第1話 ハズレ加護と忌避される階層
銀貨2枚。
『深淵回廊27階層付近 異常音の調査 報酬:銀貨2枚 推奨等級:銅級以上』
ギルドの掲示板、右上の隅。日焼けして端が丸まった依頼書を、俺はもう数えるのをやめたくらい見ている。
二ヶ月前から誰も手を出さずにずっと残っている。当たり前だ。
27階層。浅層の最深部はノクスの濃度が異常に高くて、信仰魔法の出力が落ちる。さらに死霊系の魔物がうろついている割に、素材は安い。要するに、リスクに対してリターンが釣り合わない。
冒険者ってのは命を賭けて稼ぐ仕事だけど、賭けるからにはリターンがないと意味がない。そこの計算ができない奴から死んでいく——ってのは、二年もやってれば嫌でも分かる。
だから俺は視線を落として、三段下のいつもの依頼書に手を伸ばした。
『浅層3階層 薬草採取 報酬:銅貨8枚 推奨等級:鉄級』
銅貨8枚。宿代を引いたら残りは3枚。飯を食ったら何も残らない。
でも、死にはしない。死んだら妹に仕送りもできない。
「ノア君、また薬草採取?」
受付のエレナさんが、依頼書を受け取りながらこっちを見た。困ったような顔をしている。申し訳ないとは思うけど、鉄級の冒険者に選べるほどの選択肢はない。
「はい、今日もお願いします」
「……たまにはもうちょっと、こう、ない?」
「大丈夫ですよ。慣れてますから」
笑って答えた。嘘じゃない。実際慣れている。二年もやってれば、銅貨8枚だけの日常には慣れる。
慣れたくなかったけど。
ギルドを出ると、深淵門に向かう岬の道が朝日に白く光っていた。あの門の向こうに、どこまでも続く別世界が広がっている。金級の連中は毎日あの中で銀貨や金貨を稼いでいる。
俺はその入口のすぐそば、3階層の草原で地面に這いつくばって草を摘む。
同じ門をくぐっているのに、行き先が違う。二年間ずっとそうだ。
3階層は薄暗い草原だ。低い霧が地面を這っていて、天井——というか空に見えるもの——は灰色にぼんやりと光っている。ここがダンジョンの中であることを忘れそうになるくらい広い。
ただし、足元にはグレイウルフの足跡がある。のんびり散歩していると喉を噛み切られる。
俺は腰の剣に手を添えたまま、草の合間を歩いた。目当ての薬草は「月露草」。青白い葉が目印で、霧が濃い場所に群生する。治癒神サルヴァティスの神殿が買い取ってくれるから、需要は安定している。
——あった。
膝をついて根元から丁寧に摘む。根を傷つけると値が下がる。地味な仕事だけど、手つきだけは板についた。
摘んだ薬草を左手に集めて、意識を加護に向ける。
——『内なる蔵』。
手のひらの上で、薬草がすっと消えた。俺の加護の中に収まる。
「加護」と呼ぶのもおこがましい、ただの収納能力。物をしまえる。出せる。それだけ。剣が鋭くなるわけでもなく、体が頑丈になるわけでもない。選定の儀で授かった時、神官ですら首を傾げた加護だ。
探索者証に意識を向けた。薄い金属板の表面に、いつもの数字が浮かぶ。
存在位階:第六位階・下位
信仰神:収蔵神ヴォラクスト
体力:62
筋力:55
敏捷:68
感覚:51
元素容量:8
元素親和:なし
加護:内なる蔵
技能:薬草識別、短剣術(初級)、片手長剣術(初級)
二年前とほとんど変わらない数字。信仰神の欄には「収蔵神ヴォラクスト」——聞いたことのない神の名前が光っている。
元素親和は「なし」。二年もダンジョンに潜っているのに、どの元素とも縁がない。魔法が使えないのはこのせいだ。
確認するたびに、ハズレを引いた事実だけが突きつけられる。
「……はぁ」
ため息が出た。いつものため息だ。二年間で何百回ついたか分からない。
荷物持ちとしては便利だから、パーティに拾ってもらえたこともある。ただし扱いは荷物係。報酬は最低。まあ、それはいい。贅沢を言える立場じゃない。
黙々と薬草を摘む。一束、二束、三束——。
足元の霧が微かに揺れた。
反射的に横に跳ぶ。直後、灰色の毛並みが霧の中から突っ込んできた。グレイウルフ。若い個体だ。牙を剥いている。
剣を抜く。安い鋼の片手長剣。刃こぼれが三か所もある。
ウルフがもう一度跳んでくる。俺は少しだけ横にずれて、すれ違いざまに首筋を薙いだ。二年分の実戦で身についた、最低限の動き。鮮やかじゃない。格好良くもない。ただ、死なない程度には戦える。
ダンジョンに潜り続けていれば、誰だってそれなりには強くなる。二年でこの程度だけど。
ウルフが倒れ、体の中で微かに光る魔核が見える。
これを抜き取って、サミルに持っていけば——銅貨2枚。
……薬草の方がまだ高い。
ギルドに戻ると、エレナさんが受付で手を振った。
「おかえり。怪我は?」
「大丈夫です。月露草七束、納品します」
加護から薬草を取り出して、カウンターに並べる。エレナさんが一束ずつ確認し、状態を帳簿に記録していく。
「うん、状態いいね。根も綺麗。——はい、銅貨8枚」
「ありがとうございます」
報酬を受け取って、次は市場区へ向かう。グレイウルフの魔核が一個、まだ加護の中に残っている。
市場区の路地裏に、サミルの店はある。「古物・素材買取」と書かれた看板が、かろうじて読める程度に色褪せている。店というよりは倉庫に近い。
「おう、ノア。今日は何だ?」
サミルは帳簿から顔を上げて、気軽に手を振った。三十半ばの商人で、愛想がいいとは言わないけれど、嘘はつかない。他の買取商みたいにこっちの足元を見て買い叩くこともしない。俺みたいな鉄級にとっては、それだけでありがたい存在だ。
「グレイウルフの魔核、一個です」
「おう。——ん、若い個体だな。小さいが質は悪くない」
サミルが銅貨を並べる。2枚。俺はそれを受け取って、腰の革袋に入れた。
「ノアよ、お前さん手先は器用なんだから、鍛冶の手伝いでもやりゃいいのに」
「冒険者が性に合ってるんです。多分」
「合ってるかねえ」
サミルは鼻で笑って帳簿に目を戻した。俺もそう思うけど、今さら別の仕事を探す余裕もない。
店を出ると、日が傾き始めていた。岬の先に深淵門の輪郭が夕日に黒く浮かんでいる。朝はあの道を歩いて門をくぐった。帰りも同じ道を歩いて戻ってきた。明日もそうだろう。明後日も。
宿に向かって歩きながら、今日の収支を頭の中で弾く。途中、ギルドの掲示板の前を通った。目を逸らしたつもりだったのに、足が一瞬だけ止まった。
薬草と魔核を合わせて銅貨十枚。宿代を引いて五枚。飯を食って二枚。残り三枚。
妹への仕送りは月末。あと十二日で、三十枚を作らないといけない。
……足りない。どう計算しても足りない。
足が、少しだけ遅くなる。
宿場区の角を曲がる前に、沈み錨亭に寄った。ゲルダさんに預かってもらっていた手紙がある。
相部屋の寝台に腰を下ろして、封を開ける。見慣れた丸い字。リーナの手紙だ。
『お兄ちゃんへ
元気ですか? わたしは元気です。
この前送ってくれたお金で、お母さんが新しい種を買いました。来年はもう少し麦がとれるかもしれないって言ってました。お父さんも喜んでたよ。
カインお兄ちゃんが自警団の訓練で足をくじいたけど、もう治りました。エイルお兄ちゃんは畑が忙しくてちょっと痩せたかも。
わたし、最近字を教えてもらってます。もらった本、何回も読みました。もっと上手に書けるようになったらもっと手紙も書くね。
お兄ちゃんは無理してませんか? お母さんがいつも心配してます。お金は大丈夫だから、あんまり無理しないでね。
リーナ』
——お金は大丈夫だから。
手紙を持つ指に、少しだけ力が入った。
「……大丈夫、か」
大丈夫じゃないことは分かっている。エイルからの手紙には、今年の麦の出来が良くないこと、村の共同井戸の修繕に金がかかったことが書いてあった。あの手紙はリーナには見せていないんだろう。
手紙を畳んで、加護の中にしまった。
仰向けになって天井を見る。木目の染みを数える。ギルドの掲示板が浮かんだ。右上の隅。日焼けした羊皮紙。
——銀貨2枚。
目を閉じても、あの羊皮紙の輪郭だけが、まぶたの裏に残っていた。




