☆1-5☆ようこそ1-A組へ
二〇三号室は、二階廊下の最も奥にあった。
学院の寮棟は石造りで、昼間でも廊下はひんやりとした空気が流れている。窓から差し込む光が長く伸び、床の模様を淡く照らしていた。
学生証を扉の金具へ触れさせると、魔法式の認証音が小さく鳴り、扉が静かに内側へと開いた。室内にはベッドが二つでまだ新しい木の香りが残っている。
机も二つ、それぞれに簡素なランプが置かれ、等間隔に整えられている。本棚と衣装箱は左右へ分けられ、中央には小さな丸テーブルが置かれていた。
共同生活を前提とした、無駄のない配置だ。
部屋の奥には大きな窓があり、そこから男子寮の中庭を見渡すことができる。整えられた芝生と噴水が見える。
窓に近いベッドには午後の陽光が差し込み、白い寝具を明るく照らしていた。
その一角だけが、やけに穏やかで、居心地の良さを主張しているようだった。
「こっちが俺のベッドな」
ノエルは迷わず窓側へ荷物を置いた。
肩から下ろした鞄が、軽い音を立てて床に落ちる。
「おい、ちょっと待て」
「何だ?」
「そこは僕が使う!僕は朝、日光を浴びて目を覚ます習慣があるからな」
「いや、俺も窓側がいいんだけど」
ノエルが言い返すとアルベルトの目が細くなる。
「理由は?」
「朝日で起きられるかもしれない」
その瞬間、ソルとルナが窓枠へふわりと浮かび上がる。
『起きない』
『リーナがいないと無理』
「可能性はあるだろ!」
「可能性だけで主張するな」
そう言うと、ノエルの荷物を持ち上げ、反対側のベッドへ置いた。動作は無駄がなく、慣れているようにすら見える。
「何するんだ!」
ノエルはすぐさま駆け寄る。
「君は扉側を使え」
「勝手に決めるな!」
ノエルは自分の荷物を窓側へ戻す。布の擦れる音がやけに大きく響いた。
「俺が先に置いた!」
「子どもの理屈か!」
「早い者勝ちだろ!」
「部屋の使用権は平等だ!」
「なら窓側を譲れ!」
「それは平等ではない!」
言い合いは一歩も引かないまま、荷物の移動だけが繰り返される。
ベッドの上で鞄が行ったり来たりし、静かなはずの部屋に妙なリズムが生まれていた。
『喧嘩するほど仲が良い』
『入室から一分二十秒』
ソルとルナが淡々と告げる。
「「記録しなくていい!」」
ノエルとアルベルトが同時に叫ぶ。ソルとルナは窓枠へ並んで座り、二人の争いを興味深そうに眺めていた。
『決闘すれば解決』
『窓側を賭ける』
「煽るな!」
ノエルが振り返ると、アルベルトが一歩前へ出た。
「望むところだ」
「何で乗るんだよ!」
ノエルは頭を抱える。
「君が先に喧嘩を売った!」
「売ってない。ベッドを選んだだけだ」
「その無神経さが問題だと言っている!」
「窓側のベッド一つで大げさだろ!」
「君にとってはその程度でも、僕には重要だ!」
「どう重要なんだよ!」
アルベルトは一瞬だけ目を閉じ、そしてはっきりと言った。
「朝日を浴びて、規則正しい一日を始めるためだ!」
『立派』『ノエルと正反対』
ソルとルナが同時に呟く。
「俺だって学院では早起きする!」
『絶対無理』『無理に菓子をかける』
「お前らはどっちの味方だ!」
アルベルトはノエルを冷ややかに見下す。
「やはり君に窓側は不要だ」
「必要かどうかをお前が決めるな!」
その瞬間、アルベルトの手から冷気が漏れた。空気が一気に冷え、床へ薄い霜が広がる。
ノエルも反射的に腰の剣へ手を伸ばす。
「魔法を使う気か」
「君が剣を抜くならな」
「誰が抜くって言った」
「今、触れただろう!」
「落ち着くためだ!」
ソルとルナが同時に呟く。
『抜く理由を自分で決める』
『父の教え』
その言葉に、ノエルの動きが一瞬止まる。
「こんなことで抜いたら父さんに怒られるよ!」
廊下から、壁を叩く音がした。乾いた音が何度か続き、そして扉がゆっくりと開いた。
「二人とも、何をしてるの?」
顔を覗かせたのはフィンだった。
いつもの明るい表情を浮かべているが、どこか呆れたように眉が下がっている。その後ろからは、無言のままシャスールが続く。
彼は状況を観察するように、室内へ静かに視線を滑らせた。
「廊下まで声が聞こえてるよ」
フィンは肩をすくめながら言う。
その視線の先では、ノエルとアルベルトが窓際でにらみ合っていた。
「アルベルトが窓側を奪った」
ノエルがアルベルトを指をさす。対してアルベルトは腕を組み、強く言い返す。
「ノエルが身勝手に占領したのだ!」
互いに一歩も引かない空気が、部屋の温度をわずかに下げていた。
「ベッドの取り合い?」
フィンは室内を見渡し、状況を整理しようとする。荷物はまだ開けられたままで、寝具も半分だけ整えられている。
「交代で使えばいいんじゃない?」
「ベッドを毎日交代するのか?」
アルベルトが眉をひそめる。
「寝具を移すのが大変そうだね」
フィンは苦笑しながらも現実的な問題を口にする。
「自分で提案しておいて諦めるな!」
ノエルがすかさず突っ込む。
そのやり取りを横目に、シャスールは窓へ歩み寄った。
「なら、窓側の利点を半分にすればいい」
そう言うと何の躊躇もなく窓を開け、アルベルトは警戒するような目でシャスールを見た。
「何をするんだ?」
「日光を遮る」
短く答えたシャスールは、窓枠に身を乗り出した。懐から取り出したのは小さな種。次の瞬間、魔力が静かに流れ込む。種は瞬く間に膨張し、細い蔓を伸ばした。それは生き物のようにうねりながら成長し、窓の半分を覆い尽くしていく。
室内に落ちる光が一気に減り、薄暗さが広がった。
「これで両方とも窓側ではない」
「解決してない!」
「むしろ悪化した!」
「そう?」
シャスールは首を傾げるだけだった。
『公平』
『両方負け』
ソルとルナは窓枠の上で同意するように頷いた。
「公平の意味が違うだろ!」
ノエルは蔓を引き剥がそうと窓へ手を伸ばし、同時にアルベルトも反対側から手を伸ばして、二人の肩がぶつかる。
「邪魔だ」
「お前がどけ!」
押し合いになった瞬間、窓枠に座っていたソルとルナの身体が、軽く弾かれるように宙へ押し出された。
「ソル! ルナ!」
「おい、身を乗り出すな!」
ノエルは反射的に窓の外へ身を乗り出し、その腰を、アルベルトが即座に掴み、鋭い声を響かせる。
ソルとルナは小さな羽を広げ、空中でぴたりと静止して、無表情のまま二人を見下ろす。
『妾たちは飛べる』
『忘れられた』
「そうだった!」
「君は召喚士だろう!」
「咄嗟だったんだよ!」
アルベルトは呆れたように言いながら、ノエルの腰を引き戻した。その勢いのままバランスを崩し、二人は床へ倒れ込む。
アルベルトが下、ノエルが上。
部屋の入口では、フィンとシャスールがその光景を無言で見下ろしていた。
『接触』
『非常に近い』
「「違う!」」
二人の声が、ほぼ同時に重なった。
ノエルは慌てて起き上がる。
床に転がったままの体勢から勢いよく身を起こし、乱れた服を整えながら周囲を見回した。まだ状況を完全に理解できておらず、視線だけが忙しなく動いている。
アルベルトも顔を赤くし、服を整えた。
凍った床の冷気が残る中、足元を気にしながら襟元を正し、気まずさを隠そうとしていた。
「君が急に飛び出すからだ!」
アルベルトはノエルを睨みつけるように言い放つ。動揺を押し隠した声だった。
「二人が落ちたと思ったんだよ!」
『愛故の行動』
『でも飛べること忘れられた』
「悪かったって!」
「楽しそうだね」
「どこがだ!」
微笑ましいものを見るような目で言ったフィンにノエルは食ってかかる。
「ん、もう仲良くなった」
シャスールも淡々と言う。
「「なってない!」」
ノエルとアルベルトの声が重なる。
『一緒に床へ寝る仲』
『仲睦まじい』
「表現に問題がある!」
アルベルトが反論したその時、扉の外から規則正しい足音が響いた。
グレイシアがノエルとアルベルトの部屋の前で止まり、無言で室内を一瞥する。新入生たちへ、この後の行動について他の上級生と共に伝達をしている最中に見てしまった光景。
霜の張った床、蔓に覆われた窓、乱れた寝具。そして顔を赤くした弟とノエルの姿。
「説明しろ」
低く冷たい声だった。
「兄上、これは──」
アルベルトが慌てて口を開くが遮られる。
「ベッドを巡る争いです」
シャスールが即答した。
「君は黙っていろ!」
『入室から三分十二秒で魔法使用』
ソルの言葉にグレイシアは弟を見据える。
「使用していません! 僅かに魔力が漏れただけです!」
アルベルトは必死に弁明するが、床の霜が説得力を奪っていた。
「床が凍っている」
「その……」
『アルベルトは短気』
『魔力と感情の制御が下手すぎて笑』
「妖精たちまで!」
アルベルトは頭を抱え、グレイシアは小さく息を吐いた。
「学院内での私闘は禁止だと説明したはずだ」
「まだ戦ってません」
ノエルが即答する。
「戦う直前だったのか」
「僕は冷静でした」
「床が凍っている」
「兄上、その点を何度も指摘しないでください!」
アルベルトの声が響く。グレイシアは無言で弟を見つめ、わずかに目を伏せた。
「……申し訳ありません」
アルベルトは肩を落とす。
「ベッドは話し合いで決めろ」
「既に話し合いました」
「怒鳴り合いは話し合いとは呼ばない」
グレイシアは窓の蔓に触れた。瞬間、空気が冷え、蔓は白く凍結し砕け散った。
「すごい!触っただけで消えた!」
「対象を凍結させ、脆くしただけだ」
『無言魔法使えるのは優秀な証』
『便利な魔法。掃除に向いている』
「兄上の魔法を掃除扱いするな!」
「私は気にしていない」
「兄上は気にしてください!」
ノエルは窓側と扉側のベッドを見比べる。
「じゃあ、勝負で決めるか」
「決闘は禁止だと言ったばかりだ」
グレイシアが制止する。
「魔法や剣は使わないで、じゃんけんします」
「じゃんけん?」
アルベルトは眉を寄せる。
「村ではよく使う」
「運だけで決めるのか」
「平等だろ」
「僕は運に頼るのは好まない」
『アルベルトは負けるのが怖い』
『逃げた』
「いいだろう! 受けて立つ!」
アルベルトは勢いよく宣言する。
「乗せられやすいな!」
ノエルが突っ込む。二人は向かい合い、右手を構える。
「一回勝負だ」
「後悔するなよ」
「「じゃんけん──」」「待て」
グレイシアが静かに制止した。二人は揃ってグレイシアを見る。
「公平性を確保するため、私が合図する」
グレイシアは淡々と告げると、二人の前へ静かに立った。廊下から差し込む光が銀青の髪を照らし、その姿は生徒会長としての威圧感と、兄としてのわずかな私情が同居したような空気を纏っている。
周囲の廊下には偶然通りかかった上級生たちが足を止めている。生徒会長が新入生のベッドの位置決めの審判を務めるという異様な光景に、誰もが言葉を失っていた。
「兄上が?」
アルベルトは信じられないという顔で兄を見上げる。普段なら関わるはずのない些細な決定に、自ら介入していることが理解できなかった。
「異論はあるか」
グレイシアは一切揺るがぬ声で返す。その視線はすでに勝負へ固定されている。
「ありません」
アルベルトは即答した。兄に逆らうという選択肢は最初から存在しない。
「俺もいいです」
公爵家の長男で王立学院生徒会長、四年A組首席の彼が、新入生のベッドを決めるじゃんけんの審判を務めているという事実に、廊下の上級生たちはただ静かに息を呑んでいた。
「始める」
グレイシアが片手を上げる。その動きは無駄がなく、まるで戦場の開戦合図のようだった。
「「じゃんけん」」
ノエルとアルベルトが拳を引く。わずかに視線を交わし、同時に手を前へ突き出した。
「「ぽん!」」
ノエルはグー、アルベルトはチョキ
空気が止まったような静寂の中で、結果だけが明確にそこにあった。
『ノエルの勝ち』
『アルベルトの負け』
「見れば分かる!」
アルベルトは声を上げ、自分の指を見つめたまま固まる。納得できないというより、理解が追いついていない表情だった。
「なぜだ……」
「ただのじゃんけんだぞ」
ノエルは呆れたように肩をすくめる。
「僕は相手の動きを見極めていた。君が直前まで手を開こうとしていたのも確認した」
アルベルトは真剣そのものの顔で分析を続ける。彼にとっては単なる運ではなく、完全な戦術の場だった。
「じゃんけんでそこまで考えてたのか?」
「当然だ!それなのに何故…!!」
「俺は何も考えずグーにしたけどなぁ」
「クッ!何も考えない者の行動は読めないというのか……!」
アルベルトは衝撃を受けたように目を見開く。理屈として成立しているのが余計に腹立たしい。
『敗因は明確』
『ノエルを賢いと思ったこと』
「どういう意味だ!」
ノエルは反論するが、二人の妖精は特に気にした様子もない。
ノエルは勝ちを確定させると、窓側のベッドへ荷物を置く。外の光が差し込むその場所は風通しも良く、彼は満足そうに頷いた。
「これで決まりだな」
「一回勝負とは言ったが、三回勝負に変更するべきだ」
アルベルトはすぐに異議を申し立てる。敗北を受け入れるには早すぎた。
「負けてから言うな!」
「勝敗は多角的に検証しなければならない!」
アルベルトは真剣そのものだ。すでに学術的議論の領域に踏み込んでいる。
「一か月後に部屋を変えるより先に、じゃんけんの再戦を申請しそうだな」
ノエルは呆れながら荷物を整理する。
「申請書は必要になるの?」
シャスールがグレイシアへ尋ねる。純粋な疑問だった。
「必要ない」
「本当に答えなくていいです、兄上!」
アルベルトは不満を隠さず叫ぶが、グレイシアはすでに興味を失ったように視線を外していた。アルベルトは仕方なく扉側のベッドへ荷物を置く。その動作にはまだ納得しきれていない気配が残っている。
その様子を見て、グレイシアの口元がほんの僅かに緩んでいることに誰も気づかなかった。
グレイシアは何事もなかったようにノエルたちへ向き直る。
「午後四時から、各クラスの教室で明日の入学式に関する説明が行われる。時間もあまりないから今から移動した方が良い。教室の場所は学生証から確認できる。あと、巨大な学院都市である学院内での基本的な移動は、効率を図るため各建物に設置された転移門を使っての移動となる。」
「寮に来る時に使用したあの転移門ですか?」
「そうだ。転移門を使用するには学生証が必要なため、必ず忘れないように」
その声は再び生徒会長としてのものに戻っていた。
「分かりました」
ノエルは頷き、すぐに荷物へ手を伸ばした。
「遅刻した者は?」
フィンが軽い調子で尋ねる。
「担任による」
「担任によって違うのか」
ノエルは少し意外そうに眉を上げる。
「一年A組の担任は……コンラッド・スターリット先生だ。遅刻は勧めない」
グレイシアの声にわずかな間が生まれ、その一言には、説明以上の意味が含まれているような感じでノエルは不安げな顔をする。
「怖い先生?」
ノエルが率直に尋ねる。
「優秀な教師だ」
「質問に答えてない気がする」
『生徒会長が濁した』
『警戒をした方がいい』
ソルとルナの言葉に、ノエルは無意識に背筋を伸ばし、教室へ向かう時間を絶対に忘れないよう、心の奥へ強く刻み込むのだった。
☆
──午後三時五十分
一年A組の教室には、すでに多くの新入生が集まっていた。教室は本館三階の東側に位置し、前方には大きな黒板、壁には魔力灯が整然と並んでいる。机と椅子は一人用で半円状に配置され、窓からは演習場と、その先に広がる王都の街並みが一望できた。
ノエルは中央よりやや後方の席に腰を下ろした。
長年使い込まれた木製の机には細かな傷が刻まれている。
ソルとルナは机の上にちょこんと座り、教室全体を観察するように視線を巡らせていて、小さな姿でありながら、その存在感は妙に目立っていた。
「召喚獣も教室へ入っていいのか?」
ノエルが周囲を気にしながら小声で尋ねる。
『妾たちは生徒の一部』
『ノエルの頭脳を補助する』
「俺の頭が足りないみたいに言うな」
ノエルは眉をひそめる。
『補助が必要』
『かなり』
「帰ってもらうぞ」
冗談半分で言うが、ソルとルナは微動だにしない。
『契約解除はできない』
『ずっと一緒』
「それを盾にするな!」
ノエルが机に突っ伏しかけたところで、隣から冷ややかな声が落ちてきた。
「随分と騒がしいですわね」
アイリスがノエルの隣の席へ腰を下ろす。その姿勢は完璧に整っており、机の上に教本と筆記具が寸分の乱れもなく配置される。まるで彼女の性格そのものがそこに形を持って存在しているかのようだった。
「説明を聞くだけだろ?」
「必要な内容を書き留める準備です」
アイリスは視線を教本へ落としたまま答える。
「俺も紙は持ってる」
ノエルは自信ありげに鞄を探り始めた。菓子、菓子、菓子……ソルとルナの菓子が鞄の中を埋めている。
「あれ?紙がない」
『妾たちもノエルも菓子は必要』
『頭が冴える万能食』
「ソルとルナの仕業か!いつの間に…いや、それよりも紙がない!」
アイリスは溜息をつき、手元の束から数枚の紙を抜き取るとノエルへ差し出した。
「使いなさい」
「いいのか?」
ノエルは少し驚いたように受け取る。
「同じ説明を受ける者が何も記録できないのは、後々わたくしも困ります」
「ありがとう」
素直に礼を言うノエルに、アイリスは視線を逸らす。
「次からは自分で用意なさい」
『優しい』
『照れている』
「照れていませんわ」
即座に否定するが、わずかに耳が赤い。
そのやり取りを聞いていたノエルの前の席にいるアルベルト。彼の机の上もまた、教本と筆記具が完璧な配置で整えられている。几帳面さという点ではアイリスと互角か、それ以上だった。アルベルトは一言も発さず、後ろへ紙を一枚だけ差し出した。
「予備だ」
短く、無駄のない声だった。ノエルはその紙を受け取りながら、首を傾げる。
「紙ならアイリスからもらったぞ」
軽い調子で返すと、アルベルトの肩がわずかに動いた。
「なら返せ!」
机の上の整然さとは裏腹に、感情だけはいつも通り乱れていた。
「ありがとう。こっちも使う」
ノエルは気にせず紙を自分の机へ置く。その動作に迷いはない。
「二枚も必要ないだろ!」
「一枚はソルとルナが落書きするかもしれない」
ノエルは肩の上にいる小さな存在へ視線を向けながら答えた。
『アルベルトの似顔絵を描く』
『怒った顔を描く』
その瞬間、アルベルトの肩がぴくりと跳ねた。
「描くな!」
教室の空気が一瞬だけ揺れるほどの声だった。少し離れた席から、控えめな笑い声が聞こえた。カティアが口元へ手を当てている。その表情は柔らかく、緊張をわずかに残しながらも穏やかだった。ノエルが視線を向けると、彼女は慌てて俯き、肩が小さく揺れ、視線を机へ落とす。
「ご、ごめんなさい」
小さな声だった。
ノエルは軽く手を振る。
「謝らなくていいよ。こいつら、笑われるようなことしかしてないし」
気楽な調子で言うと、アルベルトが即座に振り返った。
「君も含まれているぞ!」
鋭い指摘が飛ぶ。ノエルは一瞬だけ固まり、すぐに視線を逸らした。
「ノエルさんたちは、仲が良いのですね」
カティアが小さく首を傾げながら言う。
その声には純粋な観察の色が混じっていた。
「良くない!」
アルベルトが即答し、机を軽く叩く音が響いた。
『かなり良い』
『同室仲良し』
「同室だからといって、仲が良いとは限らない!」
アルベルトは即座に反論するが、その必死さがかえって目立っていた。
「じゃんけんした仲だろ」
ノエルがついさっきの出来事を軽く口にする。
「それを交友関係へ含めるな!」
アルベルトの声がさらに強くなる。
教室の数人がちらりとこちらを見たが、すぐに視線を戻した。まだ半日も経ってないのに、すでに日常の一部として受け入れられている光景だった。
カティアは小さく笑いながら、ノエルの斜め後ろの席へ座った。その位置は慎重に選ばれている。近すぎず、遠すぎない距離。ノエルの魔力の変化を観察でき、かつソルとルナから直接視線を向けられにくい位置だった。
彼女は自然な動作を装いながら、周囲の魔力の流れを静かに確認する。
教室には四十人ほどの生徒がいる。貴族、平民、そして他国出身者、それぞれが異なる背景を持ちながらも、同じ教室に集められている。一年A組という、選抜された集団だった。
カティアはその魔力を一つずつ確かめながら、無意識に評価を重ねていく。
アイリス・ステラルーチェは、三大英雄の一人テラと同じ【聖剣】の称号を持つ公爵令嬢であり、現国王の姪という高い身分を持つ。だが傲慢さはなく、努力を重んじる実直な性格。強い自己規律と澄んだ光属性の魔力を備え、精神干渉への耐性も高い。
アルベルト・ノービリタスは【魔法騎士】の称号を持つが、実際には氷雪系魔法の名門であるノービリタス家の出身であり、特に氷雪魔法を得意としている。家系の影響もあってその適性は高い一方で、感情の起伏がやや不安定な面も見られる。しかし、その内面には揺るがない強い信念を持っている。
ノエル・メレディスは【召喚士】という珍しい称号を持ち、魔力量がかなり多い…だが制御が未熟。
またソルとルナとの契約は異常に強く深く、単なる召喚士と召喚獣の関係ではないように見える。家族や保護者、信仰のような要素が混ざった、説明しがたい絆で結ばれている。
(…やはり興味深い)
カティアは静かに目を細めた。
その思考の奥には観察者としての冷静さと、かすかな羨望が同居していた。
ノエルはその視線に気づかず、アルベルトの紙へソルとルナが描いた似顔絵を見ていた。
机の上の紙には、奇妙な絵が広がっている。
『完成』
『最高傑作』
ソルが淡々と告げる。
紙には、髪を逆立てた大男が描かれていた。口から炎を吐き、両手には巨大な氷塊を持っている。
「これ、アルベルトか?」
ノエルが思わず尋ねる。
『特徴を強調して描いた』
『怒りと氷で表現した』
「強調しすぎだろ」
「今、僕の名前が聞こえたが」
低く鋭い声でアルベルトが振り返る。椅子の背に手をかけ、いつでも動ける姿勢を取っていた。ノエルは動じることなく、机の上の紙をさりげなく裏返す。そこに書かれていた絵は隠されるように伏せられた。
『隠蔽をしなければ』
『犯罪者の行動』
「気のせいだ」
ノエルはそう言いながら、さらに紙を自分の方へ引き寄せる。そんな不審な行動にアルベルトの眉がぴくりと動いた。
「何を隠した!」
椅子を鳴らしながら身を乗り出すが、ノエルは即座に紙を胸元へ押し込み、首を横に振った。
「何も」
「見せろ!」
「嫌だ!」
即答の応酬に、周囲の生徒たちが振り向き、アイリスは「また始まった」とでも言いたげに額を押さえ、ため息をつきながらも視線だけは二人に向けていた。
「やはり何かあるではないか!」
アルベルトが立ち上がりかけたその瞬間、教室の扉が静かに開き、空気が一気に切り替わる。全員の動きが止まり、先ほどまでの騒ぎが嘘のように教室は静寂に包まれた。
入ってきたのは一人の若い男性教師だった。
ネイビーの髪は整えられ、光を受けてわずかに青みを帯びている。ピーコックグリーンの瞳は穏やかで、教室全体をゆっくりと見渡していた。細身の体に白いシャツ、その上から教師用外套を羽織っている。片手には薄い名簿、もう片方の手は自然に下ろされていた。
年齢は二十代後半ほど。無駄のない立ち姿だが威圧感はなく、初見の者には「穏やかな青年教師」という印象を与える。その姿に、新入生たちの間からわずかな安堵が広がり、緊張していた肩が少しだけ下がった。
「起立した方がいいのか?」
周囲の空気を読みつつも判断に迷っている様子のノエルに、アルベルトは即座に視線を前へ戻し、同じく小声で答える。
「教師が指示するまでは座っていればいい」
そのまま、まだノエルの方へ視線だけを流す。
「紙は後で見せろ」
低い声で念を押す。ノエルは一瞬だけ目を逸らし、わざとらしく肩をすくめた。
『執念がすごい』
『きっと窓側も諦めていない』
教室の扉が静かに閉じられ、男性教員は教壇へと立った。穏やかな笑みのまま教室を見渡すその視線は柔らかいのに、底が見えない。生徒たちは無意識に背筋を正してしまう。
「全員揃っているね」
春の陽だまりのような声だったが、その一言で教室の空気が一段静まる。
「初めまして。僕はコンラッド・スターリット。担当は魔法学。そして、今日から君たち一年A組の担任を務める」
その言葉に、何人かの生徒が姿勢を正す。
場を支配している者の空気だった。アイリスは真剣な表情で教師を見つめる。その視線は評価というより観察に近い。アルベルトも筆記具を構え、情報を一つも逃すまいとする貴族らしい警戒を見せていた。
カティアは気弱な少女の仮面を保ちながら、コンラッドの魔力を探る。しかし次の瞬間、眉がわずかに動いた。
(…何も感じられない)
魔力がないのではない。むしろ“そこにある”はずなのに、認識の外へ滑り落ちていくような感覚だった。隠されている、だが隠蔽されていることすら意識させないほど完璧に。
カティアの内側で、その言葉だけが確信へ変わる。
(流石は特級、世界トップクラスの幻術師)
オウルアイは眼鏡の奥で桃色の瞳を細めた。
(噂以上。正面から精神へ触れれば、こちらの正体を見破られる可能性がある)
そう判断し、即座に“観測”へ切り替える。
コンラッドは教壇へ両手をついた。その動作すら舞台のように整っていた。
「明日は入学式だ」
教室に緊張が走る。まだ何も始まっていないはずなのに、“何かが始まっている”気配だけがあった。
「学院長の話、来賓の祝辞、生徒会長の挨拶。眠くなる話がたくさんある」
何人かが戸惑う。
「教師が言っていいのか、それ」
ノエルが小声で呟く。
『事実』
『長い話は眠い』
ソルとルナは当然のように同意していた。
だが教室の空気は、すでに冗談として受け取れる段階を超えている。
「しかし、式の途中で眠れば礼儀作法に厳しい教師に目を付けられるので、注意するように」
その言葉にアイリスは頷いた。
「やはり、きちんと聞くべきですわ」
真面目すぎる反応だった。
コンラッドは満足そうに微笑む。
「それから、学院生活に関する規則を説明する前に」
一度、言葉が切れる。
その瞬間、教室の空気がわずかに沈んだ。
笑みは変わらない。だがピーコックグリーンの瞳だけが怪しげに光る。
ノエルの背筋に寒気が走った。
何かがおかしい…先生が教室に入った時から、足音が一度もなかった。外套が揺れているのに風の流れもない。机の上の名簿も、いつの間にか消えている
“見ているのに、見ていないものがある”感覚
「先生!机の下に、魔法陣が───」
ノエルが声をあげたが、一足遅かった。コンラッドの指が軽く鳴った瞬間、教室の床一面に紫の光が走った。机と椅子の脚を中心に、無数の術式が浮かび上がる。
それは描かれたものではない。最初からそこにあったものが“認識されるようになった”だけだった。
「歓迎しよう」
コンラッドは穏やかに微笑む。その笑みは先ほどと変わらない。だが意味だけが決定的に変わっていた。
「まずは全員、死なない程度に生き残ってくれ」
「は?」
ノエルの声と同時に、机が消えた。
椅子も、床も、窓から見えていた王都も、教室の壁も、光も、すべてが一瞬で失われる。
空間そのものが書き換えられたような感覚だった。
「なっ──!」
ノエルの体が宙へ投げ出される。重力の方向すら曖昧な中で魔力を展開しようとするが、足場が存在しない。
「きゃあっ!」「うわぁっ!」
生徒たちの悲鳴が重なる。空間崩壊への本能的な恐怖が一斉に噴き出した。
アイリスが反射的に剣へ手を伸ばすが、抜く前に空間が揺らぐ。カティアの眼鏡が僅かに浮く。重力と認識の境界が崩れている証拠だった。ノエルは落下しながらソルとルナを掴もうとする。
だが二人はすでに流れに乗っている。
『落下』
『本日二回目』
「こんな時まで数えるなあああっ!」
暗闇──視界は完全に奪われ、上下の感覚すら曖昧になるほどの深い闇の中へ、一年A組の生徒たちは次々と落下していく。
制服の裾が風を切る音と悲鳴と混乱が重なり合い、空間そのものが揺れているようだった。
上方には、ただ一人。コンラッドだけが、何もない空間に立っていた。まるで見えない床がそこに存在するかのように、彼は自然な姿勢で足を置き、落下していく生徒たちを静かに見下ろしている。その表情には焦りも罪悪感もない。むしろ、授業の進行を確認する教師のような落ち着きすらあった。
「さて、説明を始めよう」
穏やかな声が、闇の中へと落ちていく生徒たちへ届く。その声は不思議なほどよく通り、空間全体に反響していた。
「王立アストル魔法学院、一年A組」
コンラッドは軽く手を広げる。
その仕草はまるで舞台の幕を開く演出のようだった。穏やかな笑み。だが、その奥にある瞳は愉悦。まるで悪戯が成功した少年のような笑みだった。
「君たちの最初の授業は、抜き打ち適性試験だ」
その言葉が落ちた瞬間、闇の底で空気が変質した。ぬるりとした気配が広がり、何かが“目覚める”ような感覚が空間全体を満たしていき、次の瞬間、暗闇の底で数え切れないほどの“視線”が、一斉に生徒たちへ向けられる。闇そのものが生きているかのように、蠢き始めた。
ノエルの落下する先から、巨大な何かの咆哮が響き渡るのを聞いた。空気が震え、鼓膜を直接叩くような重低音が闇を裂く。
「聞いてないぞおおおおっ!」
ノエルの叫びは、必死の抵抗と混乱をそのまま乗せて闇へ放たれた。しかし声は届かない。闇の奥へ吸い込まれ、視線の群れに飲み込まれていった。
コンラッドはその様子を見下ろしながら、わずかに目を細めた。落下する生徒たちの反応を、冷静に観察している。恐怖、混乱、判断力、反射、すべてが試されている。
こうして入学式を迎えるよりも先に、問題児たちの学院生活は命懸けで始まった。




