第5章 相性0%の共犯者
惜しい。
好きでも、必要でもない。ずいぶん控えめな言葉だった。
それでも、リリアが数百回の死を越えて残した感情だ。
「だったら、次は戻らない」
「約束はできません」
「できなくてもするんだよ。そういうのは」
リリアは少し考えた。
「非合理的です」
「知ってる。相性0%らしいからな」
階段からヨルンが現れる。
「水をやるだけで、なぜこんなにかかる」
四度目の質問だった。
俺は樽を抱えたまま頭を下げる。
「魔女が、何か吐きました」
ヨルンの目つきが変わった。
「何を」
「井戸の件です」
リリアから目を離さずに答える。
「詳しく聞くなら、看守長を呼んだ方がいいかと」
ヨルンは階段の途中で止まった。
迷っている。
看守長へ報告すれば手柄になる。嘘なら叱責を受ける。数字しか見ない男だとリリアは言った。損得の計算にも時間をかけるらしい。
「何を吐いた」
「私からは」
それ以上は言わず、俺はリリアを見た。
彼女は鉄格子の前へ座っている。さっきまでの会話を聞いていたはずなのに、意図が通じた様子はない。
当然だ。打ち合わせをしていない。
ヨルンも牢へ目を向けた。
「話せ、魔女」
リリアは俺を見た。
ほんの一秒。
「水を」
かすれた声で言う。
ヨルンが眉をひそめた。
「先に話せ」
「喉が乾きました」
「水は魔封じを強めるだけだ」
「知っています」
リリアは受け渡し口から手を出した。
「バルド。ください」
俺を偽名で呼ぶ。
それで分かった。
彼女はこちらの意図を理解している。
杯へ水を汲むふりをして、俺は樽を傾けた。もちろん中は空だ。
「あ」
わざとらしく声を出す。
ヨルンが樽の中を覗き込んだ。
リリアの指先から銀の砂が飛ぶ。
砂はヨルンの目の前で弾けた。
「ぐっ」
彼が顔を覆う。
腰の鍵束を奪い、三本目の鍵で牢を開けた。銀の鍵で首輪と枷を外す。
「今のは」
「一秒だけ、目の時間を遅らせました」
「そんな使い方もできるのか」
「今、考えました」
ヨルンの剣が抜かれる。
俺は扉を思いきり押した。鉄格子が彼の肩へぶつかる。倒すほどの力はないが、階段との間へ挟めた。
「走れ」
リリアと地下牢を出る。
机の前を通り過ぎるとき、彼女が一枚の紙を取った。
「何してる」
「処刑手順です。使えます」
この状況でも目についた情報を拾う。
俺よりよほど頼もしい。
物置へ入らず、上階への階段を上る。
「下水じゃないのか」
「逃げるのをやめるのでしょう」
「言ったけど、堂々と正面から行く意味ではない」
「今さらです」
背後で呼子笛が鳴った。
階段の先は厨房だった。大鍋の前に、太った男が立っている。床には、同じものを食べて腹を壊したらしい配膳係がうずくまっていた。
顔は知らない。
だが、名前なら分かる。
「バルド」
俺が呼ぶと、うずくまった男が顔を上げた。
「誰だ、お前」
「偽物のバルド」
正直に答え、横を走り抜ける。
厨房の扉から中庭へ出た。
雨は弱まっている。空の東側が薄く白み始めていた。処刑まで十一時間弱。
「行き先は」
俺は尋ねた。
「教会の検査所」
「そこへ侵入する方法は」
「正面から」
「俺の言葉を仕返しに使ってない?」
「少し」
初めて、リリアの口元が動いた。
笑ったのかもしれない。雨の筋が顔を横切り、すぐに分からなくなった。
◇
処刑塔を囲む外壁には三つの門があった。
正門と、荷物用の東門、それから教会施設へ続く西門。
すでに警報が広がり、正門には兵士が集まっている。鐘楼の看守長が動けば、細い道へ逃げても追いつかれる。
俺たちは中庭の薪置き場へ身を隠した。
「検査所は西門の先です」
リリアが濡れた銀髪を絞る。
「何を調べる」
「魔力汚染の検査紙」
「君が何度も探したんじゃないのか」
「探しました。すべて、私の魔力と一致していました」
「なら、犯人は君だ」
「はい」
返事が早い。
「そこで終わるな。やってないんだろ」
「記憶にはありません」
「死戻りで感情が消えるなら、記憶も信用できない?」
「記憶は残ります。少なくとも、そう思っています」
絶対とは言わなかった。
自分の内側さえ、彼女には確かな証拠にならない。
「検査紙をどうやって調べた」
「司祭を眠らせ、保管庫へ入りました」
「どの周回で」
「百回より前です」
「そのときと今で、同じ場所に同じ紙がある保証は?」
リリアが顔を上げた。
「ありません」
「周回したら、全部同じになるんじゃないのか」
「私が行動を変えれば、人の行動も変わります」
「だったら、君が諦めた後の検査所は、まだ誰にも荒らされてない」
リリアが目を細める。
「私が知っていることを、知らないふりはできません」
「する必要はない。前は見なかったものを見る」
「例えば」
「紙じゃなく、紙を置いた棚。運んだ人。捨てたもの」
俺は会社で、不正を暴いた経験などない。
ただ、書類の間違いなら何度も探した。数字が合わないとき、間違った数字そのものを睨んでも答えは出ない。作成日、更新履歴、ファイル名。周りの小さなずれから、誰が何をしたか見えてくる。
役に立たないと思っていた七年間が、異世界の薪置き場でようやく顔を出した。
「西門を通る方法は」
リリアは、地下牢から持ってきた紙を開いた。
「処刑手順では、鐘が六度鳴った後、罪人を教会へ移します。魂の洗浄をするためです」
「朝まで待てない」
「今、鐘を鳴らせば」
「看守が移送に来る」
「私たちは、すでにここにいる」
彼女が薪置き場の奥を見る。
鐘を鳴らすための綱が、壁に沿って上へ延びていた。処刑塔の鐘だ。
「偽の移送で、西門を開けさせる?」
「はい」
「見張りが罪人を連れていないことに気づく」
「移送用の檻があります」
中庭の隅に、布をかぶせた荷車がある。
「中身は」
「昨日まで、別の囚人がいました」
「今は?」
「処刑されました」
何も言えなくなった。
リリアは死を平らな声で告げる。知らない囚人の死を悼む感情は、もう残っていないのかもしれない。
それでも彼女は、その事実を覚えている。
「俺が檻に入る」
「私が」
「罪人が逃げたって分かってる。銀髪を見せたら終わりだ。俺なら布をかぶせていれば、誰か分からない」
「危険です」
「惜しい?」
問いかけると、リリアは答えなかった。
代わりに、俺が結んだ外套の紐をほどき、自分の肩へかける。銀髪を隠し、胸の印を見えるようにした。
「私が運びます」
「教会の配膳係に見える?」
「遠目なら」
「近くで話しかけられたら」
「黙らせます」
静かな声で言うと、冗談に聞こえない。
「なるべく平和に頼む」
俺は移送檻へ入った。
中には鉄と古い血の臭いが残っている。
扉が閉まる。
リリアが鐘の綱を引いた。
一度。
二度。
六度目の音が止む前に、塔内が慌ただしくなった。
◇
「予定より早いぞ」
西門の見張りが言った。
俺は布の下で息を殺していた。
移送檻は狭い。格子の隙間から、リリアの足元だけが見える。俺の靴を履かせたから、素足ではない。代わりに俺は片足ずつ泥と血の乾いた床へつけている。
「司祭の指示です」
リリアの声。
普段より少し低い。
「どの司祭だ」
「グラウス司祭」
「聞いていない」
「聞かされていないのでしょう」
嫌な言い方をするのがうまい。
見張りが黙る。
「罪人を確認する」
足音が近づいた。
布へ手が伸びる。
めくられれば終わる。
リリアが咳をした。
たった一度。
見張りの手が止まる。
「お前、顔を見せろ」
「私は」
「外套を取れ」
沈黙。
次の瞬間、移送檻が勢いよく動いた。
リリアが荷車ごと門へ突っ込んだ。
「おい!」
格子越しに見張りの足が跳ね上がる。檻が石畳の段差を越え、俺は壁へ頭をぶつけた。
「平和にって言っただろ!」
「黙らせました」
「意味が違う!」
門の向こうへ出る。
外套を脱いだリリアが、荷車の後ろを押して走っている。見張りが起き上がる前に、俺は檻の内側から鍵を開けた。
二人で教会施設へ駆け込む。
白い石造りの廊下。壁には金色の輪がいくつも刻まれている。人の気配は少ない。鐘が予定より早く鳴ったせいで、職員が処刑塔側へ向かったらしい。
「検査所は」
「二階」
階段を上がり、三つ目の扉へ。
鍵がかかっている。
地下牢の鍵束には合うものがない。
「壊せるか」
リリアが錠へ触れる。
銀の砂が鍵穴へ入っていく。金属が甲高い音を立て、錠の動きが逆戻りした。
かちり、と開く。
「便利だな」
「鍵が閉まった直後の状態を戻しただけです」
「それでも便利だ」
「感情と引き換えです」
軽く言った自分を恥じた。
「ごめん」
「謝らないでください。あなたが軽く扱ったとは思っていません」
「感情を読めるのか」
「顔に出ています」
検査所へ入る。
左右の棚に、細長い紙が束で置かれている。中央の机にはガラス器具と、干からびた植物。壁にはエルダ市内の地図があり、三つの井戸へ赤い印がついていた。
リリアは迷わず奥の棚へ進む。
「ここです」
箱を取り出す。
中には紫色へ変色した検査紙が数十枚。端に日付と場所が書かれている。
「この色が、私の魔力です」
「検査の前は?」
「白です」
「汚染された井戸へ浸すと色が変わる」
「はい」
「持ち帰ってから、保管する」
「そうです」
紙を一枚持ち上げ、光へ透かす。
紫色は均一ではない。中央が濃く、端へ薄くなる。水へ浸したなら、先端から色が広がるはずだ。
「これ、井戸に入れてない」
リリアが俺を見る。
「なぜ」
「真ん中から染まってる。上から何かを落としたんだ」
机のガラス器具を見る。
細い管。皿。液体を一滴ずつ落とすための器具。
検査紙は証拠ではない。
リリアの魔力を、あとから紙へつけた。
「でも、私の魔力をどうやって」
「保存してたやつがいる」
棚のラベルを読む。
罪人検体。治療検体。適性判定。
リリアの名はない。
代わりに、隣の棚へ古い記号が刻まれていた。
砂時計。
スマートフォンに表示された能力の印と同じだ。
扉を開く。
中は空だった。
底に紫色の粉がわずかに残っている。
リリアが指を近づける。
「私の魔力です」
「いつ採られた」
「分かりません」
「捕まった後じゃない。棚が古すぎる」
木の表面は擦れ、取っ手の周りだけ色が薄い。長い間、何度も開閉された跡だ。
床には新しい傷があった。
空の棚から、何か重い物を引き出した跡。
傷は部屋の隅へ続いている。
そこには大きな廃棄籠があった。汚れた布や割れた瓶、書き損じの紙が詰め込まれている。
上から一枚ずつどける。
「何を探しているのですか」
「分からない。だから、捨てたものを見る」
籠の底近くに、焼け焦げた紙束があった。
ほとんど灰になっている。
一枚だけ、中央が残っていた。
リリアが拾い上げる。
『予備検査 陰性』
『採取地 北区第二井戸』
その下に担当者の署名。
エドナ・エルデ。
リリアの指が止まった。
「知ってる名前か」
「私の師です」
「同じ名字」
「孤児だった私に、名前をくれました」
紙の端に、別の文が残っている。
『オラクル判定との不一致を確認。再検査を申請する』
申請印はない。
代わりに、赤い字で大きく書かれている。
『死亡により却下』
「師匠は、いつ亡くなった」
「半年前です。実験中の事故だと」
リリアは紙を見つめたまま動かない。
怒っているのか、悲しんでいるのか分からない。
本人にも分からないのかもしれない。
ただ、紙を持つ指が震えていた。
「違います」
リリアが言う。
「何が」
「何も感じないはずなのに」
彼女は胸元を押さえた。
「ここが、痛い」
死戻りで失った感情が戻ったわけではない。
残っていたものが、ようやく行き先を見つけたのだ。
「それ、怒ってるんじゃないか」
「怒る」
「君の師匠は真実を見つけた。だから殺されて、証拠を燃やされた。君の魔力を使って検査紙を作り、罪をかぶせた」
リリアの呼吸が少しずつ速くなる。
「怒っていい」
「怒れば、何が変わりますか」
「少なくとも、諦めた顔で処刑台に立たなくて済む」
彼女は目を閉じた。
握った紙の端が潰れる。
「殺したい」
静かな声だった。
「師を殺した人を。私を何度も殺した人を」
「分かる」
「止めないのですか」
「止める」
リリアが目を開ける。
「どちらですか」
「怒るのは止めない。殺すのは止める」
「なぜ」
「殺したら、そいつが真実を話せなくなる。それに」
俺は焼けた検査紙を指した。
「君が殺人犯になったら、でっち上げたやつの判定が正しかったことにされる」
リリアは長く息を吐いた。
「面倒です」
「生きるのはだいたい面倒だ」
「あなたは、上手に生きていますか」
「そこを突かれると弱い」
リリアの口元が、今度こそわずかに上がった。
廊下から足音が聞こえた。
一人ではない。
警報を聞いて戻ってきたのだ。
「証拠を持って出る」
俺は検査紙と紫の粉を布へ包む。
リリアが机から小瓶を三本取った。
「それは?」
「眠り薬。発煙薬。匂いを消す薬」
「魔女らしくなってきたな」
「職業ですから」
扉の外で鍵が回る。
俺たちは窓へ走った。
二階。下は教会の裏庭。飛べば足を折るかもしれない。
「選択肢は」
「扉から戦う。窓から落ちる」
「どっちも嫌だ」
「三つ目を」
リリアが俺を見る。
自分で作れと言っている。
部屋を見回す。
棚。薬品。市内地図。天井から下がる照明。壁の細い管は、青い光を各部屋へ送っている。
「発煙薬を、その管に入れられる?」
「できます」
「教会全部へ煙を流す」
リリアが小瓶を開けた。
「共犯ですね」
「人聞きが悪い」
「教会へ侵入し、証拠を盗み、今から薬を撒きます」
「完全に共犯だな」
扉が開く。
白衣の男たちが入ってくる。
リリアは発煙薬を管へ流した。
青い光が紫へ変わる。
男たちが杖を構えた瞬間、壁中の照明から濃い煙が噴き出した。
咳と悲鳴が上がる。
俺たちは扉へ突っ込み、人影の間を抜けた。
廊下も煙で満ちている。鐘楼の看守長が音を使おうとしても、咳と警報と割れるガラスが重なり、狙いを定められない。
外へ出る。
夜明け前の雨が、煙のついた顔を洗った。
リリアの手をつかむ。
今度は、彼女も握り返した。
スマートフォンが震える。
『対象者の秘密を確認しました』
『接続段階4へ移行します』
『信頼判定が規定値を超過しました』
『接続段階5へ移行します』
『死戻りの砂時計を50%使用できます』
表示が一瞬乱れる。
『相性率:0%』
『警告。接続速度が想定値を超過しています』
赤い糸が、俺とリリアの手首を結んでいた。
彼女には見えていないらしい。
「どうしました」
「いや」
画面を伏せる。
「相性が悪いわりに、息が合うと思って」
「そうでしょうか」
リリアは前を向いたまま言う。
「私は、あなたが次に何を言うか、分かることがあります」
「それ、初対面の相手には一番怖いやつだからな」
「知っています」
「だから、なんで知ってるんだよ」
答えの代わりに、リリアは俺の手を引いた。
追手の声が近づいている。
処刑まで、あと十時間。
俺たちは真犯人の名前さえ、まだ知らなかった。




