第3章 処刑まで、あと十二時間
落下は、痛みより先に臭いで終わった。
腐った卵と泥と、何かの脂を一つの鍋で煮たような臭いだ。
「うっ」
顔を上げた瞬間、額を石にぶつけた。
暗い。狭い。冷たい水が頬を流れている。
俺は四つん這いのまま咳き込んだ。手のひらが、ぬるりと滑る。何に触れたのか確かめる勇気はなかった。
頭上から、低い水音が響いている。
どうやら俺は、石造りの水路に落ちたらしい。天井は立てば頭がつくほど低く、両側の壁には黒い苔が生えている。中央を濁った水が流れ、錆びた格子の向こうへ消えていた。
「最初の一歩が下水かよ」
異世界転移というものに華やかな印象を抱いていたわけではない。
それでも草原とか、森とか、せめて乾いた地面は選べなかったのか。
ポケットを探る。
財布。部屋の鍵。コンビニのレシート。スマートフォン。
身につけていた物は残っている。履歴書もノートパソコンもない。向こうで吸い込まれたように見えたが、俺より転移審査が厳しかったらしい。
スマートフォンの画面には、地図が表示されていた。
黒い背景に白い線が一本。現在地を示す青い点と、そこから遠くない場所に赤い点がある。
『接続対象まで 百八十七メートル』
『破滅まで 11:58:41』
「増えてる」
さっきまで十分を切っていたはずだ。
履歴を開くと、時刻更新の理由が一行だけ出た。
『緊急処刑は中止されました。公開処刑は予定どおり執行されます』
喜ぶべきなのだろう。少なくともリリアは、まだ生きている。
だが「予定どおり」の四文字に、首筋を撫でられたような寒気がした。
十一時間五十八分。
時間が戻ったわけではない。処刑の予定が二つあっただけだ。
『運命クエストが開始されました』
『リリア・エルデの運命を変えてください』
『達成条件は非公開です』
「せめて方法を出せ」
『質問を受信しました』
画面の中央に小さな円が回る。
『対象者の運命を変えてください』
「質問を言い直しただけだな」
『再回答を完了しました』
役に立たない上に、腹まで立つ。
アプリを閉じ、ライトをつけた。
電波表示はない。バッテリーの数字も消えている。代わりに赤い糸を丸めたような記号が光っていた。
時刻は午前二時三十七分。
日本の時刻が残っているのか、こちらも偶然同じなのかは分からない。
水路の先に鉄梯子があった。上には丸い蓋がある。押してみると、少しだけ動いた。
隙間から雨が落ちてくる。
耳をつけた。
車の音はしない。代わりに、石を打つ車輪の響きと、獣の鼻息が聞こえた。
俺は慎重に蓋を持ち上げた。
夜の街があった。
両側に石と木の建物が並び、細い道を雨が洗っている。軒先には青い光を閉じ込めたガラス球。濡れた石畳の上を、二頭の角つきの獣が荷車を引いて通り過ぎた。
御者は厚い外套をかぶっていた。その腰に、鞘へ収まった剣がある。
撮影セットではない。
そう認めた途端、足元が頼りなくなった。
ここには土の臭いがある。雨の冷たさがある。遠ざかる車輪の音が、建物の壁に何度も反射する。
何より、誰も俺を見ていない。
俺を騙すための舞台なら、主役が下水から顔を出した瞬間くらい誰かが注目するはずだ。
俺は異世界へ来た。
「まじか」
口から出たのは、それだけだった。
感動はない。選ばれた喜びもない。腹の底からこみ上げたのは、玄関の鍵をかけたか思い出せないときに似た不安だった。
帰れるのか。
スマートフォンを見る。
帰還ボタンは見当たらない。
ホーム画面に戻ると、DESTINY以外のアプリはすべて消えていた。電話も、写真も、求人サイトもない。黒いアイコンだけが、こちらの世界に合わせて初めからそうだったように収まっている。
俺の世界へつながる物は、形だけになっていた。
蓋を戻し、水路へ降りる。
今はリリアだ。
俺が助けると送ったせいで来たのなら、少なくとも約束を放り出して帰り道だけ探すわけにはいかない。
青い点を頼りに、水路を進む。
赤い点は処刑塔の地下にあるらしい。道は途中で三つに分かれ、地図の白線は右を示している。便利なナビゲーションに見えたが、その先は鉄格子で塞がれていた。
『接続対象まで 九十三メートル』
「直線距離かよ」
格子は壁へ埋め込まれ、人一人が通れる隙間はない。
蹴ってみる。足が痛かった。
異世界へ来ても、俺の肉体は二十九歳の無職のままだ。隠された力が目覚める気配もない。
画面を横へ払うと、リリアのプロフィールが開いた。
『接続段階1:プロフィール閲覧』
『能力情報を開示します』
『死戻りの砂時計』
『詳細情報:接続不足』
『使用可能出力:0%』
名前だけでは役に立たない。
死戻り。字面どおりなら、死んだあとに戻る能力だろうか。
リリアが「最初は火刑」と言ったことを思い出した。
最初。
今度。
同じ質問。
考えたくない形で、言葉がつながり始める。
「何回、死んでるんだ」
答えはない。
地図を拡大する。白線は格子の向こうへ続き、別経路を示さない。アプリには目的地まで連れていく親切心すらないらしい。
壁を照らす。
格子の左側に、細い横穴があった。水を逃がすためのものだろう。大人の肩幅より狭く、泥が半分まで詰まっている。
通れるかもしれない。
見なかったことにしたかった。
俺は上着を脱ぎ、スマートフォンを内ポケットへ入れた。頭から横穴へ突っ込む。肩が石に擦れ、冷たい泥が胸まで入り込んだ。
「転移特典に洗濯機もつけろ……」
息を吐いて体を細くする。
一度、腰でつかえた。
前へ進めず、後ろへも戻れない。暗闇で胸が圧迫され、呼吸が速くなる。
こんな場所で詰まって死ぬのか。
ニュースにはならない。異世界下水道で日本人男性、救助活動中に泥へ埋まる。肩書きの最後まで格好がつかない。
自分を笑うと、ほんの少し息が戻った。
壁に肘を押しつけ、体をねじる。ベルトの金具が石に引っかかっていた。外して前へ投げると、腰が抜ける。
そのまま頭から水へ落ちた。
顔を上げて、何度も息を吸う。
『接続対象まで 四十二メートル』
地図に従って進むと、水路の脇に石段が現れた。上には木の扉。内側からかんぬきがかかっていたが、腐って隙間ができている。
腕を入れ、指先で棒を持ち上げる。
扉の向こうは物置だった。
麻袋、空の樽、折れた箒。壁に茶色い外套がかかっている。胸には杯と麦の穂を組み合わせた印。
これで泥まみれの上着を隠せる。
外套を羽織ったところで、扉の外から声がした。
「次の食事は四半鐘後だ。魔女には水だけでいい」
「承知しました」
二人。
言葉が分かる。
知らない発音なのに、意味は日本語として頭へ入る。口の動きと聞こえる音がわずかにずれて、吹き替え映画を見ているようだった。
画面に通知が出る。
『自動翻訳を適用しています』
『接続対象との共通言語を基準に変換します』
リリアが知らない言葉は翻訳できなかった。動画もスマホも通じなかったのは、そのせいか。
足音が遠ざかる。
物置から顔を出すと、石造りの通路が左右へ伸びていた。壁の松明が揺れ、雨水の筋が天井から落ちている。
左へ行けば地図の赤い点。
右には地上へ上がる階段。
逃げ道を先に確認すべきだ。リリアへ会えても、二人で出られなければ意味がない。
分かっている。
それでも残り時間を見ると、足は左へ向いた。
十一時間三十一分。
長いようで短い。
曲がり角の先に見張りが一人いた。
椅子へ座り、机の上で紙を数えている。革鎧の上に、物置で見つけたものと同じ印の外套を着ていた。配膳係だろう。
俺は樽を一つ抱えた。
空だと分からないよう、底を腹へ押しつける。
「遅れました」
初めて話す異世界語は、自分の耳には日本語だった。
見張りが顔を上げる。
「誰だ」
「下の貯蔵庫から水を」
「今夜の係はバルドだ」
「腹を壊しました」
「またか」
見張りは心底うんざりした顔で、紙へ視線を戻した。
バルド。会ったことはないが、ありがとう。日頃の行いが俺の命を救った。
「魔女に水を届けます」
「杯は」
「……忘れました」
見張りがこちらを見る。
五秒ほど沈黙した。
「樽ごと飲ませる気か?」
「勢いがあった方が喜ぶかと」
異世界で最初の職務質問に、俺の脳は完全に負けていた。
見張りの眉間にしわが寄る。
机の端に木の杯がある。彼はそれをつかみ、俺の胸へ投げた。
「さっさと行け。明日は処刑の警備で寝られん」
「助かります」
「助かるのはお前じゃない。俺の睡眠だ」
礼を言い、奥へ進む。
背中を向けた途端、膝から力が抜けかけた。
樽を捨てたい。だが何かを運んでいなければ、外套だけでは怪しまれる。空の樽を抱えたまま階段を下りた。
地下牢は、画面で見たより広かった。
片側に六つの牢。反対側は湿った壁。奥に監視用の白い術式が浮かんでいる。囚人はリリアしかいない。
彼女は藁の上に横たわっていた。
「リリア」
小さく呼ぶ。
反応がない。
鉄格子の前へ樽を置き、膝をつく。
銀髪の間から見える頬が赤い。息が浅く、額には汗が浮いている。さっきの法衣の男に何かされたのか。
鍵はない。
鉄格子には手のひらほどの受け渡し口があり、そこから杯を入れられる。
「起きてくれ」
腕を伸ばす。指先が届かない。
スマートフォンを開く。
『接続対象を発見しました』
『接続段階2:マッチング成立』
『死戻りの砂時計を1%使用できます』
体の奥へ、冷たい砂が流れ込んだ。
錯覚ではない。
胸から指先へ、知らない何かが巡っている。目を閉じると、暗闇に小さな砂時計が見えた。上側にある砂は一粒だけ。それが落ちれば何が起きるのか、分からない。
同時に、知らない記憶が瞬いた。
炎。
鐘。
俺自身の焼けた手。
そして、泣けなくなった紫の目。
「なんだ、今の」
像は一秒で消えた。
藁が鳴る。
リリアが目を開けていた。
俺を見つめる。驚きも喜びもない。ただ、長い夢から覚めた人のように、ゆっくりまばたきをした。
「どうして」
声がかすれている。
「助けるって送っただろ」
「来ないでと言いました」
「あれを先に言え。順番が逆だ」
自分でも情けないほど安心して、笑いそうになった。
リリアは起き上がろうとした。鎖が張り、顔をしかめる。俺は受け渡し口から杯を入れた。
「水は」
「飲むと、魔封じが強くなります」
「危なかった。樽ごと飲ませるところだった」
彼女は空の樽を見た。
「空です」
「見れば分かる?」
「持ち方で」
「さっきの見張りより観察力あるな」
「ヨルンは夜になると、数字しか見ません」
「見張りの名前まで知ってるのか」
「長いので」
彼女はそこで口を閉じた。
投げかけた視線を、俺は逃さなかった。
「何が長い」
「牢にいた時間です」
「何日?」
「覚えていません」
「処刑は明日なんだろ」
「はい」
「捕まったのは」
「昨日です」
「二日を忘れるほど長いのか」
リリアの目が、壁の術式へ向いた。
「ここでは話せません」
監視されている。
俺は声を落とした。
「逃げ道を探す。鍵は誰が持ってる」
「看守長」
「さっきの法衣の男か」
「いいえ。あれは神聖管理教会の司祭です。看守長は上に」
「鎖は壊せる?」
「魔力を使えば」
「じゃあ――」
「使った瞬間、首輪が閉じます」
銀髪をよけると、首に細い黒輪が見えた。手首の枷と同じ金属だ。
力ずくは無理。
鍵を盗み、首輪を外し、見張りを抜け、下水へ戻る。言葉にすると四つだが、戦ったことのない俺にはどれも難しい。
「ほかに出口は」
「処刑場へ上がる階段」
「それは出口じゃなくて入口だ」
「最後には、外へ出られます」
「燃やされるためにな」
リリアは否定しなかった。
こいつは自分の死を、他人事のように話す。
怖くないからではない。
怖がる力を使い切った人間の声だ。
「リリア」
「はい」
「俺は戦えない」
最初に言っておくべきことだった。
「魔法も使えない。剣を持ったやつが来たら、たぶん五秒で負ける。鍵を開けた経験もない。こっちの常識も知らない」
「知っています」
「そこは少しくらい驚け」
「あなたは、いつも最初に自分のできないことを数えます」
背中に冷たい汗が浮いた。
「また、それか」
「……また?」
「俺を知ってるような言い方」
リリアは自分の唇へ指を触れた。
本当に無意識で言ったらしい。
そのとき、階段の上で椅子が鳴った。
見張りの声が落ちてくる。
「おい、遅いぞ」
「今戻ります!」
俺は立ち上がった。
「日が昇る前に来る」
「来なくていいです」
「今度は聞かない」
樽を抱え直す。
リリアが鉄格子へ近づいた。受け渡し口から手を出す。黒い枷の先で、白い指が俺の袖をつかんだ。
力は弱い。
けれど、離そうとしなかった。
「何かあるのか」
彼女は答えない。
薄紫の目が俺の顔を確かめる。忘れたものを、もう一度覚えようとするように。
「レン」
「うん」
「今夜、あなたは三度死にます」




