第8章 救った魔女との再会
三週間後、俺は救った魔女に杖を向けられていた。
「動かないでください」
街道脇の森。日暮れ前。
リリアは旅用の外套をまとい、銀髪を頭巾へ隠している。手にした短い杖の先には、紫色の薬液が浮かんでいた。
目へ入れば一晩は開かなくなる。
それを俺は知っていた。
「動かない」
両手を上げる。
「荷物も金も取らない。偶然、同じ道を歩いてただけだ」
「三つ前の宿場から?」
「偶然が長引いた」
「あなたは嘘が下手です」
それも知っている。
俺はこの三週間、リリアへ近づかなかった。
林で別れた後、彼女は看守長の保護下へ戻った。薬草店の候補地を見に行き、結局どれも借りなかった。エルダで暮らせば、教会とオラクルの監視から逃れられない。
だから旅に出た。
それを知っている時点で、近づかなかったという言葉には無理がある。
「教会が君を追ってる」
リリアの杖がわずかに下がる。
「知っています」
「今朝、北の関所に手配書が届いた。顔は載ってないけど、銀髪の薬師、十九歳、魔力特性は時間。条件が細かすぎる」
「なぜ、あなたが手配書を」
「盗んだ」
「犯罪者ですか」
「今日から」
紙を取り出し、地面へ置く。
リリアは距離を保ったまま拾い上げた。内容へ目を走らせ、折り畳む。
「私に、何を求めていますか」
名前を覚えてほしい。
あの日のことを思い出してほしい。
俺を知らない目で見ないでほしい。
どれも言う権利がなかった。
「何も」
「何も求めずに、三つの宿場を追ってきたのですか」
「それも気持ち悪いな」
「はい」
「君を忘れさせた男がいる」
リリアの目が細くなる。
風が木々を揺らした。
「その男を捜してる」
「見つけて、どうしますか」
「一発殴る」
「あなたより強い人ですか」
「弱い。たぶん、殴り返してこない」
「では、意味がありません」
「そうなんだよな」
自分を殴っても、リリアの記憶は戻らない。
永久継承した時間回帰で、選択前へ戻ることもできなかった。時間を戻せるのは一日一度、死の直前に限られる。
力は手に入った。
使えば使うほど、俺の中まで空になる。
「あなたの名前は」
「真壁レン」
名乗るのは二度目だ。
「レン」
リリアが口の中で確かめる。
胸が痛んだ。
「どこかで、聞きました」
「よくある名前だから」
「この国では珍しい」
「じゃあ、夢とか」
「眠っている間に、呼んだことがあります」
俺は顔を上げた。
「誰に聞いた」
「宿の人です。何度か」
記憶は消えている。
それでも眠りの中に、名前だけが残った。
喜んでいいことではない。消した傷跡を見つけただけだ。
「俺じゃないかもしれない」
「そうですね」
リリアの返事は平らだった。
だが、杖の先の薬液が消えた。
「北の関所は避けます」
「東も危ない。教会の馬車が向かってる」
「では西へ」
「崖崩れで道が塞がってた」
「南」
「追手が来た」
森の奥で枝が折れた。
複数の足音。
リリアは一度だけ俺を見た。
「走れますか」
「三週間で少しは」
「では、走ってください」
彼女が薬瓶を地面へ投げる。
白い煙が広がり、俺たちは街道を外れた。
◇
教会の猟犬は、犬ではなかった。
白い陶器の体に四本の脚をつけた魔導機械だ。顔の代わりに金色の輪があり、そこから細い光を放つ。
「走れば追いつかれる」
俺は息を切らしながら言った。
「知っています」
「先に言ってくれ」
「止まれば、もっと早く追いつかれます」
正しい。
森の斜面を下る。足元には落ち葉、その下は湿った土。俺は二度転びかけた。リリアは足場を選ぶのが速い。
後ろから金属音が近づく。
白い光が木を貫いた。
「あれに、時間の魔法は」
「効きにくいです。魂がありません」
「便利な力を継承したつもりだったんだけどな」
「継承?」
「あとで話す」
話せる範囲だけ。
斜面の下に、古い石造りの礼拝堂が見えた。屋根は半分崩れ、入口に扉はない。
「中へ」
リリアが先に入る。
俺も続いた。
礼拝堂には長椅子が数脚と、倒れた祭壇が残っている。逃げ道はない。
「行き止まりだ」
「はい」
「何か考えが?」
「あなたが入れと言いました」
「息が合ってた時期があった気がするんだけど」
「気のせいです」
猟犬が入口へ現れる。
三体。
金色の輪が俺たちへ向く。
リリアが眠り薬を投げた。紫の霧は陶器の体へ絡むが、動きは鈍らない。
「やはり効きません」
「試す前から知ってた?」
「万一に期待しました」
猟犬が跳んだ。
俺は長椅子を蹴り倒す。
一体がぶつかり、陶器の脚へ亀裂が入った。壊せないわけではない。
二体目の光が飛ぶ。
リリアを引き、祭壇の裏へ伏せた。
石が弾ける。
胸の砂時計へ意識を向ける。
使うか。
死ねば戻れる。一度攻撃を受け、猟犬の動きを覚えれば、次は避けられる。
その代わり、何を失う。
「使わないで」
リリアが言った。
「何を」
「今、死ぬことを考えました」
「顔に出てた?」
「知っている気がしました」
彼女は俺を覚えていない。
それでも、考え方の癖だけは分かる。
「一人で決めないでください」
風車小屋で言われたのと同じ言葉だった。
偶然ではない。
感情の残響は、懐かしさだけではなかった。リリアが俺との間で選んだことまで、形を変えて残っている。
「分かった」
今度は答えた。
俺は祭壇の周りを見る。
石床の一部に、砂が積もっている。
天井は崩れているのに、そこだけ雨に濡れていない。
「地下がある」
砂を払うと、四角い石蓋が現れた。
取っ手へ手をかける。重い。
リリアも隣から持つ。
「三つで」
「はい」
「一、二、三」
石蓋が持ち上がる。
地下へ続く階段。
猟犬の光が祭壇を削った。
俺たちは穴へ飛び込み、蓋を戻した。
◇
地下は納骨堂だった。
壁のくぼみに古い骨壺が並び、中央に石机がある。
石蓋の上で猟犬が動いている。すぐには開けられないらしい。
「別の出口を探す」
リリアが青い光を杖へ灯す。
奥の壁に、金色の輪が刻まれていた。
今の教会が使う印より古い。輪の中央には一本の亀裂が入り、その中へ黒い板を持つ人間が描かれている。
「これ」
俺はスマートフォンを出した。
壁画の板と、形が似ている。
リリアが碑文を読む。
「古い言葉です」
「何て書いてある」
「完全には」
彼女は指で文字を追う。
「神託の外より来た旅人。黒い板に人の縁を映す。定めなき者を結び、災いを一身に集める」
背筋が冷えた。
「いつの記録?」
「オラクル暦、二年」
「今は」
「千二十四年です」
約千年前。
このスマートフォンが、過去にもあった。
壁画の旅人は顔を削られている。誰かが意図的に消したように見えた。
リリアが隣の文字を読む。
「旅人の名は記してはならない。名は魂を呼び戻す」
アプリが震える。
一瞬だけ、見たことのない数字が画面に出た。
『反復記録 0471』
『記録形式:因果時刻を保持』
保存された日時は、今より何百年も前を示していた。壊れた表示が一瞬で消え、確かめる前に通常の画面へ戻る。
「今のは」
『質問を受信しました』
『回答権限がありません』
「再回答じゃないだけ進歩したな」
笑えなかった。
壁画を撮ろうとしても、写真機能はない。
「写せる?」
リリアは荷物から紙と炭を出した。
「必要な部分だけ」
碑文を写し始める。
手元は迷いなく動いた。
「俺を信用してる?」
唐突な質問に、炭が止まる。
「いいえ」
「だよな」
「信用しない理由が見つかりません」
「それは、信用してるんじゃ」
「違います。あなたには、警戒すべき理由が多いです。私を知り、能力を継承したと言い、三週間も追ってきた」
「並べると最低だ」
「でも」
リリアは胸へ手を当てる。
「ここが、逃げなくてよいと言います」
俺は目をそらした。
「それは信用しない方がいい」
「なぜ」
「俺が、その感覚を君に残したから」
消した記憶の跡だ。
「意味が分かりません」
「分からなくていい」
また一人で決めている。
気づいても、口は先へ進まなかった。
石蓋を叩く音が止む。
諦めたのではない。
礼拝堂の外から、人の声がした。
「執行対象を確認。記録に存在しない男性一名」
温度のない声。
「回収手順へ移行します」
次の瞬間、石蓋が真っ二つに割れた。
白い陶器の猟犬が落ちてくる。
その向こうに、人影が立っていた。
白い髪。白い法衣。顔の半分を覆う金属の面。
男か女かも分からない。
リリアが小声で言う。
「教会の執行者」
執行者は俺を見た。
「未登録現象。識別名を要求」
「真壁レン」
金属面の奥で、光が明滅する。
「該当なし」
執行者の手に、白い剣が形作られた。
「処分します」
リリアが俺の前へ立つ。
記憶を消した男を、理由も分からず庇った。
「逃げてください」
「今度は一緒に」
俺は彼女の手を取り、納骨堂の奥へ走った。
壁画の裏に、細い風が流れている。二人で体当たりすると古い石が崩れ、外へ続く穴が開いた。
地上へ這い出る。
そこは森の反対側、崖の中腹だった。
下には川が流れている。
「飛びます」
「高いぞ」
「ほかに道は」
背後で白い剣が壁を切り裂く。
「ないな」
リリアと手をつないだまま、崖を蹴った。
落下の途中、スマートフォンが震える。
新しいプロフィールが開いた。
金髪の女性が、血のついた剣を地面へ突き立てている。
『セレスティア・ヴァン・クロイツ』
『二十四歳』
『王国騎士団長』
『相性率:17%』
『破滅まで 72:00:00』
『運命クエスト:反逆者になる彼女を救ってください』
川面が迫る。
「マッチングの時機、考えろ!」
俺たちはそろって水へ落ちた。




