬間、足元には確かな地面が現れる。
「え?」
落下していたはずの体は、突然、わずか一メートルほどの高さで静止した。重力の方向が「下」から「地面」へと再定義されたことで落下そのものが強制的に終了させられ、ノエルは受け身を取る間もなく、そのまま柔らかな地面へ背中から落ちる。
「ぐえっ!」
肺から空気が押し出されたその胸元へ、ソルとルナが軽やかに着地する。
『可憐に着地成功』
『ノエルは下敷き、ドンマイ』
「最後まで飛んでたなら、もっと優しく降りてくれ……」
ノエルは咳き込みながら上体を起こした。そこに広がっていたのは暗闇ではなく、薄暗い森林だった。黒に近い幹を持つ木々が立ち並び、絡み合う蔓と紫色の葉が不気味に揺らめいている。地面には青白く光る苔が広がり、空には三日月が浮かんでいた。
一見すれば夜の森のように見える光景だったが、どこか決定的に違っていた。肌を撫でる風は生温かいのに、虫の声は一つも聞こえない。葉は揺れず、空に浮かぶ月の周囲には星ひとつ存在しない。
すべてが、まるで“森の形をした舞台装置”のように、静止したままそこに在った。
「ここが、先生の幻術空間……?」
ノエルは立ち上がり、腰の剣を確かめた。剣は確かにそこにあり、お守りも失われてはいない。だが、それがかえって不気味だった。必要なものだけが残されているという事実は、この空間が“戦闘用に最適化されている”ことの証拠でもあった。
『ここは作り物の世界』
『匂いがない』
ソルがノエルの右肩へ、ルナは左肩に座る。
「匂い?」
『土や草』
『自然の匂い』
ノエルも鼻から息を吸ってみると、確かに森の中にあるはずの土や樹液の匂いが感じられなかった。空気を吸っている感覚はあるのに、そこには何も混ざっておらず、呼吸しているはずなのに“世界に触れていない”ような奇妙な違和感だけが残った。
「見た目だけを作ってるのか」
『音も一部だけ』
『遠くの音がない』
ルナは周囲を見渡すように首を傾けたが、風の音も、獣の気配も、遠くの水音さえも感じられなかった。そこにあるのは、目の前に見える範囲だけの“情報”だけだった。
ノエルは周囲を見回したが、そこに他の生徒の姿はなかった。アイリスもアルベルトも、そしてカティアの姿さえ見当たらない。同じ落下に巻き込まれたはずなのに、空間そのものが完全に分断されていた。静寂だけが異様に濃く、風の音すら遠い。
「全員、別々の場所へ落とされたのか?」
ノエルは剣の柄に手を置いたまま、低く呟く。周囲の魔力の流れを探るが、空間そのものが薄く歪んでいて、正確な位置把握が難しい。
『近くに魔力を感じる』
『近くに三人いる』
ソルが小さく目を細めて呟き、ルナも森の奥へ視線を向けた。
「三人?」
ノエルは二人の指先の向きを追う。木々の隙間に、わずかな魔力の揺らぎが見えた気がした。
その直後───
「ノエル!無事だったか!」
木々の向こうからアルベルトが飛び出してきた。枝をかき分けるというより、半ば突っ切るような勢いで現れ、地面に小さくよろめく。制服の肩や金色の髪には青白い苔が付着し、着地に失敗したのか右頬には薄く土の跡まで付いていた。
アルベルトは周囲を確認するより先に、ノエルへ詰め寄るように声を上げる。魔力の残滓を警戒しながらも、視線は真っ直ぐだった。
「ああ。アルベルトも───」
ノエルはアルベルトの姿を上から下まで見た。苔、土、乱れた髪、そして微妙に不機嫌そうな表情。
「無事ではなさそうだな」
「どこを見て言っている!」
即座にアルベルトが反応する。頬の土を指で強く拭いながら、明らかに不満げだ。
「頬に土が付いてる」
「これは着地地点の確認をしただけだ!」
「顔で?」
「手を突く前に地面が近づいてきた!」
必死に理屈を並べるが、状況はどう見ても失敗である。
「それを着地失敗って言うんだよ」
『顔面着地とは勇気ある』
『大地との接吻』
ソルとルナが淡々と追撃する。
「していない!」
アルベルトは即座に否定し、乱暴に頬を拭った。土が少し余計に広がる。
「僕のことより、他の者はどうした」
話題を強引に切り替え、周囲へ警戒の視線を走らせる。森の奥は依然として不気味な静けさを保っていた。
「まだ会ってない。ソルたちによれば、近くにあと二人いるらしい」
「二人……」
アルベルトの表情がわずかに引き締まる。
「たぶんアイリスとカティアだ」
ノエルは直感的にそう判断していた。落下前の位置関係、魔力の流れ、そして二人の気配。
「なぜ、その二人だと分かる?」
アルベルトは即座に問い返す。理屈を重視する彼らしい反応だった。
「俺たちの近くにいたから」
「落下中に全員の位置は大きく変わっていた。別の生徒である可能性もある」
アルベルトは冷静に分析を重ねる。森の歪んだ空間を見上げ、幻術の層を警戒していた。
「確かめに行けば分かるだろ」
「不用意に動くべきではない」
彼は一歩下がり、森全体を俯瞰するように視線を巡らせる。
「ここは幻術空間だ。見えているものが事実とは限らない」
空気の揺らぎ、光の屈折、魔力の残響、そのすべてが微妙に現実とズレている。
「それは分かってる」
「分かっている者は、森の真ん中で大声を上げない」
「先に大声で俺の名前を呼んだのはお前だぞ!それにアルベルトだって歩いて俺のところに来たじゃないか!」
「それは君を発見したからだ!」
『矛盾』
『自分には甘い』
「君たちは少し黙っていろ!」
アルベルトがソルとルナを指差した、その瞬間、森の奥から枝の折れる音がした。乾いた音が一度、そしてもう一度響き、二人は同時に振り返った。
「誰だ!」
アルベルトが右手を前へ出すと、冷気が掌へ集まり始め、周囲の空気が一瞬で白く曇った。ノエルも剣の柄へ手を掛け、そのまま一歩前へ踏み出す。緊張が一気に高まる中、黒い木々の間から白銀の髪が静かに現れた。
「わたくしです」
アイリスは剣を抜いたまま、森の奥から静かに歩いてきた。周囲に漂う魔力の歪みを鋭く警戒しながらも、その姿勢は一切崩れていない。制服にもほとんど乱れはなく、落下直後であることを感じさせないほど、普段と変わらぬ気品を保っていた。
「アイリス。怪我は?」
「ありません」
アイリスは短く答え、二人を見比べる。その視線は冷静で、状況把握に一切の迷いがない。
「お二人は無事なようですわね」
「僕も問題ない」
アルベルトが即答するがその直後、ソルとルナが同時に口を開いた。
『顔面着地』
『大地との接吻』
無表情のまま告げられたその一言に、空気が一瞬止まった。
「その報告は不要だ!」
着地の際に体勢を崩し、地面に顔から落ちた事実を的確に言われ、アルベルトは顔を真っ赤にし、拳を握りしめる。
一方でノエルは、その様子を見て吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、肩を震わせて笑いを飲み込んでいた。唇を噛み、視線を逸らしているが、明らかに耐えきれていない。
アイリスはアルベルトの頬に残った汚れを見た。薄く付着した土と草の跡は、転移直後の混乱をそのまま物語っている。彼女は一瞬だけ目を細め、状況を分析するように観察したあと、淡々と口を開いた。
「見事な着地だったのですね」
その声には感情の起伏がほとんどない。むしろ事実を述べているだけのような冷静さだった。
「君まで馬鹿にするのか!」
アルベルトは即座に反応し、肩を震わせる。氷魔法の制御が一瞬乱れ、足元の草がわずかに凍りついた。
「褒めたつもりですが」
アイリスは首を傾げることもなく、真顔のまま続ける。
「どの部分を!」
「地面へ迷いなく顔を向けた勇気を」
その言葉はあまりにも真っ直ぐで、逆に悪意がない分だけ刺さる。
「その天然の悪意はやめろ!」
アルベルトの叫びが森に響き、ノエルはついに堪えきれず肩を震わせて吹き出した。
「笑うな、ノエル!」
「悪い。無事で良かったな」
ノエルは笑いを拭いながらも、素直にそう言った。転移直後の緊張が少しだけ和らぐ。
「君は後で覚えていろ」
アルベルトは不機嫌そうに顔を背けた。
そのやり取りを横目に、アイリスはすぐに表情を切り替える。冗談の時間は終わりだと言わんばかりに、森の奥へ視線を移した。
「カティアさんは、まだ合流していないのですか?」
その問いは、空気を一気に現実へ引き戻す。
「近くにいるらしい」
ノエルは周囲の気配を探りながら答える。ソルとルナの感覚も同時に共有し、微細な魔力の揺らぎを追っていた。
「気配は感じます。しかし、わたくしたち三人以外の魔力が不安定ですわ」
アイリスは剣を構えたまま頷く。森の空気は静かだが、どこか歪んでいる。風の流れが一定ではなく、空間そのものがわずかに揺らいでいるような違和感があった。
「不安定?」
ノエルが眉をひそめる。アイリスは一歩も動かず、視線だけを森の奥へ固定したまま説明する。
「近づいたかと思えば消え、離れた場所から再び現れる。通常の移動とは思えません」
「幻術で位置を誤認させられているのかもしれないな」
アルベルトが真剣な表情へ戻る。先ほどまでの不機嫌さは消え、魔法騎士としての冷静な判断が前に出ていた。
「それか、感知している魔力そのものが偽物だ」
「カティアが偽物ってことか?」
ノエルの声がわずかに強くなる。その問いには、焦りと警戒が混ざっていた。
「まだそうとは言っていない」
アルベルトは即座に否定するが、その言葉は完全な安心にはならない。
『言い方は疑っている』
『かなり疑ってる』
「可能性を挙げただけだ!」
アルベルトは即座に反論するが、ノエルはすでに森の奥へ意識を向けていた。アイリスは森の一方向を見つめたまま、静かに結論を出す。
「まずはカティアさんと合流しましょう。四人で同じ場所へ転移させられたのであれば、この区画における班である可能性が高いですわ」
「班?」
ノエルが聞き返す。
「抜き打ち適性試験と仰っていました。目的もなく生徒を幻術空間へ落としたとは考えにくいでしょう」
アイリスの分析は冷静で、すでに状況を試験として整理している。
「目的もなく落としそうな先生にも見えたけど」
ノエルが小声で呟く。
「教師を何だと思っているのです」
アイリスの視線が一瞬だけ鋭くなる。
「教室の床を消す人」
『擁護は困難』
『妾たちは落下するのは本日二回目』
ノエルの言葉にソルとルナが淡々と追撃する。
「妖精たちは気に入った言葉を繰り返すのですね」
「たぶん、あと五回は言うぞ」
アイリスがため息をつきながら言うと、ノエルは経験上に基づいて妙に確信めいた言葉をため息つきながら言った。
「た、助けてください!」
森の奥から、切迫した少女の悲鳴が響き、空気は一瞬で張り詰めた。
「カティア!」
ノエルは声の方向へ、思考よりも先に身体が動き、駆け出していた。
「待ちなさい、ノエルさん!」
アイリスの制止が背後から飛んだが、立ち止まるよりも早く、再び悲鳴が響いた。
「いやっ……!」
切迫した悲鳴が森の奥に響いた。恐怖と痛みが混ざり合い、助けを呼ぶ余裕すら失われたその声を聞いた瞬間、ノエルは黒く湿った森の中へと駆け出した。足元の土は水気を含み、靴底に絡みつくように重い。枝葉が頬をかすめるたび鋭い痛みが走り、森全体に満ちた魔力が呼吸のたびに肺の奥へまとわりついてくる。それでも足は止まらなかった。
やがて視界の先、木々の隙間にわずかな光が差し込む開けた空間が見えた。その中心に、カティアが倒れている。長いベージュブラウンの髪が地面に広がり、眼鏡はわずかにずれていた。彼女の足首には黒い蔓が絡みつき、地面の亀裂から伸びたそれは、まるで意思を持つかのように蠢きながら、彼女を森の奥へと引きずり込もうとしている。地中からは低い脈動音が響いていた。森そのものが呼吸しているかのような、不気味な鼓動だった。
「カティア!」
ノエルの声が森を切り裂くように響いた。
同時に地面を蹴り、一気に距離を詰める。剣を抜く動作に迷いはない。風を裂く音とともに刃が黒い蔓へ振り下ろされると、金属が肉ではなく“異質な何か”を断つような鈍く嫌な手応えが腕に伝わり、硬質な衝撃音が響いた。
黒い蔓は断ち切られ、切断面から紫色の煙が噴き出す。それは空気に溶けるように広がり、一瞬だけ人の顔のような形を作ってから、崩れ消えていった。
「立てる?」
ノエルは即座に剣を収めると、迷いなくカティアへ手を伸ばし、その腕を掴んで引き起こしたが、その身体は驚くほど軽く、そして冷たかった。
「は、はい……」
震える声で答えながら、カティアはノエルの腕にしがみつく。足元はまだ安定せず、呼吸も浅い。肩が小刻みに上下していた。
「怪我は?」
ノエルは視線を素早く走らせる。出血はない。だが足首には黒い痕が残り、皮膚の下で何かが蠢いているように見えた。
「足を少し……でも、大丈夫です」
カティアは痛みを隠すように、無理に笑顔を作る。彼女はノエルに縋りながら、恐る恐る地面の亀裂を見つめる。そこからはまだ黒い気配が漏れ続けていた。
「急に、下から黒いものが出てきて……」
声は震え、恐怖の記憶はまだ生々しく残っていた。
「もう切った。安心して」
ノエルは短く言い切った。その声には揺るぎない確信があったが、その直後、
『『ノエル後ろ!』』
ソルの声とルナの声が重なる。
ノエルの反応は速く、思考より先に身体が動き、カティアを抱え込むようにして横へ跳んだ。その瞬間、空気が裂ける音が響き、直後に先ほどまで二人がいた場所を黒い蔓が薙ぎ払い、地面は抉れ、太い幹は粉砕され、破片が雨のように降り注いだ。
「まだいるのか!」
着地と同時にカティアを背に庇い、ノエルは剣を構えた。呼吸は乱れていないが、その視線は鋭く研ぎ澄まされ、完全に戦闘へと切り替わっている。地面の亀裂はさらに広がり、その裂け目から這い出してきたのは黒い塊だった。四足の獣、狼に似た輪郭を持ちながらも、それは明らかに自然の生物ではない。皮膚は半ば溶けたように歪み、骨格は不自然にねじれ、頭部には本来あるはずの目が存在しない。その代わりに、人間の口が無数に並び、上下にも横にも無秩序に開閉していた。そこから紫色の舌が垂れ、空気を舐めるようにゆらゆらと揺れている。
「気持ち悪っ!」
ノエルの率直な叫びが、戦闘中にもかかわらず思わず漏れた本音として森に響いた。
『率直な感想』
『妾も同意』
ソルとルナの声は淡々としていたが、そこにはわずかに嫌悪が混じっていた。魔物が複数の口を一斉に開いた瞬間、森の空気は一変し、音ではなく“声”そのものが響き渡った。
「ノエル」
父の声、低く落ち着いた、記憶の奥にある声。
「ノエル、おいで」
母の声、優しく包み込むような声。
「お兄ちゃん」
妹の声が、小さく、泣きそうに響いた瞬間、ノエルの全身は一瞬で硬直し、剣を握る手に力がこもる。頭ではこれは幻術だと理解している。コンラッドの術式による偽物であり、魔力が作り出した再現に過ぎないと分かっている。それでも胸の奥は強く締め付けられた。
「お兄ちゃん、助けて」
「──っ!」
一歩、ほんの一歩だけ足が前へ出る。理性よりも先に身体が反応してしまった、その瞬間。
『ノエル、あれは偽物。リーナは魔物の口に住んでいない』
『臭そうで衛生的に良くない事故物件には住むはずがない』
ソルとルナがノエルの耳元で囁く。
「いや、そもそも魔物の口の中は物件じゃない!…でも助かった!」
ノエルは我に返ると剣を握り直し、鋭く視線を戻して呼吸を整え、迷いを完全に消し去った。目の前の“声”は大切なものの形を借りたただの罠にすぎないと見抜き、ノエルは一歩踏み出して剣先を黒い獣へと向け、今度こそ揺らぐことなく構えた。




