回りだす歯車
「メリル、アプリを使ったか?」
メリルはスマートフォンの画面に目を落とした。
目元と唇が、かすかに震えていた。
その震えは次第に肩へと広がり、やがて小刻みに身体を揺らし始めた。
トーラスの様子は、明らかにおかしい。
「ルカくん、アプリって……? ううん、アプリはわかるけど、なんで今?」
ララの疑問ももっともだ。
未知のテクノロジーとはいえ、アプリは所詮アプリ。
昨日の出来事がなければ、俺だってそう考えただろう。
「……うん、アプリを使った! でも、違うの!」
「メリル? ルカート? いったい何の話だ?」
トーラスがメリルのスマートフォンを覗き込む。
「……まさか、《贄と奇跡》か?」
「おい、ホームルームが始まるぞ」
ボンドの平常心には、時としてこうして助けられることがある。
「メリルも、ひとまず教室に戻ろう。昼休みか放課後にまた来てくれ。トーラスもそれでいいか?」
「……ああ、そうしてくれ。いいか、メリル?」
「……うん」
メリルは俯いたまま、小さく頷いた。
やがて担任が教室に入り、朝のホームルームが始まった。
トーラスはいつもの席に戻ったものの、どこか上の空だった。
メリルのことも気になったが、今はどうすることもできない。
そして、一時間目。
「えー、であるからしてー、ベンゼン環はー」
化学教師の間延びした声が教室に響いていた。
黒板には六角形の構造式が描かれている。
さっきまでの騒ぎが嘘だったかのように、いつもどおり授業が進んでいた。
『ルカート』
不意に、ルカートにだけ届くほどの小さな声が聞こえた。
『ルカート』
声の出どころは、ブレザーの内ポケット。
キーウィだ。
俺は胸元の襟を軽くつまみ、口元を近づけた。
「……なんだ?」
『ケビンからメッセージだよ』
「……ケビン?」
『今、九州にいるって!』
「……は?」
思わず声が漏れた。
「有門、どうした?」
「……いえ、何でもありません」
教師が再び黒板に向き直る。
俺はもう一度、襟を口元に寄せた。
「……キーウィ、お前、メッセージも読めるのか?」
『うん! 読めるよ!』
「……いや、今更か」
俺はそっと襟から手を離した。
一時間目が終わり、十分間の休み時間になった。
俺はスマートフォンを取り出し、ケビンにメッセージを送った。
昨日のシャーペンの芯の件と、今朝のメリルとトーラスの件。
どちらも、アプリが現実に干渉したとしか思えない出来事だ。
送信すると、ほどなくして返信が届いた。
『さすが有門だな! こっちでも似たような事件がいくつか起こっててさ』
『思わず九州まで飛び出しちまったけど、お前の近くにいた方が面白いもん見られたかもな!?』
『まあ、こっちも収穫は多い。落ち着いたら情報共有しようぜ!』
九州でも、同じようなことが起きているのか。
あいつは何を見つけたんだろう。
そう考えていると、もう一通届いた。
『有門』
そして、少し間を置いて。
『気をつけろよ』
その直後、ケビンから動画ファイルが送られてきた。
(……動画?)
再生すると、画面いっぱいに桜島が映し出された。
噴火の直後だろうか。
山頂付近からは、わずかに噴煙が立ち上っている。
だが、妙だった。
噴煙の中心に、何かがある。
丸い……いや、楕円形か?
目を凝らして、もう一度動画を再生する。
煙の一部が、不自然な形を保っていた。
まるで、巨大な卵だ。
その輪郭をなぞるように噴煙が渦を巻いている。
(……なんだ、これ?)
動画はそこで途切れた。
もうじき二時間目が始まる。
ケビンも何やら立て込んでいるようだし、次の連絡を待つことにしよう。
スマートフォンをしまい、席へ戻った。
そして、昼休み。
約束どおり、メリルが教室を訪ねてきた。
隣にはニコとララが付き添っている。
朝の明るさはすっかり消え、メリルは俯いたままだった。
「メリル、少し話を聞かせてもらってもいいか?」
「……うん」
「《贄と奇跡》で、何を願ったんだ?」
「……トーラスの好みの顔になりたかったの。もっと可愛いって思ってほしくて……」
「それで、二重になったのか」
メリルは小さく頷いた。
「贄には何を?」
「……『大切な想い』って出たの」
「大切な想い?」
「うん。でも、そんなの……気持ちの問題でしょ? 少しくらい差し出したって、どうってことないと思ったの」
メリルは唇を噛んだ。
「だって、トーラスにもっと好きになってもらえたら、そのぶん幸せになれると思ったから……」
「……なるほど」
「まさか、あんなことになるなんて……。人の気持ちが、本当になくなるなんて思わないじゃない!」
声が震え、メリルは再び俯いた。
「……アプリには、誰の想いを捧げるか書いてあった?」
「ううん。ただ『大切な想い』って。それだけ……」
「そうか。ありがとう、メリル」
それ以上、聞くのはやめた。
彼女が望んだのは、トーラスにもっと可愛く思われること。
代償として失われたのは、そのトーラスからの愛情だった。
願いが叶っても、代償は返ってこない。
そんな交換が、現実に起きてしまったのだ。
俺はニコとララに目を向けた。
「悪い。メリルのこと、頼めるか?」
「うん。任せて、ルカくん」
「メリルちゃん、一緒にいよう?」
今の俺には、トーラスの気持ちを元に戻す方法なんて分からない。
それなら、せめて原因を調べるしかない。
そんなとき、教室の入口から声がした。
「ルカ、ちょっといい?」
振り返ると、リゼが立っていた。
その隣には、昨年同じクラスだった真柴ダリオもいる。
「二人とも、どうした?」
「ちょっと見せたいものがあるんだ」
ダリオがスマートフォンを軽く掲げた。
どうやら、ここでは話しづらいらしい。
俺たちは校舎を出て、運動場に面した建物沿いのスペースへ移動した。
「二人にも、何か異変が?」
「ルカ、これを見ろ」
ダリオが《怪異WALK》を起動する。
画面には、学校周辺の地図が表示された。
「すごいな。周囲の見取り図か……」
「このマークが現在地だ。それで、ここを見てろ」
言われた場所に目を凝らす。
しばらくすると、地図上に小さな丸印が浮かび上がった。
だが、すぐに消えてしまった。
「あれは?」
「どうやら怪異の反応らしい。小さいけどな」
「ルカが話してたみたいな、小規模な異変じゃないかと思って」
リゼが横から口を挟んだ。
そのとき、別の場所に小さな丸が現れた。
「……まただ」
「ああ。どれも反応が小さくて、一瞬で消える。まだ現物は確認できてないんだ」
「……そうか」
俺は画面を見つめた。
「俺が昨日の現象を再現できれば、確認できるわけだな」
「そういうこと。まあ、ダメ元だけどな」
「ルカとも情報を共有したかったしね」
リゼがシャーペンを差し出してきた。
受け取って、芯を少し長めに出す。
飛んで見失わないように、手のひらに芯を押し当てた。
「ダリオ、やるぞ」
「いつでもいいぜ」
ダリオは《怪異WALK》の画面を見つめている。
隣ではリゼが、固唾をのんで俺の手元を見守っていた。
『ルカート、できるよ』
不意に、キーウィの声が聞こえた。
(……補完の怪人)
意識を手元に集中させる。
ポキッ。
シャーペンの芯が折れた。
手のひらに落ちた黒い破片を見つめる。
昨日は、確かにつながった。
ならば、もう一度。
息を吐いて、集中する。
(……戻れ)
だが、何も起こらない。
(……怪人だけじゃない。《補完》の魔人でもあるはずだ)
もう一度、シャーペンの先に意識を集中する。
「……ダメか」
そのときだった。
どこかに、何かが足りない。
そんな奇妙な感覚が、ふと胸をよぎった。
次の瞬間、何かがぴたりと噛み合ったような気がした。
「いや、待て!」
ダリオの声に顔を上げる。
「反応が出た! ……なんだ、これ」
「どうした?」
「大きすぎる。しかも……真上だ」
「えっ? どこ?」
リゼがゆっくりと顔を上げた。
つられて、俺も校舎を見上げる。
運動場に面した校舎の上部。
そこには、入学したときから針が止まったままの大時計があった。
通称、《回らずの大時計》。
「……あれなの?」
リゼが小さく呟く。
「いや、反応はドンピシャであそこだった」
ダリオが画面を見せる。
俺は大時計を見つめた。
長針が、動いていた。
ほんのわずかに。
だが、確かに。
「……嘘だろ」
ついさっきまで、止まっていたはずなのに。
何年も動かなかった時計が、今、何事もなかったかのように時を刻んでいる。
(……俺が、やったのか?)
答えは分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
止まっていた時間が、動き始めた。
カチリ。
カチリ。
――05日06時間23分41秒




