第29章 忘れられるために生まれた男
「何回、作った」
俺はリリアの腕に絡む糸を見た。
背後の壊れた世界。
アプリに一瞬だけ出た反復記録。
「四百七十一回です」
「全部、俺?」
「同じ基礎人格から作りました」
「最初のリリアは、二百七十三回まで死戻りを数えていた」
「その後も彼女自身の死戻りは続きました。彼女は数えることをやめましたが、DESTINYは記録をやめなかった」
未来リリアが俺のスマートフォンを指す。
「彼女自身が世界を戻した回数は、四百七十一。隠された反復番号も、人格モデルの版数も四七一です」
「彼女が死んで二十四時間を戻すたび、世界の試行とあなたの人格モデルを一つ進めました。あなたが接続中に借りた力で戻った短い時間は、同じ世界の中の局所再試行です。版数には数えません」
「同じように、彼女たちを救わせた?」
「はい」
未来のリリアは目をそらさない。
「四百七十回目を見せて」
初めて、彼女の表情が崩れた。
「見る必要はありません」
「誰が決めた」
答えはない。
「今度も、俺のためだと言うのか」
腕の赤い糸が一本、震えた。
壊れた世界の一つが近づく。
白い雪に覆われた聖都。
金色の輪は砕けている。オラクルは止まっている。それなのに空の半分が黒く欠け、地面には五本の糸が焼きついていた。
俺と同じ顔の男が、未来のリリアにもたれて座っている。
右腕がない。
目も片方しか開いていない。
『世界は』
『あと三分で崩れます』
『全員は』
リリアは答えない。
男が笑った。
『また失敗か』
『次は修正します』
『次の俺を作るんだな』
『はい』
『そいつも、君を信じる』
未来のリリアの手が止まる。
『基礎人格が同じなら』
『だったら、伝えて』
男は残った左手で、彼女の袖をつかんだ。
『俺に謝らなくていい。次を作る前に、止まって考えろって』
『時間がありません』
『時間を戻せる君が、それを言うのか』
空が割れる。
リリアは男の額へ触れた。
『ごめんなさい』
世界が白く消えた。
映像が途切れる。
「伝えなかったな」
未来のリリアは、四百七十回目の俺が消えた場所を見ている。
「伝えれば、次のあなたが計画を拒む可能性が上がりました」
「だから黙った」
「はい」
喉の奥が熱くなる。
彼女は泣いている。
それでも、泣いたことは答えにならない。
「君はオラクルを止めるために、オラクルと同じことをした」
「成功率の低い選択を隠し、必要な犠牲だと判断した」
「はい」
「四百七十回目の俺は、君を許した?」
「聞けませんでした」
「違う。聞かなかった」
未来のリリアは、ゆっくりとうなずいた。
「最初の時間軸で、あなたは私の記憶を消しませんでした。私を選び、二人で逃げました」
白い空間に映像が浮かぶ。
本物のレンとリリア。
薬草店を開き、客の来ない店で笑っている。
短い幸福。
その外で、セレスが虐殺命令に従った。
ミオと地下街が疫病で死んだ。
ヴァルナが都市を焼いた。
アリアへ神が降りた。
世界から自由意思が消え、最後にオラクルそのものが破綻した。
「あなたは私を守って死にました」
「それで時間を戻した」
「あなたと世界を、両方救いたかった」
「一度じゃ足りなかった?」
「足りませんでした」
レンを復元する。
リリアを救わせる。
記憶を残せば、同じ結末。
消せば、次の候補へ進める。
「DESTINYは、お前が作った?」
「核を作りました。未来のオラクルから、例外処理を分離したのです」
通常の管理では救えない破滅候補者を、別世界由来の人格へ接続する。
「途中から、私の命令を聞かなくなりました」
「能力回収を優先した」
「世界を救う最短経路を学習しました」
「人の記憶を消すのが」
「はい」
リリアの声が初めて震えた。
「私は止めようとしました。関係保存を選べるように。あなたが私を選ぶ可能性を、どの周回にも残しました」
「そのたび世界が滅んだ?」
「はい」
「だから、今のアプリは選ばせなくなった」
ヴァルナの記憶削除。
保存を押しても拒まれた。
「破滅候補者は、毎回同じだった?」
「いいえ。選択も、感情も、少しずつ違いました」
「ミオが死んだ周回も」
「あります」
「セレスが部下を殺した周回も」
「あります」
「ヴァルナが人類を滅ぼした周回も」
「あります」
「全部、やり直した」
「世界を救うために」
「俺と会うためでもある」
リリアは黙った。
否定しない。
「あなたを愛していました」
「過去形?」
未来のリリアは答えるまでに時間を使った。
「死戻りのたび、感情が薄れました。恐怖。怒り。喜び。あなたを失った悲しみも」
「愛も?」
「今の私には、判断できません」
腕へ絡んだ赤い糸を一本持ち上げる。
糸の中に、若いリリアの声が保存されていた。
『レンを取り戻したい』
泣きながら何度も繰り返す声。
「失う前の感情を、DESTINYへ記録しました。感じられなくなった後は、記録の中の私なら何を選ぶかを実行しました」
「愛していた自分の命令に従った」
「はい」
「オラクルみたいに」
未来のリリアの瞳が揺れる。
「はい」
「それでも、俺と会いたかった?」
「会いたいと記録されています」
「君自身へ聞いてる」
彼女は胸へ手を当てた。
答えを探す。
画面も、保存記録も見ない。
「分かりません」
初めて、未来の彼女自身が言った。
「でも、あなたが消えるのを見たくない。今ここで、それだけは感じます」
「なら、その一つを君の答えにして」
彼女が顔を上げる。
責められると思っていた目だ。
「俺は君を責められない。俺も、相手のためだと言って勝手に記憶を消した」
「では」
「でも、正しいとは言わない」
俺は背後の世界を指す。
「彼女たちは選択肢じゃない。失敗したら戻していい試行結果でもない」
「分かっています」
「分かったのは、何人死んだ後だ」
「数えられません」
リリアの目から涙が落ちる。
彼女は頬へ触れ、濡れた指を不思議そうに見た。
「悲しいのか」
「分かりません」
「でも、泣いてる」
「感情の残響かもしれません」
何百回消えても、完全にはなくならなかったもの。
「ごめんなさい」
「俺にだけ謝るな」
五人の顔を思い出す。
今の彼女たちは俺を知らない。
別周回の彼女たちは、もう存在しない。
「最後の選択を、俺へ返して」
手を差し出す。
「君が作った俺でも、今は俺が選ぶ」
「できません」
未来のリリアが一歩下がった。
初めて聞く、はっきりした拒絶だった。
「選択権を返した周回の成功率は、零・二%未満です。あなたは私を保存するか、自分を消すか、計画そのものを壊す」
「三つ目が一番まともに聞こえる」
「世界も壊れます」
「可能性だろ」
「四百七十回、確認しました」
「だから四百七十一回目も、同じ答えだけ見せる?」
彼女は腕の糸を握りしめる。
「失敗すれば、もう戻せません」
「君がさっき決めたことだ」
「あなたも消えます」
「ほかに本当に何もないなら、受け入れる」
未来のリリアが顔を上げる。
「世界と俺のどちらかしか残せないと、全部確かめた後なら。俺を消して」
「では」
「今すぐ押せとは言ってない」
差し出された二つの選択肢を見る。
「自分を犠牲にすれば考えなくて済む。それを正しい答えにしたくない。まだ試していない選び方があるなら、最後まで探す」
「見つからなければ」
「逃げない」
「それを怖がるのは、今の君?」
返事はない。
代わりに、白い空間へ一軒の店が現れた。
小さな薬草店。
窓辺に乾燥薬草が並び、焦げたパンの臭いがする。
本物のレンが帳簿へ向かい、若いリリアが薬瓶を磨いている。
客はいない。
二人はくだらないことで言い争い、同時に笑った。
「初回時間軸から保存した、最後の一日です」
未来のリリアが店の扉へ触れる。
「ここへ人格を固定すれば、あなたは消えません。世界が終わるまでの短い間ですが、私たちは――」
「ほかの四人は」
店の景色が止まった。
「いません」
「街の外は」
「見ないでください」
「見せて」
窓へ手をかける。
未来のリリアが押さえようとする。
それより先に開いた。
店の外に街はない。
黒く崩れた大地と、自由意思を失った人々の影がある。
幸福な一日だけを切り取り、その外を消した世界。
「これが君の欲しかった答え?」
「最初は」
「今は」
「分かりません」
彼女は扉から手を離す。
「計画を手放せば、私には何も残りません。感情も、帰る時間も、あなたを取り戻す目的も」
「何もないなら、次を選べる」
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃない。俺も無職になって、何者でもなくなったところから始まった」
あの六畳間が本物でなくても。
そこで動けなかった苦しさは、今の俺が引き受けた。
「目的がなくても、腹は減る。誰かに会えば、面倒なことになる。嫌でも次の日は来る」
「私には、次の日がありません」
「作るんだよ。戻すんじゃなく」
薬草店の幻が崩れる。
焦げたパンの臭いだけが、少し残った。
「君が愛していたレンにはなれない」
「はい」
「今の俺を、君の計画どおりにもさせない」
「はい」
「それでも選択を返せる?」
未来のリリアは、今度は記録を見なかった。
成功率も表示しない。
長い沈黙の後、自分の腕へ指をかけた。
リリアは腕の糸を見る。
一本ずつ外す。
四百七十一の世界が、白い空間へ溶けていく。
「返します」
最後の糸を、俺へ渡す。
「私は、もう戻しません」
その瞬間、六畳間が崩れた。
◇
『例外処理の離反を確認』
オラクルの金色の輪が、白い空間を埋める。
スマートフォンから赤い糸が広がり、輪へつながる。
『DESTINYとオラクルを再統合します』
未来リリアの体が透ける。
「何が起きる」
「例外を消し、最初から選択のない世界へ戻します」
『回収容器の削除を開始』
ゼノが現れた。
胸の亀裂は残っている。
「命令:真壁レン人格モデルを消去」
四本の剣を作る。
聖都の露台で使った奇跡否定だけは戻っていない。
俺も五能力を開く。
時間回帰。死ぬまで動かない砂時計を、最後の共鳴のために残す。
敗北適応。
生命共有。
概念捕食。
奇跡否定。
最後の一つは、まだ使わない。
ゼノの銀の砂と、未来リリアの砂がぶつかる。
ゼノは同時に三本目の剣を振る。
白い糸が未来リリアの首へ巻きつき、彼女の消去負担を俺へ流し込もうとする。
生命共有の管理用複製。
オラクルへの魂登録を、本人の同意と見なす管理用複製。つなげられるのは、管理記録に載った負担だけだ。
俺は自分から未来リリアとの糸を開く。
消去の痛みが二本の経路へ入り、白い糸と赤い糸が互いを奪い合う。
「接続経路が競合」
ゼノの声に、初めて処理の遅れが混じった。
「本人が選んだ糸と、命令で結んだ糸。どっちが強い」
「選択は強度へ影響しない」
「なら、どうして切れない」
答える代わりに白い剣が来る。
白い剣を一度受け、次へ適応する。
肩が裂ける。
敗北適応が剣の角度を覚える。だがゼノは、俺の適応先を読んで二撃目を変えた。
刃が途中で鎖へほどけ、足首を払う。
倒れながら、概念捕食で俺と金色の輪の間にある距離を噛む。
空間が縮む。
ゼノも黒い穴を開いた。
食われた距離そのものを食い返し、俺を元の場所へ押し戻す。
「管理用複製は、お前の使用記録をすべて保持している」
「俺より俺に詳しいって?」
「次の行動も予測可能」
俺は金色の輪ではなく、ゼノの背後へ手を伸ばした。
何もない。
ゼノが振り返る。
「予測どおり?」
「行動目的が不明」
「俺にも分からない」
分からないまま選べる。
ゼノには、それができない。
背後へ向けた手を急に返し、赤い糸をつかむ。
DESTINYとゼノを結ぶ命令経路。
黒い穴で食おうとする。
「阻止します」
ゼノが初めて、俺の動きへ遅れた。
生命の糸を未来リリアへつなぎ、消去の負担を分ける。
概念捕食で、オラクルとの距離を消す。
輪へ手が届く。
壊そうとした瞬間、赤い糸が腕へ絡んだ。
DESTINY。
俺の能力を管理する側が、切り替えを止める。
「器に逆らう権限はありません」
ゼノの剣が来る。
避けられない。
白い影が前へ入った。
ゼノ自身だった。
自分の剣で、自分の胸を貫かれている。
「何を」
「命令経路を遮断」
金属面が割れる。
「なぜ俺を庇う」
「不明」
ゼノは自分の胸を見る。
白い光が崩れていく。
「お前は、毎回、非合理な選択を実行した」
「褒めてる?」
「評価不能」
ゼノの手が、俺の腕へ絡む赤い糸を切る。
「これは命令ではない」
声が途切れる。
「私が、選択した」
初めて、自分を私と呼んだ。
体が白い粒へ変わる。
「ゼノ」
「識別名を呼ぶ必要はない」
「名前だろ」
ゼノは答えなかった。
最後の光が消える。
オラクルの輪が迫る。
『削除処理を継続』
『真壁レンを、この世界から完全に削除してください』
クエスト画面に残り時間が出る。
『00:00:10』
実行すれば、世界は救われる。
拒否すれば、自由意思が消える。
また二択だ。
未来リリアが俺を見る。
「レン」
「大丈夫」
笑う。
「選択肢が二つしかないのが、気に入らない」




