不完全な世界
(ランク2……)
画面に表示された【はい】を選択する。
すると、画面が切り替わり、ストレージ容量を示すバーが現れた。
上段には現在の使用状況。
その下には、ランク2へ拡張した場合の容量が表示されている。
――現在のストレージ容量【32TB】
《怪人変身アプリ》 4TB
《悪魔マッチングアプリ》4TB
《魔人覚醒アプリ》 4TB
空き容量 20TB
――ランク2拡張後【32TB】
《怪人変身アプリ》 12TB
《悪魔マッチングアプリ》4TB
《魔人覚醒アプリ》 4TB
空き容量 12TB
「……なるほど」
以前、リゼから聞いた通りだ。
ランク2で12TB。ランク3では24TBもの容量が必要になる。
その代わり、ランクアップによる恩恵も大きいらしい。
俺の《怪人変身アプリ》の適性は星5。
いずれはランク3を目指すつもりだった。
そこまで拡張すれば、32TBの容量をすべて使い切ることになる。
それでも、今さら迷う理由はない。
――ランク2に拡張しますか?
――【はい/いいえ】
俺は迷わず【はい】を選択した。
画面のバーが伸び、《怪人変身アプリ》の使用容量が12TBへと切り替わる。
続いて、新たな通知が表示された。
――《怪人変身アプリ》
――ランク2への拡張が完了しました。
――《補完の怪人》の形態情報を更新します。
画面が暗転する。
やがて、中央に一人の少年が浮かび上がった。
無造作な黒髪に、見慣れたブレザー姿。
白い陶器の仮面には不規則な欠損があり、その境目を金色の継ぎ目が走っている。
見覚えのある姿だった。
……俺の怪人形態だ。
そのとき、仮面の亀裂が淡く光り始めた。
欠けていた陶器の輪郭が、ゆっくりと形を変える。
剥き出しになっていた漆黒の部分を、白い外殻が少しずつ覆っていった。
砕けた破片を寄せ集めるのではない。
まるで、最初からそこにあったかのように、失われた部分が自然に補われていく。
その境目を、細い金色の線が縫うように走った。
やがて、仮面の輪郭が整う。
以前より欠損は少なくなり、顔立ちはわずかに鋭さを増していた。
だが、漆黒の素顔は完全には隠れていない。
片目の周囲には黒い部分が残り、金色の双眸が妖しく輝いている。
「……おお」
思わず声が漏れた。
変化は、そこで終わらなかった。
仮面を走っていた金色の継ぎ目が、今度は首元から両腕へ、さらに両脚へと広がっていく。
ブレザーの袖口の下、手の甲を這うように金の線が浮かび上がり、その周囲を黒い外殻と白い陶器の質感が覆っていった。
同じ変化が脚にも現れる。
ズボンの裾の下、足首から脛にかけて、仮面とよく似た意匠が刻まれていく。
顔だけに現れていた怪人の特徴が、そのまま四肢へと拡張されたようだった。
指先はわずかに鋭さを帯び、人間の手足のままでありながら、どこか異質な印象を放っている。
それでも、胴体には大きな変化はない。
姿形はあくまで人間に近いままだ。
やがて光が収まり、画面の中の怪人がゆっくりと顔を上げた。
白と黒。
その境界を縫う、無数の金色の線。
顔の完成度は増し、四肢には新たな変化が宿っている。
以前より補完は進んでいるはずなのに、怪人としての異質さはむしろ強まっていた。
「……これが、ランク2か」
画面の下に、新たな表示が現れた。
――《補完の怪人》
――ランク2
俺はしばらく、その姿に見入っていた。
裏門から校内に入ると、ダリオがスマホを覗き込んでいた。
「ルカ! ちょっと来い!」
「おはよう、ダリオ。……さっきのは――」
「わかってる。けど、今はそれじゃない。オハギだ」
「オハギ?」
視線を向けると、植え込みのそばで一匹の猫が丸くなっていた。
オハギは学校によく姿を見せる野良猫だ。
おはぎのように丸まった黒い尻尾と、額にある黒い丸模様が特徴で、名付け親はニコだった。
佐藤絢音先生が、こっそり餌をやっているのを見かけたこともある。
「オハギがどうしたんだ?」
「《怪異WALK》が反応してるんだよなぁ」
「猫又とか化け猫ってことか?」
「いや……オハギが、なぁ」
二人で猫を見つめる。
当のオハギは、そんなことなど知る由もなく、気持ちよさそうに眠っていた。
「……いつものオハギだな」
「だろ? でも、反応が消えないんだよ」
ダリオがスマホをこちらへ向けた。
画面には、オハギのいる場所を中心に、怪異の反応が表示されている。
「これ、オハギが反応してるのか?」
「分からない。反応が微弱だからな。近くに何かあるのか……」
俺はもう一度、オハギを見た。
丸い尻尾が、ぴくりと動く。
オハギは薄く目を開けると、こちらを一瞥した。
それから、大きなあくびを一つ。
ごろんと仰向けになり、ぽんぽこしたお腹をさらけ出す。
前脚をぐーっと伸ばし、背中を反らせると、そのまま反対側へころりと寝返りを打った。
「……愛くるしい怪異だな」
「だから、怪異かどうか分かんねぇって」
ダリオが呆れたように笑った。
「ま、また後で調べてみるか」
「そうだな。そろそろ教室に行こうか」
俺たちはオハギを残し、校舎へ向かった。
「それでは、ここからは各自で問題を解いてください」
佐藤絢音先生の声を聞きながら、俺はノートを開いた。
ただし、考えていたのは数学の問題ではない。
(……ランク2になったんだよな)
朝、更新された怪人形態を思い出す。
変身できるようになったわけではない。それでも、何か変化があるかもしれない。
俺はシャーペンの芯を長めに出して折った。
短くなった芯に触れ、《補完》を発動する。
芯はあっさり元の長さに戻った。
そのままノートに文字を書き、補完を解除する。
(……文字は消えないな)
芯は短く戻ったが、書いた文字はそのままだ。
(……待てよ)
補完した芯は消えても、それで書いた文字は消えない。
つまり、補完したものが現実に与えた影響は、解除したあとも残るってことか。
(……これ、結構すごいことじゃないか?)
今度は文字に触れ、補完してみる。
しかし、筆圧による紙のくぼみは消えても、黒鉛は残った。
(芯だったものなのに……)
試しに、黒鉛を芯ではなく粉として補完してみる。
すると、黒い文字が崩れ、細かな粉になった。
さらに補完すると、粉は短い芯の形へと整っていく。
(……段階を踏めばいけるのか)
今度は消しゴムの端をちぎった。
補完すると、二つがくっつく。
さらに欠片だけを手に取り、強く意識を集中させた。
すると、欠片から白い部分が伸び、新品同様の消しゴムになった。
(……複製?)
俺は思わず、元の消しゴムと見比べた。
欠片さえあれば、何でも増やせるんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎる。
だが、補完を解除した途端、手の中の消しゴムは小さな欠片に戻った。
(……そう簡単にはいかないか)
俺はノートから一枚、紙を破った。
補完すれば元につながる。
破った紙に黒板の数式を書き写しても、結果は同じだった。
ところが、その紙を飛行機に折ると、ノートにつながらなくなった。
(……なんでだ?)
折り目を補完して平らな紙に戻すと、今度はあっさりつながった。
試しに紙飛行機の翼を少し破ってみる。
すると、こちらは紙飛行機のまま修復できた。
(……形だけの問題じゃないのか)
紙飛行機として補うことも、ノートの一部として補うこともできる。
なのに、文字になった黒鉛は、そのままでは芯に戻らない。
(……俺が何を補おうとしているかで、結果が変わる?)
ノートだった紙。
紙から作った飛行機。
どちらも間違いなく同じものなのに、補完できる形は違っていた。
(だったら、この力は……)
そこまで考えて、手が止まった。
そもそも俺は、何を基準に「元の形」だと判断しているんだ?
「有門くん」
「はい」
顔を上げると、佐藤先生がこちらを見ていた。
「黒板の三番。極大値と極小値を答えてくれる?」
黒板には、三次関数が書かれていた。
――f(x)=x³-3x²+2
俺は式を一瞥した。
「極大値が2、極小値がマイナス2です」
「正解。どうやって求めたの?」
「微分すると、f’(x)=3x(x-2)になるので、x=0とx=2の前後で増減が切り替わります」
「そうね。よくできました」
先生は頷くと、俺の机に視線を落とした。
「でも、有門くん」
「はい」
「数学の時間に紙飛行機を作る必要はあるかしら?」
「……ありません」
教室に小さな笑いが起こった。
俺は慌てて紙飛行機をノートに挟んだ。
先生が黒板に向き直る。
俺も今度こそ問題を解こうとしたが、どうにも気になって仕方がない。
(……もう一つ、試したいな)
筆箱に入っていた短い鉛筆を取り出す。
何度も削って、ずいぶん短くなった鉛筆だ。
(新品の状態に戻せるか?)
削る前の鉛筆を思い浮かべ、《補完》を発動する。
木の軸が伸び、尖った先端が平らになっていく。
やがて、見慣れた新品の鉛筆が現れた。
(……できた)
見た目は問題ない。
ふと思いついて、定規を当ててみる。
十七・二センチ。
(新品の鉛筆って、何センチだっけ?)
記憶を探ってみたが、正確な長さまでは覚えていない。
俺は鉛筆に書かれたメーカーと型番を確認した。
先生が黒板に向かっている隙に、机の下でスマホを取り出す。
検索して、表示された製品仕様に目を通した。
――全長、十七・六センチ。
(……四ミリ、足りない)
俺は定規の目盛りを見直した。
どう見ても、四ミリ短い。
(新品に戻したはずなのに……)
今度は十七・六センチという長さを意識し、もう一度《補完》を発動する。
鉛筆の端が、わずかに伸びた。
定規を当て直す。
(……今度は合ってる)
さっきと同じ鉛筆。
同じ《補完》。
なのに、俺が正しい寸法を知っただけで、結果が変わった。
(……そういうことか?)
この力は、物が元の姿を覚えているわけじゃない。
俺が思い描いた形に補っているのかもしれない。
だとしたら、知識が足りなければ、正確に補完することもできない。
(……待てよ)
そこで、一つの疑問が浮かんだ。
(大時計が直ったのは説明がつかないな……)
あの時計の内部構造なんて知らない。
どこが故障していたのかも、分からなかった。
それどころか、時計を直そうとしたわけですらない。
なのに、時計は動き出した。
(……あのとき、キーウィが何か言ってたな)
俺は片耳のワイヤレスイヤホンをそっと押し込み、机の下でスマホを開いた。
教壇をちらりと確かめ、シャーペンを持つ手で口元を隠す。
「キーウィ。俺が大時計を直したとき、『できるよ』って言ったの、覚えてるか?」
息に混ぜるほどの小声で尋ねた。
『うん! 覚えてるよ』
「あれ、どうしてできると思ったんだ?」
『だって、視えてたから』
「……何が?」
『ルカートの力だよ、ふわーって広がっていたからね』
画面の中で、キーウィが小さな翼を広げてみせる。
「じゃあ、時計が直ることも分かってたのか?」
『ううん。広がった力がどこに行くかは分からなかったよ?』
「……そうなのか」
『でも、できるって分かってたから!』
キーウィは当たり前のように答えた。
俺は定規の横に置いた鉛筆を見つめる。
「でもさ、正しい形も分からないのに、どうして補完できたんだろうな」
『ねえ、ルカート』
「ん?」
『時計って、時間どおりに動いてるのが時計なの? 止まってても時計なの?』
「……そりゃ、止まってても時計だろ」
『じゃあ、どうして動くようにしたの?』
「どうしてって……壊れてたからだよ」
『そっか!』
キーウィは嬉しそうに笑った。
『ルカートは、動いてる時計がよかったんだね』
「……まあ、そうだけど」
『ふふっ』
何がおかしいのか、キーウィは楽しそうだ。
『世界は不完全なまま巡ってるんだよ』
「……不完全?」
『うん!』
キーウィは小さな翼をぱたぱたと動かした。
『ねえ、ルカート。完全って、あるのかな?』
「…………」
俺は答えられなかった。
黒板には、さっきまで解いていた数式が並んでいる。
あちらには正しい答えがある。
けれど、キーウィの問いには、どう答えればいいのか分からなかった。
――04日03時間18分42秒




