第2話 最後の賭け
「ノア、荷物」
レイドが振り返らずに言った。俺は黙って、地面に転がる魔物の素材を拾い上げる。12階層の岩場は赤茶けていて、空気が生温かい。イグル系——火の元素が強い階層だから、ここにいるだけで汗が滲む。
蒼炎の矢。銅級のパーティで、リーダーのレイドは剣士、カーラが魔法使い、ジンドが盾役。三人パーティとしては悪くない構成だ。ただ荷物を持つ人間がいない。三人とも第五位階の半ば。レイドの筋力は俺の四倍以上ある。探索者証の数字だけ見れば、同じ門をくぐっている人間とは思えない差だ。
だから俺が呼ばれる。
「内なる蔵」は戦闘では何の役にも立たないけれど、こういう場面では重宝される。素材を端から加護に収めていけば、三人は身軽なまま戦える。狩りの効率が上がる。そのぶん報酬をもらえる——はずなんだけど。
「今日は多かったな。お前の取り分、銅貨4枚でいいだろ」
帰り道、レイドが肩越しに言った。
「……今日、結構長く潜りましたよね。素材の量も——」
「何だよ、文句あんのか? お前は荷物持ってただけだろ。俺たちが戦ってたんだ」
カーラが鼻を鳴らした。「嫌なら他のパーティ探せば? 鉄級を拾ってくれるところがあればだけど」
ジンドが何か言いかけて、口を閉じた。一瞬だけ俺の方を見て、すぐに目を逸らした。
「……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
銅貨4枚。半日分の宿代にもならない。でも、カーラの言う通りだ。鉄級の荷物持ちを雇ってくれるだけでもましだと思うしかない。
道標石で5階層まで転移し、そこから深淵門への通路を歩く。螺旋階段を上がっていく途中、レイドが何気なく言った。
「そういやマルコの野郎が言ってたけど、最近27階層で変な音がするらしいぜ」
「27階層って、誰も行かない階層か」とジンド。
「そうそう。ノクスが濃いってやつ。あそこは近寄るもんじゃねえよ。死霊系がうろうろしてる割に素材はゴミだし、信仰魔法も効きが悪くなるって話だ」
「変な音って何だよ」
「さあ。声みたいなもんが聞こえるとか何とか。25階層の道標石を使った連中が何人か言ってるらしい。まあ、普通に考えたら魔物の鳴き声だろ」
レイドはそれ以上興味なさそうに話を切った。
27階層。掲示板に残っている、あの依頼。
銀貨2枚。
——いや、やめておけ。あそこは割に合わない。冒険者が近寄らないのには理由がある。
深淵門を出ると、夕方の潮風が汗を冷ました。レイドとカーラは先に行ってしまった。ジンドだけが少し遅れて歩いていて、俺とすれ違う時に「……悪いな」と小さく言った。聞こえなかったふりをした方がいいのか迷って、結局「いえ」とだけ返した。ジンドは何も言わずに前を向いて、二人の背中を追いかけていった。
岬の道をゆっくり歩いて、宿場区に向かう。
手の中の銅貨を数えた。4枚。今月の残り十二日で、あと銅貨26枚。それで仕送りの銀貨3枚を作らないといけない。
薬草採取を毎日やって、運が良ければ1日に銅貨8枚から10枚。そこから宿代と食費を引いて、残るのは3枚。十二日で36枚。仕送りを引いて6枚。
——ぎりぎりだ。ポーションの補充や装備の修繕が入ったら、もう足が出る。
このままでは、いつか計算が合わなくなる日が来る。それが来月なのか再来月なのか。来年まで保つかどうかも分からない。
二年間、ずっとそうやって綱の上を歩いてきた。
沈み錨亭の扉を押すと、いつもの喧騒が迎えてくれた。冒険者たちの話し声、食器の音、蝋燭と暖炉の薄い光。肉を焼く匂いに腹が鳴った。
カウンターの端、俺の定位置に座る。ゲルダさんが鉄鍋を片手に近づいてきた。
「あんた、また顔色悪いよ。食べてんの?」
「食べてますよ。今日は……硬パンと塩漬け肉ください」
「あいよ。——安いもんばっかり頼むねえ」
ゲルダさんは何も言わずに、皿にスープを一杯追加してくれた。ツケにもしない。この人にはいつか必ず返さないといけない。
硬パンをスープに浸してかじっていると、隣のテーブルから声が聞こえてきた。
「——だからさ、25階層の道標石を使った時にさ、奥の方から聞こえたんだって」
「声? 魔物のか?」
「いや、それがさ。なんつーか……人の声みたいだって言うんだよ。低い、唸るような声。25階層から27階層の方に向かうとどんどんはっきり聞こえるらしい」
「はっ、行くわけねえだろ。27階層なんて素材もロクなもん出ねえし、信仰魔法の威力が落ちるってだけでもう御免だわ」
「まあな。でも逆に言やあ、誰も行かねえんだから何か落ちてても誰にも取られてねえってことだろ」
「お前が行けよ」
「やだよ」
笑い声。冒険者たちの噂話はいつもこんなものだ。明日には忘れている。
でも俺の耳には、一つの言葉が引っかかった。
——誰も行かない。誰にも取られていない。
頭を振った。スープの残りを飲み干して、二階の部屋に上がる。
月末まで十二日。銀貨3枚。銅貨にして30枚。
薬草採取では足りない。レイドの荷物持ちを何回やっても足りない。
足りない。
それだけが、頭の中で繰り返している。
目を閉じた。暗闇の中に、掲示板の羊皮紙が浮かぶ。日焼けした端、薄れた文字。
——銀貨2枚。推奨等級、銅級以上。
鉄級の俺には推奨等級を超えている。単独での受注は非推奨。ノクスの濃い環境。信仰魔法の出力低下。死霊系の魔物。
冒険者の常識で言えば、近寄るべきじゃない。
でも。
誰も行かない。誰にも取られていない。調査依頼の報酬は銀貨2枚。それに加えて、もし素材が拾えたら——。
今の俺に必要なのは、常識じゃない。
目を開けた。
翌朝、俺は神殿区のピッパさんの店にいた。
薬草店の奥から、白髪を丸く結ったドワーフの老女がのっそりと出てきた。背丈は俺の腰くらいしかないけれど、この人の調合するポーションは神殿区でも評判だ。
「おや、ノアちゃん。珍しいねえ、朝から」
「ポーションを一本ください。あと、解毒薬があれば」
「あるよぅ。どこに行くの?」
「ちょっと、深い階層に」
「ふうん」
ピッパさんはのんびりと棚から小瓶を取り出した。淡い緑の液体——下級の回復薬と、青みがかった解毒薬。
「ノアちゃん、あんまり無理しちゃだめだよぅ。あんた、いつも顔色が悪いって、ゲルダが言ってたよ」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫大丈夫って、あんたはいっつもそればっかり」
銅貨を数えて渡す。ポーションと解毒薬で銅貨6枚。今日一日分の生活費が飛んだ。
店を出て、宿に戻る。部屋で剣を鞘から抜いた。刃こぼれが三か所ある安い鋼の片手長剣。砥石を取り出して、丁寧に研ぐ。
刃の一つ一つに手を当てて、欠けを均していく。完璧には戻らない。砥石でできることにも限界がある。それでも、やらないよりはましだ。
ポーションと解毒薬を腰のポーチに入れる。干し肉と硬パンを加護の中にしまう。水袋の中身を確認する。
やれる準備は、これで全部だ。
大した装備じゃない。銅級のパーティが当たり前に持っていくものの半分もない。
でも、俺が持てるのは、これだけだ。
探索者証にちらりと目を落とした。第六位階・下位。推奨等級は銅級——第五位階以上。
数字が足りないのは分かっている。分かっていて、行く。
深淵門に向かう岬の道を、朝日の中で歩いた。
いつもと同じ道。いつもと同じ門。番兵に探索者証を見せて、螺旋階段を降りていく。
ただ、行き先が違う。
今日は3階層で降りない。5階層の道標石も、10階層も、15階層も、20階層も素通りする。
25階層の道標石に手を触れた。探索者証に刻まれた記録が微かに光る。この石は以前、レイドたちの荷物持ちで来た時に一度だけ解放していた。
ここから先に、道標石はない。
25階層から27階層までは、自分の足で歩くしかない。
通路が狭くなり空気が変わった。温度が下がるのとは違う。何かが、重くなる。肌の表面を撫でるような、冷たい圧迫感。
——ノクスだ。
闇の元素。死と静寂の力。この先に進むほど濃くなる。信仰魔法の使い手なら、ここで足が止まるだろう。神の祝福がかき消されていくような感覚は、信仰者にとっては恐怖そのものだ。
俺は信仰魔法が使えない。加護はあるけれど、それは神の祝福とは別のものだ。だからノクスの圧で魔法が落ちる心配はない——もともと何もないんだから、減るものがない。
小さく笑った。笑えるような話じゃないけれど。
26階層を抜けた。
その先に、境界があった。
通路が途切れて、広大な空間が広がっている。地面は乾いた灰色の土。空は——空と呼んでいいのか分からない——真っ黒だ。どこまでも暗い。遠くに何かの残骸が見える。建物の一部だったのか、崩れた石柱のようなものが点々と立っている。
風はない。音もない。ただ、闇が広がっている。
27階層。
忌避される階層。
足を踏み入れた瞬間、不思議なことに気づいた。
——重くない。
25階層から26階層にかけて感じたノクスの圧迫感が、ここではほとんどない。いや、ノクスの濃度は明らかに上がっている。肌で分かる。空気の色が違う。なのに、体が楽だ。
まるで、ここにいることが自然であるかのように。
気味が悪い。でも、立ち止まっている暇はない。
安い鋼の剣を抜いて、灰色の荒野に一歩を踏み出し
世界が、変わった。




