第7章 あなたは、誰ですか
第7章 あなたは、誰ですか
二つの選択肢を、俺は三度読み直した。
文字は変わらない。
「どうしました」
リリアが画面を覗き込もうとする。
俺は反射的にスマートフォンを伏せた。
「いや。クエストが終わったって」
「そうですか」
それだけ言い、彼女は歩き出した。
選択肢が見えていない。
俺にしか読めないのだ。
保存する。
削除する。
ゲームなら迷う場面ではない。能力を得るなら下。好感度を残すなら上。事前にセーブして両方見る。
だが、ここにはセーブ画面がない。
戻るたび何かを失う砂時計があるだけだ。
俺はスマートフォンをポケットへ入れた。
今すぐ選ぶ必要はない。
そう思った。
◇
その夜、俺たちは街の外れにある風車小屋へ移った。
看守長が用意した仮の隠れ家だった。
グラウスは拘束された。だが神聖管理教会は、彼個人の逸脱だと発表した。リリアへの処刑命令は凍結。無罪ではない。再審査が終わるまで監視対象として扱われる。
オラクルの判定も取り消されていない。
街では、処刑を止めた俺たちを英雄と呼ぶ声と、危険な魔女を野放しにしたと怒る声が半分ずつ流れているらしい。
世界は一日では変わらなかった。
変わったのは、リリアが明日を迎えられることだ。
風車小屋の二階には、乾いた藁と毛布が二枚あった。
リリアは窓際へ座り、拾ってきた紙へ何かを書いている。
「何してる」
「薬草店の候補です」
紙には三つの住所が並んでいた。
「もう探したのか」
「治療所の人に聞きました」
「行動が早いな」
「明日、見ると決めたので」
その「明日」を聞くだけで、少し報われた気がした。
「俺も行っていい?」
「なぜ」
「店選びは客の目線も必要だろ」
「薬の知識は」
「風邪薬は食後に飲む」
「種類によります」
「役に立たない客として参加する」
リリアは紙へ目を落とした。
「構いません」
声はいつもどおり短い。
けれど、候補地の横に小さな丸を二つ描いた。一人で見に行く印ではないのだろう。
風車の羽根が回るたび、柱の奥で木が軋む。
俺は毛布へ座り、スマートフォンを取り出した。
選択画面は消えていない。
『選択保留中』
『一時接続の残り時間 08:14:09』
時間制限まで増えていた。
八時間後は明け方だ。
「リリア」
「はい」
「もし、力を失う代わりに、誰かとの関係を残せるとしたら」
顔を上げずに尋ねる。
「逆。誰かとの関係を失えば、その人の力を得られるとしたら、どっちを選ぶ?」
リリアの鉛筆が止まった。
「誰が選ぶのですか」
「俺」
「誰との関係ですか」
「例えばの話」
「答えられません」
「即答だな」
「関係を失う人へ、先に聞くべきです」
胸の奥が重くなった。
正しい。
選択肢を見せられたのは俺でも、消されるのは相手だ。二人に関わることを、一人で決めていいはずがない。
「聞いたら、嫌だって言われるかもしれない」
「はい」
「そうしたら、必要な力が手に入らない」
「はい」
「困るな」
「困ってください」
リリアがこちらを見る。
「大切なことを一人で決めれば、困らずに済みます。でも、相手は選べません」
静かな言葉だった。
「あなたは、自分が選べなかったことに怒っていたでしょう」
オラクルに人生を決められる世界へ、俺は何度も腹を立てた。
リリアへ生きたいと言わせるときも、俺が欲しい答えを返すなと言った。
その俺が、画面を伏せている。
「そうだな」
スマートフォンを持ち上げる。
見せようとした。
その瞬間、画面が赤く変わった。
『警告』
『外部管理者による対象者の再検索を確認』
『破滅可能性が再上昇しています』
地図に、風車小屋へ近づく白い点がいくつも現れる。
「何だ」
窓の外を見る。
丘の下に松明が並んでいた。
教会兵だ。
グラウスを捕らえても、教会全体がリリアを諦めたわけではない。
「見つかった」
リリアは紙を畳み、立ち上がった。
「裏の林へ」
風車小屋を出る。
月明かりの下、林まで百メートルほど。二人で斜面を駆け下りた。
背後から声が飛ぶ。
「止まれ! オラクルの再判定だ!」
リリアの手をつかむ。
林へ入る直前、白い光が木の幹を焼いた。
「あれも音か」
「違います。魂を縛る印です」
二発目が足元へ落ちる。
リリアが銀の砂を広げ、光を遅らせる。完全には止められない。砂が焼けるたび、彼女の顔色が白くなった。
俺の胸にも砂時計がある。
一時接続100%。
今なら同じことができる。
力を意識する。
世界の動きが鈍くなった。
飛んでくる光の軌道が見える。
リリアの手を引き、右へ跳ぶ。
光を避けた。
同時に、頭の中で何かが裂けた。
白い台所。
湯気の上がる味噌汁。
誰かが背を向けている。
『朝ご飯、冷めるよ』
女の声。
振り向く前に、記憶が白く溶けた。
俺は足を止めた。
「レン?」
誰の声だった。
母親。
たぶん。
そう思うのに、顔も声も、もうどこにもない。
失った。
時間を戻したわけでもない。ただ少し遅らせただけで、大切だったはずの記憶が欠けた。
次の光が来る。
リリアが俺を突き飛ばした。
彼女の肩へ白い印が絡む。
「リリア!」
銀の砂が弾け、印を押し戻す。
彼女は膝をついた。
「先へ」
「一緒に行く」
肩を貸す。
林の中を進む。枝が顔へ当たり、道は暗い。教会兵の足音が左右へ広がっていく。
アプリが振動した。
『一時接続の負荷が上限へ接近』
『関係を保存した場合、接続は段階3まで低下します』
『永久継承した場合、能力使用枠を一つ解放します』
今のままでは、追手を振り切れない。
保存すれば、能力は五%まで落ちる。リリアが傷つけば、守る力がない。
削除すれば、時間回帰を自分の力として使える。
生き残れる。
彼女も守れる。
理由が、きれいにつながった。
「少し休もう」
倒木の陰へリリアを座らせる。
彼女の呼吸は浅い。白い印は消えているが、肩に火傷のような跡が残っていた。
「追手を、別の場所へ誘導します」
「一人で?」
「私なら死んでも戻れます」
「感情を失う」
「あなたが生きるなら」
リリアは、当たり前の計算を口にするように言った。
「惜しいんだろ」
「はい」
「だったら、そんな使い方をするな」
「あなたも、私の力を使いました」
「俺は」
言い訳が続かなかった。
自分の記憶を削り、リリアは自分の感情を削る。
似た者同士だった。
「明日、店を見に行くんだろ」
「はい」
「なら、寝ろ。追手は俺が何とかする」
「どうやって」
「アプリに機能がある」
嘘ではない。
全部を言っていないだけだ。
俺は上着を脱ぎ、彼女へかけた。
「起きたら説明する」
リリアは俺の顔を見つめる。
「約束です」
「ああ」
彼女は目を閉じた。
疲れきっていたのだろう。数分もしないうちに、呼吸がゆっくりになる。
教会兵の足音は遠ざかっている。今すぐ選ばなくてもいい。
朝まで待ち、全部話せばいい。
嫌だと言われたら、保存する。
それが正しい。
画面には、残り七時間五十分と出ていた。
俺はリリアの隣へ座った。
◇
眠れなかった。
夜が薄くなり、林の向こうが青み始める。
何度もスマートフォンを開いた。
保存する。
削除する。
指を近づけては離した。
保存を選べば、リリアは俺を覚えている。今日の店探しへ一緒に行ける。その先も、行動を共にできるかもしれない。
だが一時接続は弱くなる。
俺はこの世界の金も、身分も、帰る場所も持っていない。剣一本まともに振れない。教会に狙われ、ほかに何がいるかも分からない。
時間回帰があれば生きられる。
死んでも戻れる。
今度は、リリアを頼らずに守れる。
守る。
便利な言葉だった。
本人へ聞かずに決めることも、彼女のためだと言えば正しく見える。
リリアが寝返りを打った。
「レン」
目は閉じたまま、俺の名を呼んだ。
胸が痛む。
「起きてる?」
返事はない。
寝言だった。
初対面のはずの俺の名を、前から知っていた彼女。
俺たちの相性は0%。
本来なら同じ世界に存在しない。
なのに接続は異常な速さで深まった。
アプリは何かを隠している。
その真相を探すにも、力がいる。
『選択期限まで 00:04:59』
表示を見て、息が止まった。
七時間以上あったはずだ。
空が明るくなったから、期限が飛んだのか。
『外部管理者が接続切断を実行しています』
『期限終了後、対象者は再処理されます』
再処理。
意味は書かれていない。
教会へ戻されるのか。アプリの対象から外れるのか。処刑の運命へ戻るのか。
聞いている時間がない。
リリアを起こせ。
相談しろ。
頭の中で声がする。
指は動かなかった。
起こして、嫌だと言われたら。
俺は保存を選べるのか。
一緒に死ぬかもしれない道を。
『残り三分』
怖かった。
死ぬことより、選択を拒まれることが。
結局、俺は彼女を信じきれなかった。
だから、自分一人で正しい答えを作った。
「ごめん」
眠るリリアの手を握る。
「君を守るためだ」
自分に言い聞かせる。
「俺が生きるためでもある」
それだけは、認めた。
親指が画面へ触れる。
『彼女の記憶を削除し、能力を永久継承する』
『実行しますか』
確認画面にも、相談するという選択肢はなかった。
実行を押す。
金色の糸が張りつめた。
リリアの手首から、俺の手首へ光が流れ込む。
彼女と出会ってからの記憶が、一つずつ浮かんだ。
画面越しの牢獄。
相性0%。
三度の死。
検査所の紫の煙。
処刑台。
生きたい、と言った声。
すべてを糸が通り抜けていく。
俺の中へ残し、彼女の中から抜き取っていく。
「レン」
リリアが目を開けた。
薄紫の瞳が俺を見る。
まだ、俺を知っている目だった。
「何を、して」
俺の名を呼んだ声が途切れる。
糸が一本、切れた。
リリアの表情から、痛みが消える。
「待って」
彼女が俺の服をつかむ。
「何か、忘れます」
「ごめん」
「嫌です」
初めて聞く、はっきりした拒絶だった。
俺が先に聞くべきだった答え。
「忘れたく、ない」
糸がまた切れる。
検査所が消える。
処刑台が消える。
牢獄の夜が消える。
彼女の指から力が抜けていく。
「レン」
最後にもう一度、名前を呼ばれた。
そして、すべての糸が切れた。
林が静かになる。
リリアは俺の手を握ったまま、しばらく動かなかった。
やがて指を離す。
俺の上着を見て、自分の肩の傷を見て、周囲を見回した。
警戒するように身を引く。
「ここは」
声が震えている。
「街の外の林だ」
「あなたが、連れてきたのですか」
「一緒に逃げた」
「誰から」
「教会」
リリアは立ち上がった。
魔力が指先へ集まる。
俺へ向けられた。
当然だ。
目を覚ましたら、知らない男が手を握っている。服までかけられている。警戒しない方がおかしい。
「近づかないでください」
「分かった」
俺は両手を上げ、距離を取った。
足元に紙が落ちている。
薬草店の候補地。
三つの住所の横に、丸が二つずつ描かれていた。
リリアが紙を拾う。
「これは、私の字」
「今日、見に行く予定だった」
「誰と」
答えられなかった。
周囲の記録にも補正がかかる。
紙の丸が、一つずつ薄くなる。
二人分だった印が、一人分へ書き換わった。
スマートフォンが震える。
『記憶削除が完了しました』
『因果記録を補正しました』
『能力「時間回帰」を永久継承しました』
『永久能力枠 1/1』
胸の奥に、大きな砂時計が現れる。
自分の意思で使える。
これで生き残れる。
欲しかった力を手に入れた。
なのに、喜びはどこにもなかった。
リリアが俺を見ている。
知らない男を見る目で。
それでも完全には離れず、何かを探すように俺の顔を見つめている。
彼女の目から、一滴だけ涙が落ちた。
理由が分からず、指で触れる。
「なぜ」
俺には分かっていた。
分かっていて、教えることはできなかった。
「あなたは」
リリアは静かに尋ねた。
「誰ですか?」




