☆1-4☆男子寮
グレイシア・ノービリタスが階段を下りてくると、新入生たちは自然に道を開けた。
その動きには一切の混乱がない。誰かが指示したわけでもないのに、まるで最初からそう決められていたかのように、左右へと整然と分かれていく。
空気が変わる。先ほどまでのざわめきが、薄い膜を張ったように静まっていくのが分かる。
歩き方、視線、言葉の間、どれを取っても洗練されており、同じ公爵家の出身であるアルベルトと似た部分はある。だが、アルベルトと違い、グレイシアには落ち着きがある。周囲から見られることに慣れ、期待されることを当然のように受け止めている。その姿は、努力で作られたというより「最初からそう在るべき存在」として完成しているようだった。
「これより、寮の案内を行う」
グレイシアは新入生たちを見渡した。
視線は鋭いが、圧迫ではない。必要な情報だけを正確に伝えるための、無駄のない観察だった。
「学生証を受け取っていない者は、先に受付を済ませてほしい。受け取った者は、集まるように」
短い指示だった。それだけで広間にいた新入生が動き始める。誰も迷わないし、誰も逆らわない。命令というより「当然そうするべき流れ」として受け入れているのが分かる。
「すごいな」
ノエルは人の流れが一瞬で整列していく光景に、純粋な驚きが混じった言葉を溢す。
「一言で皆が動いた」
「当然だ」
アルベルトが硬い声で答える。その声には、誇りと僅かな緊張が混ざっていた。
「兄上は学院の生徒会長で、四年A組の首席だ。魔法、剣術、学術、統率力。すべてにおいて学年最高の成績を収めている」
説明しているというより、事実を積み上げているだけの口調だった。だがその一つ一つに、長年積み重ねてきた距離と尊敬が滲んでいる。
「詳しいな」
ノエルが目を丸くする。
「弟だから知っていて当然だろう」
アルベルトは当然のように言った。
その瞬間、ソルとルナが小さく顔を見合わせる。
『兄の自慢』
『兄が大好き』
「違う!」
アルベルトの声が裏返る。
思わず一歩前に出たことで、近くの新入生がびくりと肩を揺らした。
視線が一斉に集まる。
「何が違う?」
ノエルが首を傾げる。
「僕は事実を説明しただけだ!」
言い切る声は強いが、どこか必死さが混じっていた。そのやり取りを、少し離れた位置からグレイシアが静かに見ていた。そして、淡々とした声が落ちる。
「アルベルト」
その一言で、空気が変わる。ライトブルーの瞳が、弟を正確に捉えた。アルベルトの背筋が一瞬で伸びる。反射的な動作だった。身体が先に「従うべき相手」を理解している。
「はい、兄上」
「受付広間では声を抑えろ」
淡々とした注意。叱責というより、規律の確認に近い。
「申し訳ありません」
即座に頭を下げるアルベルト。その動きに迷いはない。
「入学初日から学院の備品を破壊しなかった点は評価する」
グレイシアは事実を確認するように言った。
褒めているのかどうか分からない口調で、アルベルトは一瞬固まる。
「僕を何だと思っているのですか!」
思わず声が跳ね上がり、再び周囲の視線が集まる。グレイシアは無言で弟を見た。その沈黙は短いが、圧がありアルベルトの喉が詰まる。
「……申し訳ありません」
アルベルトの声が一段階小さくなったのを見たソルとルナが小さく呟く。
『アルベルトの完敗』
『兄は強い』
「黙れ……」
アルベルトは小さく呟き、視線を逸らした。
その様子を見ていたグレイシアの視線が、ふとノエルの頭上へ移る。そこに浮かぶ二つの存在、ソルとルナ。その瞳が僅かに細められた。
「君がノエル・メレディスか」
「俺を知ってるんですか?」
ノエルは少し驚いたように返す。
自分の名前がこの場で出るとは思っていなかったのだろう。
「入学試験の記録を確認した」
「試験は地方で受けましたけど」
「優れた成績や、特殊な称号を持つ新入生の資料は生徒会にも届く」
説明しながら、視線はソルとルナへと向けられている。観察するというより、情報を整理しているような目だった。
「高位妖精二体との同時契約。過去の記録にも、ほとんど例がない」
その言葉に、周囲の空気がわずかに変わる。
新入生の何人かが息を呑んだ。
『妖精王』
『受付でも間違えられた』
ソルとルナは淡々と呟く。だがその声には、どこか誇らしさのようなものも混じっている。
「仮登録では、高位妖精種として扱う他ない」
グレイシアは事務的に結論を述べた。
『生徒会長も分かっていない』
『未熟者』
ソルとルナの言葉は容赦がなく、ノエルは慌てて手を振る。
「二人とも失礼だぞ!」
だがグレイシアは表情を変えない。
「構わない。実力が伴うのであれば、肩書きは自ら証明される」
その言葉は評価でも否定でもない、ただの原則だった。ソルとルナは一瞬だけ目を見合わせる。
『合理的』
『少し気に入った』
「光栄だ」
そのやり取りは淡々としているのに、どこか奇妙な緊張感があった。完璧に整えられた空気の中で、唯一揺れているのはアルベルトの指先だった。彼は無意識に拳を握りしめている。
(まただ…兄上は誰を前にしても動じない)
初対面の召喚獣に失礼なことを言われても、感情的にならず正しく評価する。自分なら、すぐに声を荒らげていただろう。
実際、つい先ほども荒らげた。幼い頃から同じで、兄は何でもできた。魔法も剣も早く習得し、教師からは天才と呼ばれ、父も母も使用人も親族も皆がグレイシアを褒めた。そして必ず、その後にアルベルトを見る。
“兄君のようになりなさい”
“兄君を見習いなさい”
“兄君なら、もっと上手くできましたよ”
胸の奥に沈殿した記憶が、ゆっくりと熱を持ち始める。
「アルベルト?」
ノエルの声で我に返る。
隣ではノエルが心配そうに覗き込んでいた。
「何だ」
「顔が怖いぞ」
「元からだ」
「それは自分で認めるのか」
軽口に、わずかに空気が緩む。
『翡翠の瞳に大きな文字』
『兄に負けたくない』
ソルとルナが頭上で囁く。
「読むな!」
アルベルトが睨むと、二人はくすくす笑いながら距離を取った。ノエルは困ったように笑う。
「別に兄弟で勝ち負けを決めなくてもいいだろ」
悪意のない言葉が、逆に胸へ刺さる。
「君には関係ない」
思った以上に冷たい声が出て、空気が一瞬張り詰める。
「そうだけど」
「なら口を出すな」
鋭い言葉が落ちて沈黙する。
ノエルは一瞬目を見開き、アルベルト自身も言った直後に後悔した。だが謝罪は喉で止まる。その空気を切るように声が響いた。
「全員集まったな。では、新入生の男子生徒は私に着いてくるように。女子生徒は生徒会書記フローラ・クレマチスが女子寮を案内するので、彼女が来るまで此処で待機だ」
グレイシアは、すでに次の指示へ意識を移している。アルベルトはノエルから視線を逸らし、グレイシアの背中を追う。
「何だ、あいつ」
ノエルが小さく呟く。
『刺々しい栗』
『大型の栗』
ソルとルナが即座に評する。
「栗にしては大きすぎるだろ」
ノエルは苦笑しながらアルベルトの背中を見る。怒りではない。だが、何かに押し潰されそうな不器用な緊張が滲んでいた。
「放っておいて差し上げなさい」
アイリスが静かに言う。
「兄弟には他人が容易に立ち入るべきではない事情もありますわ」
「アイリスは何か知ってるのか?」
「公爵家同士の付き合いで、多少は」
それ以上は語らないという意思があった。
「教えてくれる?」
「本人の許可なく語ることではありません」
貴族としての線引きと配慮が同時に含まれていた。
「そっか」
ノエルはそれ以上追及しない。
『アイリスは優しい』
『言い方は硬い』
「一言余計ですわ。それよりも早く行きなさい。置いていかれますわよ」
アイリスは小さくため息をつきつつも、どこか柔らかい表情だった。少し離れた影で、カティアはその一連を静かに見ていた。視線はアルベルトの背中に向けられている。そこに浮かぶ感情は明確だった。
劣等感、焦燥、愛情、嫉妬、そして認められたいという渇望。
オウルアイはそっと視線を伏せる。
怯えた少女のように存在感を薄めながら、アルベルトの背中を静かに見つめていた
☆
男子寮は、学院本館の西側に位置する五階建ての石造建築だった。外観は古い城館に近く、壁には蔦が這っている。
長い年月を経た重厚な石壁は、寮というよりも要塞のような威圧感すら漂わせていた。玄関の上には、金属製の獅子の頭部が飾られていた。その獅子はただの装飾ではなく、学院の自律防衛機構の一部であり、侵入者の識別と学生管理を担う魔導装置である。
新入生が近づくたび、獅子の口から学生証を提示するよう求める声が響く。
《学生証を提示せよ》
無機質でありながら、どこか威圧感のある声が玄関前に響いた。列の先頭にいたノエルは、少し肩をすくめながらも落ち着いて財布を取り出す。
「はい」
ノエルは財布から魔力認証と個人情報が刻まれた魔導金属製のカードを差し出す。すると獅子の目が青く光った。
《確認。ノエル・メレディス》
機械的な声が一瞬だけ柔らかくなる。
《一年A組。召喚士。寮規則違反歴なし》
「今さっき入ったばかりだからな」
まだ何もしていないという事実が、珍しく誇らしく感じられる瞬間だった。
だが獅子は、淡々と続ける。
《潜在的違反可能性、中》
ノエルの表情が固まる。
「何を基準に判断した!」
獅子は一切動じない。
《同行者》
獅子の目がアルベルトへ向く。その瞬間、アルベルトの背筋がわずかに伸びた。
《問題児登録済み》
「あの時の記録が共有されているのか!」
アルベルトの声が一段高くなる。すでに嫌な予感はしていたが、想像以上に早く情報が回っている。
《学院内の管理設備は情報を共有する》
獅子は淡々と説明する。まるで当然の機能であるかのように。
《アルベルト・ノービリタス。潜在的違反可能性、極大》
その評価に、アルベルトは目を見開いた。
「なぜ僕だけ極大だ!」
即座に抗議の声が上がり、周囲の新入生が小さくざわつく。まだ入寮前だというのに、すでに問題児扱いされている事実に、本人のプライドが強く刺激されていた。
《声量、短気》
獅子は即答し、さらに追い打ちのように続く。
《廊下での魔法使用が予測される》
「使わない!」
アルベルトは即座に否定するが、その声はやや大きかった。獅子の目が再び青く光る。
《否定時の声量を記録。予測値を上方修正》
「この学院の設備は僕に恨みでもあるのか!」
アルベルトの叫びが寮の玄関前に響き渡る。その様子を見ていたノエルは、思わず肩をすくめた。まだ寮に入る前だというのに、すでに騒がしさが完成している。男子寮の獅子は、静かに次の学生証を待っていた。
フィンは軽く肩を回しながら、列の前へと進み出た。周囲の緊張感とは裏腹に、いつも通りの柔らかい笑みを浮かべている。獅子型の魔導検査体は、彼の接近に合わせて静かに首を下げた。
フィンが獅子へ学生証を示す。金属の顎がわずかに開き、学生証に刻まれた魔力紋を読み取る光が走る。空気が一瞬だけ張り詰め、周囲の生徒たちが息を呑んだ。
《フィン・クローバー。潜在的違反可能性、中》
機械的な声が響くと同時に、獅子の瞳の光が穏やかに変化する。
「…アルベルトに比べたら、まだマシな方なのかな?」
フィンはいつもの調子で笑った。
《無許可の商取引に注意》
獅子の視線が、彼の荷物へと向けられる。淡い魔力反応が検知されているのか、警告音が小さく鳴った。
「まだ何も売ってないよ?」
フィンは両手を軽く上げて無実を主張するように肩をすくめる。だがその表情には、どこか余裕すらあった。
《荷物内に携帯用商品目録を検知》
即座に指摘が飛ぶ。獅子の目が淡く赤く点滅した。
「商人として当然だよ」
フィンは悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張る。彼にとっては呼吸と同じくらい自然な行為なのだろう。
《学院内での露店は禁止》
「じゃあ、申請すればいいのかな?」
フィンはすぐに切り替え、実務的な口調で問い返した。頭の中ではすでに申請手順を組み立てているような顔だ。
《申請窓口は本館二階》
「ありがとう。後で行ってくるね」
フィンは軽く手を振り、すでに次の行動へ意識を移していた。商機があればどこでも動く、それが彼の性分だった。
「学院で商売する気なのか!」
アルベルトの鋭い声が飛ぶ。呆れと警戒が混ざったその声にフィンは笑って手を振る。
獅子の視線が次の人物へ移る。空気が再び張り詰め、周囲の生徒たちが一斉に姿勢を正した。
シャスールは無言のまま一歩前へ出る。小柄な体に似合わぬ落ち着いた動きで、学生証を差し出した。
《シャスール・フォレスティ。潜在的違反可能性、不明》
「不明?」
フィンが思わず声を漏らす。これまでの判定とは明らかに異質だった。
《年齢情報に異常。百二十四歳》
獅子の瞳が一瞬だけ強く光る。
「異常ではない。エルフとしては若い」
シャスールは淡々と答える。その声には揺らぎがない。まるで当然の事実を述べているだけだった。
《新入生としては高齢。過去の記録には前例は有り》
「まぁ高齢だけど…前例あり?」
《過去にも同じ意思表示した者有り》
「それ、もしかして…うん、彼女ならそれを言われたら怒って武器か魔法を使わなかった?…こんな風に」
空気が一瞬凍る。周囲の生徒たちが息を呑み、視線が一斉にシャスールへ集まった。
シャスールの指が静かに腰の短剣へと伸びる。動きは極めて自然で、まるで風が揺れた程度の違和感しかなかった。
《武器への接触を確認》
獅子の声が即座に変化する。警戒音が鋭く鳴り響き、魔力が一気に高まる。
《潜在的違反可能性、極大へ変更》
空気が一瞬で張り詰め、周囲の生徒たちが後退する。
「ん?……うん、アルベルトと同じになった」
シャスールはどこか面白がるような声色だった。
「喜ぶな!」
アルベルトの怒声が即座に飛ぶ。
グレイシアは無言のまま、胸元から学生証を取り出した。白銀の紋章が刻まれたそれは、ただの身分証ではなく、学院内のあらゆる権限を一部代行できる証でもある。
彼がそれを獅子の前に掲げ、一瞬だけ目を細めた。次の瞬間、威圧するように開いていた顎が、静かに閉じられる。
《生徒会長を確認》
「新入生を部屋へ案内する」
グレイシアは淡々と告げる。
その声には一切の揺らぎがない。
《許可する》
魔力の流れが切り替わるように、門の結界が開放された。
「最初から生徒会長が学生証出してたらスムーズに行ったんじゃ…」
『無駄に傷ついた』
『四人は尊い生贄』
ノエルの言葉にソルとルナが頷き合掌をした。
アルベルトは眉を吊り上げ、抗議を伝える。
「問題児を取り消せ!」
《問題児の抗議は受理されない》
「アルベルト」
グレイシアが短く名前を呼ぶ。その一言だけで、アルベルトはぴたりと口を閉じた。
兄の声には、問答無用の圧がある。
(……納得いかない)
そう思いながらも、反論できないのが悔しい。
一行は寮の玄関を抜ける。そこは外観からは想像できないほど広い空間だった。暖炉が静かに火を揺らし、柔らかな光を落としている談話室は、生活の中心として設計された空間だと一目で分かる造りだった。
「学院でのルールについて説明をする。まず始めに学院内で私闘は禁じられている。ただし、双方の合意と教師の立ち会いがあれば、決闘として認められる場合がある」
「負けたら退学?」
ノエルの問いは冗談めいていたが、空気は冗談を許さなかった。
「条件によるが、原則として退学を賭けることは禁止されている」
グレイシアは即座に否定する。
『菓子を賭ける』
『負けられない』
ソルとルナが小声で囁く。
「菓子で決闘する奴がいるか!」
ノエルの即ツッコミで、わずかに空気が緩む。
「決闘場には治療術師が常駐している」
グレイシアは歩きながら説明を続ける。
「腕が折れた程度なら、その日のうちに治療可能だ」
「腕が折れるのが前提なのか?」
ノエルの声が引きつる。
「足の場合もある」
「そこじゃない!」
「死者の数は?」
シャスールが感情のない声で尋ねる。
その問いだけが妙に現実的だった。
「過去十年では二名いる」
「いるのかよ!」
ノエルの声が裏返る。
「いずれも規則違反による事故だ。規則を守れば危険性は低い」
『低いだけ』
『ゼロではない』
ソルとルナの補足が、逆に現実味を増す。
「この学院、さっきから命の扱いが少し軽くないか?」
ノエルは思わず周囲を見回すが、誰も否定しない。
「魔法や剣術、体術、錬金術等を学ぶ以上、完全な安全は存在しない」
グレイシアは足を止め、新入生たちを振り返った。その視線は冷静でありながら、逃げ道を許さない強さを持っている。
「だからこそ、規則を守れ。自分の限界を知れ。教師の指示を聞け」
静かな声が談話室に落ちる。それは命令ではなく、積み重ねられた経験からくる警告だった。
「そして、危険な状況では助けを求めろ。無謀と勇気を混同するな」
その言葉だけは、不思議と強かった。アルベルトは兄を見つめる。幼い頃、凍った湖で溺れかけた自分を助けた時も、グレイシアは怒らなかった。ただ静かに手を差し伸べた。
あの時と同じ声だった。
「アルベルト」
グレイシアが弟を呼ぶ。その声に、わずかな温度が戻る。
「何でしょうか」
アルベルトは姿勢を正す。
「君もだ」
「……承知しました」
短い返事の中に、複雑な感情が滲む。見透かされたような苛立ちと、救われたような安堵が同時にあった。
『複雑な関係』
『この兄弟は面倒な予感』
ソルとルナが淡々と評する。
「聞こえているぞ」
『聞こえるように言った』
「性格が悪い!」
アルベルトが即座に言い返すと、グレイシアはわずかに目を細めた。だがそれは叱責ではなく、ほんの一瞬だけ柔らかい、兄としての表情だった。
そしてグレイシアが談話室の奥の掲示板に指先を軽く触れると、魔力が流れ込み、文字が浮かび上がる。
【新入生の部屋割り表】
「部屋は原則二人一組だ。生活態度や魔力の相性、所属クラスなどを考慮して決められている」
淡々とした説明に、ノエルが首を傾げる。
「魔力の相性?」
「相反する魔力を持つ者同士を同室にすると、睡眠中に魔力が干渉する場合がある。逆に、同系統が強すぎても部屋の環境へ影響する」
理屈としては理解できるが、想像すると少し怖い。
「アルベルトと同室になったら、部屋が凍るのか?」
「僕は寝ている間に魔法を使わない!」
アルベルトが即座に否定する。
だがその言葉に、ソルとルナが小さく首を傾げた。
『寝相で使うかも』
『朝起きたらノエルが凍っている』
「俺は嫌だぞ!」
ノエルが本気で後ずさる。
「僕も君と同室など望んでいない!」
アルベルトも即座に言い返す。その瞬間、掲示板の文字がゆっくりと変化した。魔力が流れ、組み合わせが再計算されていく。
まるで、彼らの会話すら“条件”として組み込まれているかのように、部屋番号と名前が順番に掲示板へ浮かび上がった。
寮の掲示板前は新入生で埋め尽くされ、紙が貼り出された瞬間から一気にざわめきが広がる。荷物を抱えた生徒たちが、自分の名前を探して視線を忙しなく走らせていた。
【二〇三号室】
ノエル・メレディス
アルベルト・ノービリタス
二人の名前が並んだ瞬間、その周囲だけ空気がわずかに沈黙した。喧騒の中に、不自然な静けさが一瞬だけ差し込む。
当の本人たちは、その中心で固まったまま掲示板を見上げ、次に互いの顔を見る。
数秒の沈黙
その間に、ノエルは「まあそうなるか」とでも言いたげな顔をし、アルベルトは「最悪の可能性が現実になった」と言わんばかりの表情をしていた。
「……何かの間違いだ」
アルベルトが言った。周囲の喧騒の中でもはっきりと届く、硬い声だった。現実を拒絶するような緊張が全身に出ている。
「意見が合ったな」
ノエルは肩をすくめ、軽く笑う。その余裕が、さらにアルベルトの神経を逆撫でする。
『相性が良いことが判明』
『出会った時から仲良し』
ソルとルナが淡々と補足する。肩の上で小さく揺れながら、事実を読み上げるだけのような口調だった。
「「違う!」」
二人の声が重なる。即座に否定が一致するあたり、すでに相性の良さは証明されているようなものだった。
掲示板の下段には、二〇四号室の名前が続く。
フィン・クローバー
シャスール・フォレスティ
その組み合わせを見た瞬間、フィンはぱっと顔を明るくした。
「よろしく、シャスール」
すぐに隣へ視線を向け、フィンは嬉しそうに笑う。荷物を軽く揺らしながら、遠足の班分けを見た子どものような反応だった。
「よろしく」
シャスールは短く、それだけ返した。
「ちなみに俺、寝相が少し悪いけど大丈夫?」
フィンは少し申し訳なさそうに頭をかくが、目はまったく不安を抱いていない。
「僕は気配が近づけば目が覚めるから大丈夫」
シャスールは淡々と答えながら、廊下の奥へ視線を向ける。すでに周囲の動きや気配を観察しているようだった。
「それなら安心だ」
「反射で投げるかもしれないから、先に謝っておく。ごめん」
「う〜ん、やっぱり安心できないなあ」
言葉とは裏腹に、フィンはまったく困っていない。むしろ「面白い同居人が来た」と顔に書いてある。
「兄上」
アルベルトがグレイシアへ詰め寄る。荷物を握る手に力が入り、今にも抗議を爆発させそうな雰囲気だった。
「部屋割りの変更を要求します」
真剣そのものの声が響く。周囲の生徒がちらりと視線を向けるほどの圧だった。
「認められない」
グレイシアは即答する。表情は変わらず、天気の話でもしているかのような冷静さだった。
「なぜですか!」
アルベルトの声が一段上がる。
「正当な理由がない」
「僕と彼は性格が合いません」
「入学初日に判断できることではない」
「既に十分分かりました!」
アルベルトは即答した。その断言の速さだけは妙に説得力がある。
「俺も同じ意見です」
ノエルも手を上げる。荷物を肩に担ぎながら、完全に同意の姿勢だった。
「こいつ、すぐ怒るし」
「誰のせいだ!」
「ほら」
「君が余計なことを言うからだ!」
アルベルトの声はすでに半ば叫びに近い。
「同室者との関係を築くことも学院生活の一部だ」
グレイシアは弟の抗議を冷静に退ける。
その言葉には一切の感情がないが、逆にそれが決定事項であることを強く印象づけていた。
「どうしても変更を望むなら、一か月生活した後、寮監へ申請しろ」
淡々とした条件提示だった。
「一か月……」
アルベルトは一瞬だけ言葉を失う。その間に、現実がじわじわと重くのしかかってくる。
「それまでは協力して生活するように」
「…組み合わせは兄上が決めたのですか?」
アルベルトはわずかに疑念を込めて問う。
「部屋割りの最終確認は寮監の仕事だ。私は関与していない」
「そうですか」
アルベルトの肩から、僅かに力が抜ける。兄が意図的にノエルと同室にしたわけではない。その事実に、ほんの少しだけ安堵した。
だが同時に、兄が自分の部屋割りに一切関心を持っていなかったようにも聞こえた。その冷静さが、逆に胸の奥を重くする。
「……寮監から意見を求められたため、変更の必要はないと伝えた」
グレイシアのその一言で、アルベルトの背筋が再び伸びる。静かな追撃だった。
「関与しているではありませんか!」
アルベルトの叫びが廊下に響く。
「ノエル・メレディスは剣術成績が高く、性格も君と大きく異なる。互いに不足を補えると判断した」
「僕に不足があると?」
「誰にでもある。私にも、お前にも」
その言葉は突き放すものではなく、事実として置かれたものだった。アルベルトは言葉を失う。完璧に見える兄が、自分にも不足があると認めた。だがその余裕が、さらに距離を感じさせる。
「行くぞ、アルベルト」
ノエルが荷物を持ち上げる。すでに気持ちを切り替えたような軽さだった。
「なぜ君が仕切る」
「ここで立ってても仕方ないだろ」
ノエルは当然のように言うその一言に、アルベルトは一瞬だけ言い返せなくなる。
『ノエルが正しい』
『珍しい』
ソルとルナが淡々と評価する。
「最後の一言が余計だ!ほら、行くぞ」
軽く手を振り、すでに歩き出していた。その背中を見て、アルベルトは一瞬だけ言葉を失う。
納得していない、受け入れてもいない。それでも、ここで立ち止まっても何も変わらないことだけは理解していた。
「……本当に最悪だ」
小さく吐き捨てるように言いながら、アルベルトも渋々その後を追う。
廊下には新入生たちのざわめきがまだ残っていた。荷物を抱えた生徒たちが行き交い、寮の扉が開閉するたびに木の軋む音が響く。
肩の上のソルとルナだけが小さく揺れながら、淡々と呟いた。
『新生活』
『騒がしくなる』
その言葉は、誰に向けたものでもない。
しかし確かに、これから始まる日常の輪郭だけは、すでにそこにあった。




