第9章 反逆者になる騎士団長
川へ落ちて最初に学んだのは、異世界の水も普通に冷たいということだった。
二つ目は、泳げない相手と手をつないだまま飛び込んではいけない。
「リリア、力を抜け!」
「抜いています」
「俺の首を締めてる!」
「沈むより安全です」
「二人で沈んでるから!」
流れに押され、何度も水を飲んだ。
岸へ上がれたのは、倒木へ引っかかったからだ。俺は泥の上で咳き込み、リリアは隣に座ったまま、自分の袖から水を絞っている。
助かった実感より先に、DESTINYが震えた。
『破滅まで 71:42:11』
「こっちの都合は本当に考えないな」
セレスティアのプロフィールを開く。
『所在地:レムナ王国南東部・第七騎士団野営地』
『特殊能力:敗北適応』
『詳細:一度敗北した攻撃、魔法、戦術への抵抗力を獲得する』
『運命クエスト:対象者に自らの意思で命令を拒否させてください』
反逆者になる彼女を救え。
そのために命令へ逆らわせろ。
表示だけなら、アプリは彼女を破滅へ押しているように見える。
「誰ですか」
リリアが画面を見る。
「新しい対象。王国騎士団長」
「処刑されますか」
「三日後、部下に」
俺を見つめる目が、少し冷たくなった。
「その人も、忘れさせるのですか」
胸の奥を正確に刺された。
「分からない」
「選ぶのは、あなたです」
「そうだな」
今度は本人へ話す。
そう答えたかった。
約束にして口にすると、また破る気がした。
リリアは濡れた荷物から、納骨堂で写した紙を取り出す。油を塗った革袋に入れていたため、文字は無事だった。
「私は、エルダへ戻ります」
「教会がいる」
「看守長へ、この記録を渡します。古語を読める人も捜します」
「危険だ」
「あなたも騎士団へ行くのでしょう」
「俺は、その」
「危険です」
同じ言葉を返された。
止める資格はなかった。
「一緒には」
「行きません」
即答だった。
「そうだよな」
「騎士団は私を追っています。同行すれば、その人へ近づけません」
合理的な理由。
少しだけ安心した自分が情けない。
リリアは小さな薬瓶を一本差し出した。
「傷薬です」
「もらっていいのか」
「川へ落ちたとき、腕を切っています」
見れば、肘の下に細い傷があった。
「気づかなかった」
「あなたは自分の傷へ鈍い」
「前にも言われた気がする」
「私も、言った気がします」
互いに覚えていることが違う。
それでも同じ会話へたどり着く。
薬瓶を受け取る。
「ありがとう」
「返してください」
「瓶を?」
「次に会ったとき」
リリアは立ち上がり、外套の頭巾をかぶった。
次がある。
その約束だけを残して、北の道へ歩き出す。
「リリア」
呼び止める。
彼女が振り返った。
「気をつけて」
「あなたも」
言いたいことは、ほかにいくらでもあった。
結局、名前さえ呼べたことに満足して、俺は反対の道を選んだ。
◇
第七騎士団は戦争へ行く準備をしていた。
街道を半日進むと、丘の向こうに白い天幕が並んでいる。旗には銀の盾と、翼を広げた鷹。荷車が次々と入り、武器や食料を下ろしていた。
相手は隣国の軍ではない。
南東部の獣人集落、ケルド村。
オラクルが出した反乱危険度は八十六%。まだ反乱は起きていない。
処刑塔と同じだった。
罪を犯す前に、可能性だけで罰する。
俺は街道沿いの酒場で、騎士団が臨時の運搬人を募集していると聞いた。身元確認は名前と出身地だけ。開戦前で人手が足りないらしい。
偽名を考えた。
バルドは腹を壊すのでやめた。
「レン・マカベ。北方出身」
受付の兵士は俺の顔を見た。
「姓が先ではないのか」
「南では」
「北方と言っただろ」
十秒で設定が崩れた。
「国境寄りです」
「どの国境だ」
「寒い方の」
兵士がため息をついた。
「荷車を引けるか」
「たぶん」
「採用だ。名前はレンで登録する」
人手不足に救われた。
渡された茶色い上着へ着替え、補給隊の列に入る。
野営地の中央に、ひときわ大きな天幕があった。前には金色の髪を結んだ女性が立っている。
セレスティア・ヴァン・クロイツ。
画面の写真より背が高い。
銀色の鎧に青い外套。腰の剣は飾りではなく、鞘も柄も使い込まれている。整った顔立ちをしているが、近寄りたいと思わせる種類の美人ではない。
兵士たちは彼女の前を通るたび、背筋を伸ばした。
「医薬品が三箱足りない」
セレスの声が野営地へ通る。
「第四倉庫を調べろ。帳簿の誤りなら担当者を呼べ。盗難なら門を閉じる」
「はっ」
「矢束は雨除けを二重に。三日前の湿気がまだ抜けていない」
報告書を見ずに、すべて把握している。
厳格で、隙がない。
プロフィールを開く。
『マッチング成立』
『敗北適応を1%使用できます』
力が流れ込む感覚はなかった。
一%では、一度殴られたら次は少しだけ上手に殴られる程度かもしれない。
俺が見ていると、セレスが顔を上げた。
視線が合う。
セレスの手が、反射的に剣の柄へ触れた。
敵意ではない。知っている相手を見つけたときの動きに見えた。
だが彼女はすぐに手を離し、眉を寄せる。自分でも理由が分からないらしい。
「そこの補給兵」
まだ補給兵になって十分も経っていない。
「はい」
「荷車の車輪が沈んでいる。左の荷を右へ移せ」
言われて見ると、俺が引いていた荷車は道の左側へ傾いていた。
「分かりました」
荷を持ち上げる。
重い。
一箱目で腰が悲鳴を上げた。
セレスが歩いてくる。
「剣を持った経験は」
「ないです」
「弓は」
「ないです」
「馬」
「乗ったことも」
「なぜ来た」
「日当がよかったので」
本当のことを混ぜると、嘘は少し言いやすい。
セレスは俺の手元を見る。
「箱は底ではなく、角を持て。腰を落とせ」
指示どおりにすると、さっきより楽に持ち上がった。
「ありがとうございます」
「礼は働いて返せ」
彼女は次の荷車へ向かった。
冷たい人間ではない。
必要なこと以外を口にしないだけだ。
それなのに三日後、部下に処刑される。
本人の周囲には、まだ反逆の気配すらなかった。
◇
夜、作戦会議が開かれた。
俺は酒と食事を運ぶ役で、天幕の隅に立っていた。
長机の周りに、セレス、副団長、教会監察官、三人の隊長が座っている。机にはケルド村の地図が広げられていた。
監察官が赤い石を村の中央へ置く。
「明朝、包囲を開始。日没までに全住民を広場へ集めます」
「抵抗した者は」
副団長が尋ねた。
「反乱加担者と見なし、処分を」
「子供もいる」
セレスが言った。
「オラクルは年齢で魂を区別しません」
「私は区別する」
天幕の空気が張りつめた。
監察官は薄く笑う。
「もちろんです。団長には現場判断の権限がある」
地図へ二つ目の石を置く。
「ただし、逃亡者を出せば、周辺村落の危険度も再判定される。多くの命に関わります」
脅しだった。
一人を逃せば、別の村も処分対象にする。
セレスは机の下で手を握っていた。
「反乱の証拠は」
「武器庫が見つかっています」
「農具ではなく?」
「剣と弓、王国軍の盾が二十」
監察官が書類を差し出す。
セレスは目を通した。
「発見者が全員、教会兵だ」
「獣人が王国兵を村へ入れなかったので」
「教会兵は入れた?」
「神の使いを拒めば、危険度が上がります」
会話が円を描いている。
疑えば危険。拒めば危険。判定を受け入れる行動だけが、安全の証明になる。
「虐殺命令には従えない」
セレスが言った。
監察官の笑みが消える。
早い。
クエストが達成されるのかと思い、スマートフォンを見た。
『対象者は命令を拒否していません』
どういう意味だ。
セレスは続ける。
「戦闘能力のない者は拘束する。武器を持つ者も投降を勧告した後に捕らえる。処分は裁判を経て行う」
「それでは反乱を防げない」
「虐殺命令なら、正式な王命を出せ。口頭の監察指示では騎士を動かさない」
拒んだのではない。
命令の形を要求した。
正式な王命が出れば、従うつもりだ。
監察官は書類をまとめた。
「承知しました。明朝までに」
席を立つ。
天幕から出る直前、俺と目が合った。
「補給兵」
「はい」
「杯が空です」
酒を注ぐ。
手元が少し震えた。
監察官は俺の顔を覚えたように、数秒見てから去った。
会議が終わる。
隊長たちも外へ出た。
残ったセレスは、地図を見ている。
俺は空の杯を片づけた。
「お前」
呼ばれる。
「はい」
「会議中、何度も私を見ていたな」
「すみません」
「理由を聞いている」
まっすぐな目だった。
ごまかせない。
「命令が出たら、従うのかと思って」
セレスの表情が硬くなる。
「補給兵が口を挟むことではない」
「村へ行くなら、俺も荷を運びます」
「戦闘員ではない者は後方待機だ」
「でも、何が起きるかは知っておきたい」
「知って、どうする」
「まだ分かりません」
彼女は俺を見つめる。
「名前は」
「レン」
「レン。軍では、分からないという言葉が最も人を殺す」
「分かったふりで出す命令は?」
言ってから、首になると思った。
セレスは怒鳴らなかった。
机の下に置いていた右手を出す。
掌に、爪が食い込んだ跡が四つ残っていた。
「もっと殺す」
短く答えた。
そのとき、外で爆発が起きた。
地面が揺れ、天幕の布が大きくはためく。
「敵襲!」
兵士の叫び。
セレスは剣を抜き、外へ走る。
俺も追った。
野営地の北側で火が上がっている。食料庫だ。獣の耳を持つ人影が、柵を越えて森へ逃げていく。
「獣人の襲撃だ!」
誰かが叫んだ。
セレスは燃える倉庫を見た。
次に、逃げる影を見る。
地面へ落ちた物を拾う。
油を染み込ませた布と、王国軍の点火具。
獣人が持つはずのない物だった。
「追うな!」
セレスが命じる。
「消火を優先。北門を閉鎖し、外へ出た者を調べろ」
「しかし敵が」
「敵だと決めるのは確認してからだ」
兵士たちが動く。
火の向こうで、教会監察官が静かに立っていた。
俺と目が合う。
笑っていた。
スマートフォンが震えた。
『破滅まで 47:59:59』
一日、減った。
火事は反乱の証拠ではない。
セレスが疑ったこと自体が、誰かの予定を早めたのだ。
翌朝、王都から正式な命令書が届いた。
『ケルド村の全住民を反乱加担者と認定する』
『逃亡を防ぐため、すべての退路を封鎖せよ』
『抵抗の有無を問わず、処分を許可する』
セレスは命令書を読み終えた。
右手で羽根ペンを取る。
承認欄へ近づける。
ペン先だけが、止まっていた。




