第10章 負けるほど強くなる女
セレスは署名しなかった。
拒否もしなかった。
命令書を畳み、夜明けまで回答を保留すると告げた。
猶予は三時間。
そのうち一時間を、彼女は訓練に使った。
「なぜ俺が」
野営地の練兵場で、俺は木剣を握っていた。
「昨夜、偽装襲撃に気づいた者を確認している」
セレスは向かいに立つ。
鎧は着ていない。白い訓練着に革の胸当てだけ。それでも俺より強そうに見えるのは、木剣を持つ姿に迷いがないからだ。
「気づいたのは団長でしょう」
「お前は、私より先に点火具を見ていた」
「たまたまです」
「会議で教会監察官を見ていた。火事の後、監察官の顔を確認した。偶然が二度続くとき、軍では調べる」
「補給兵を?」
「特に、経歴が一行しかない補給兵を」
受付が雑で助かったと思っていた。雑でも記録は残るらしい。
「剣を上げろ」
「経験ないって言いましたよね」
「知っている。構えを見れば、嘘でないと分かる」
「もう確認できたなら終わりで」
「攻撃しろ」
周りには兵士が集まり始めている。
騎士団長と新入りの補給兵。見世物としては悪くない。
「怪我しても知りませんよ」
「誰が」
「俺が」
セレスは木剣を下げたまま動かない。
俺は腹を決め、踏み込んだ。
肩を狙う。
木剣が届く前に、手首へ衝撃が走った。
自分の剣が地面へ落ちる。
「終わりだ」
「早い」
「右肩が先に動いた」
木剣を拾う。
「もう一度」
次は肩を動かさず、腰から振る。
セレスの剣が同じ場所へ来た。
分かっていても避けられない。
手首を打たれる。
「また右肩だ」
「動かしてない」
「動かさないよう意識した。それで腰が遅れた」
三度目。
今度は振るふりをして、足を狙う。
セレスが半歩下がった。
木剣の先が、革靴へ触れる。
周囲から小さなどよめきが起きた。
「今のは一本?」
「触れただけだ」
「初心者には加点を」
「戦場に初心者加点はない」
セレスの木剣が俺の脇腹へ入った。
息が止まり、膝をつく。
「これで一本だ」
痛い。
だが胸の奥に、奇妙な感覚が生まれた。
次に同じ角度から来れば、体をどうひねればいいか分かる。
『敗北適応 1%』
『打撃軌道への微弱適応を確認』
借りた力だ。
俺は立ち上がった。
「もう一度」
セレスが片眉を上げる。
「懲りないな」
「今度はいける気がする」
四度目。
同じ木剣が脇腹へ向かう。
俺は体をひねった。
避けた。
そう思った直後、反対側の肩を打たれた。
地面へ転がる。
「なぜ同じ攻撃が来ると思った」
「さっき来たから」
「私も、お前が避けると知った」
セレスは木剣を肩へ担ぐ。
「適応は、お前だけのものではない」
彼女は気づいている。
俺が能力の一部を使ったことに。
「敗北適応」
小声で言う。
セレスの目が鋭くなった。
「どこで、その名を聞いた」
「プロフィール」
「何だ、それは」
「説明すると長い」
「なら、短く話せ」
逃げられない。
俺はスマートフォンを取り出した。
画面を見せる。
セレスは数秒、黙っていた。
「これは私か」
「そう」
「相性十七%」
「そこは気にしなくていい」
「なぜ私の能力を使える」
「マッチングしたから」
「意味が分からん」
「俺も最初はそうだった」
「今は分かるのか」
「少しだけ」
セレスがスマートフォンへ触れようとする。画面は反応しない。
「私が、明日までに部下へ処刑されると?」
「表示では」
「そして、お前は私を救う」
「そのつもり」
「見返りは」
答えるべき時が来た。
リリアへ言わなかったことを、今度は先に話す。
「君の運命を変えれば、能力を一時的に全部使える。その後、二つの選択肢が出る」
「二つ」
「関係を残すか。君から俺の記憶を消して、力を永久にもらうか」
セレスの顔から、わずかな興味が消えた。
「先の相手には、どちらを選んだ」
「消した」
「同意は」
「取らなかった」
周囲の兵士は離れている。会話までは聞こえない。
それでも、声にするのは苦しかった。
「最低だな」
「そう思う」
「反論しないのか」
「できない」
セレスは木剣を地面へ投げた。
「拘束する」
「待ってくれ」
「他人の能力を奪い、記憶を消す者を野放しにはできない」
「先に話せと言われたから話したんだ」
「免罪にはならん」
正しい。
彼女は腰の呼子笛へ手を伸ばす。
その前に、練兵場の土が盛り上がった。
白い鎖が地面から飛び出す。
セレスの両腕へ巻きついた。
同時に、野営地の四方で白い柱が立つ。
「教会術式!」
兵士が叫ぶ。
天幕の陰から、白い法衣の執行兵が現れた。顔を布で覆い、手には短い杖を持っている。
騎士団を守るためにいるはずの教会兵が、騎士団長を狙っている。
「命令書への署名を拒んだため、危険度が更新されました」
監察官の声がした。
練兵場の入口に立っている。
「セレスティア・ヴァン・クロイツ。反逆準備の疑いで、一時拘束します」
「私は保留した」
「オラクルは、拒否へ至る可能性を判定した」
「まだしていないことを罪にするのか」
「あなたが何度も執行してきた法です」
セレスが黙る。
これまで彼女は、同じ判定で多くの人間を捕らえた。
自分だけ例外にはできない。
白い鎖が締まり、膝をつく。
俺は近くの木剣を拾った。
「動くな」
セレスが命じる。
「でも」
「団長命令だ。補給兵は下がれ」
命令だから従う。
彼女は、自分にも他人にも同じことを求めている。
監察官が杖を上げた。
「拘束抵抗を確認」
セレスは抵抗していない。
それでも執行兵の杖に光が集まる。
捕らえるつもりではない。
事故に見せて殺す。
「下がれ、レン!」
白い光が放たれた。
俺は動いた。
死んで戻るのを待つ余裕はない。
セレスと光の間へ木剣を差し込む。
木が一瞬で炭になる。
光が胸へ入った。
後ろへ吹き飛ぶ。
地面へ落ちても、息ができなかった。胸元から焼けた臭いがする。
死ぬほどではない。
たぶん。
セレスが白い鎖を引きちぎった。
同じ攻撃を一度受けていた。
子供の頃、教会の訓練場で。
その記憶が、運命接続を通して俺へ流れ込む。
十歳のセレスが鎖につながれている。
『国を守る騎士は、あらゆる拘束へ耐えねばならない』
教官が白い光を撃つ。
倒れる。
治される。
もう一度、撃たれる。
十二歳。十四歳。十六歳。
毒。炎。幻覚。刃。
敗北するたび強くなるからと、何度も敗北させられた。
本人の意思を一度も聞かずに。
記憶が途切れる。
現在のセレスは、白い光を腕で受け止めていた。
皮膚は焼ける。
完全には防げない。
それでも倒れず、一歩ずつ監察官へ近づく。
「私の兵を使って、反乱を偽装したな」
「証拠は」
「点火具の製造番号。第四倉庫から持ち出された物だ。倉庫を開けられるのは、私と副団長、教会監察官だけ」
監察官が後ろへ下がる。
「オラクルがあなたを反逆者と判定した。証拠など必要ない」
「なら、なぜ証拠を作った」
セレスが白い鎖を投げる。
監察官の足へ絡み、倒した。
執行兵が一斉に杖を向ける。
騎士団の兵士たちが、その前へ立った。
剣は抜いていない。
だが道を空けない。
「団長への正式な拘束命令を示せ」
副団長が言った。
監察官は地面から叫ぶ。
「王命は届いている!」
「村への攻撃命令だ。団長拘束の命令ではない」
セレスが部下たちを見る。
彼らは彼女を守った。
それでもアプリの表示は変わらない。
『破滅まで 22:14:08』
このままでは、明日までに同じ部下がセレスを処刑する。
監察官を拘束し、執行兵の武装を解除した。
天幕へ戻る途中、セレスが俺の前で立ち止まる。
「立てるか」
「無理かも」
「なら運ぶ」
彼女は俺の腕を肩へ回した。
「拘束するんじゃ」
「治療の後だ」
「忘れてなかったか」
「私は、受けたものを忘れない」
その言葉どおり、彼女の腕には古い傷がいくつも残っていた。
強くなった証ではない。
強くなるために、傷つけられ続けた記録だった。
◇
治療天幕で胸へ薬を塗られている間に、王都から二通目の命令が届いた。
最初の虐殺命令へ、国王の印が加えられていた。
正式な王命。
セレスが求めた形だ。
『命令拒否は反逆と見なし、現地騎士の手で処刑せよ』
部下に処刑される未来が、文章になっていた。
セレスは命令書を最後まで読み、俺へ渡した。
「これで、従う理由がそろった」
声は震えていない。
ただ、紙を離した指だけが白くなっていた。




