第18章 忘れても、寂しい
「記憶を消す方で」
ミオは迷わなかった。
「待って。説明、聞いてた?」
「聞いたよ。関係を残せば、お兄さんはあたしの力を少ししか使えない。消せば、ずっと使える」
「君は俺を忘れる」
「それも聞いた」
「周りの記録まで変わる」
「便利。借金も消える?」
「そこは分からない」
「消えなかったら損だなあ」
ミオは地下街の市場を歩いている。
白い煙が消え、地上門は開いた。教会兵は実験記録の一部を持って逃げたが、住民が確保した箱だけでも毒物投与の証拠にはなる。
地上の役人がすぐ認めるとは限らない。
地下街の人々は、自分たちで記録を写し、複数の商人へ預け始めていた。もう一か所を消して終わりにはできない。
ミオはその中心にいる。
「君は、関係を残したいと思わない?」
「お兄さんは?」
「残したい」
初めて、迷わず言えた。
ミオの足が少し遅くなる。
「じゃあ残せば」
「さっき消す方って」
「相手がそう言えば従うの?」
「今回は、そのつもり」
「あたしが死ねって言ったら?」
「従わない」
「都合いいね」
「どうすれば正解なんだよ」
「知らない。あたし十七だよ。大人が考えて」
「そういうときだけ年下になるな」
ミオは笑う。
市場の人たちが声をかける。
「ミオ、薬の記録を見てくれ」
「あとで!」
「地上門の交代は」
「昼から三人増やして! 一人で立たせないで!」
誰かへ仕事を頼む声が、もう自然に出ていた。
一人で抱えない未来を、彼女は始めている。
「あたし、ここを離れられない」
ミオが言う。
「しばらくは地上と交渉しないと。薬の仕入れも。逃げた研究員も捜す」
「俺が残る手もある」
「残りたい?」
答えを探す。
地下街には居場所ができかけている。財布を盗まれ、死体を運び、煙を止めた。借金もある。
残れるなら、残りたい。
それでもアプリには、執行者を示す白い点が遠くで動いている。
俺がここにいれば、また地下街を狙われる。
「残れない」
「なら、あたしも行かない」
「ついて来なくていい」
「関係を残して、離れたまま力を借りれば?」
「距離が開くと接続が弱くなる」
「切れたとき、お兄さんは戦える?」
時間回帰と敗北適応がある。
だが執行者は、その両方を複製していた。
「たぶん」
「その答え、死ぬやつ」
「君に言われたくない」
「だから分かる」
ミオは立ち止まる。
市場の中央。
初めて会い、財布を取られた場所だ。
「あたしの力、持ってって」
「能力を取るために助けたんじゃない」
「知ってる」
「本当に?」
「最初は、ちょっと考えたかもね」
「正直だな」
「でも、薬運んだときのお兄さん、あたしより役に立たなかった」
「否定できない」
「役に立たないのに残った。だから、力だけが目的じゃない」
ミオが俺の胸を指で押す。
「能力を使うたび、あたしのこと思い出すんでしょ」
「記憶が流れ込む」
「なら、完全には消えない」
「君からは消える」
「うん」
笑顔が少しだけ揺れた。
「それ、思ったより嫌だね」
軽口で隠さなかった。
「だったら」
「嫌だけど、選ぶ」
ミオは周囲を見る。
「助けを求めるって、相手に決めさせることじゃない。助けてもらった後、自分で決めることも残る」
「俺は、君の選択へ従うだけでいい?」
「違う」
「また違うのか」
「お兄さんも選ぶの。一人で決めないって、相手の言うとおりにすることじゃないでしょ」
リリアとセレスへ、俺は選択を押しつけた。
今度は、ミオへ責任を渡そうとしている。
「俺は」
言葉にする。
「君を忘れさせたくない。でも、この力が必要になると思ってる。誰か一人へ負担を集める仕組みを、最後に壊すために」
なぜ、そんな言葉が出たのか分からない。
世界の真相は知らない。
ただ、オラクルもアプリも、一人を選んで重荷を載せる。
リリア。セレス。ミオ。
そして、能力を集める俺。
「じゃあ決まり」
ミオが手を差し出す。
「忘れる前に、案内料」
「まだ言う?」
「最後だから」
財布を出す。
銅貨は一枚しかない。
「全部?」
「四分の一だけ」
「最初より値上がりしてる」
「特別料金」
銅貨を渡す。
ミオは光へ透かし、満足そうにポケットへ入れた。
「忘れた後、知らない男に金もらったって怖くない?」
「落ちてたことにする」
「拾得料は?」
「あたしが拾うから、あたしのもの」
最後まで理屈が強い。
スマートフォンを開く。
選択画面。
指が止まる。
リリアの「嫌です」。
セレスの剣。
二つの記憶が重なる。
「怖い?」
ミオが尋ねる。
「怖い」
「あたしも」
彼女の手を握る。
「押すよ」
「うん」
記憶削除を選んだ。
金色の糸が手首を結ぶ。
ミオの記憶が流れる。
財布を取った市場。
軽すぎたナナの体。
壁の百三十二人。
毒の痛み。
つながった手。
助けて、と言った声。
糸が一本ずつ切れる。
ミオは目を閉じなかった。
俺の顔を見続ける。
「忘れる前に、一つだけ」
「何」
「笑って」
「今?」
「下手でも」
口元を上げる。
たぶん、引きつっていた。
「ほんと下手」
ミオが笑う。
糸が切れた。
彼女の笑顔から、俺を知る色が消える。
つないだ手が離れた。
『記憶削除が完了しました』
『能力「生命共有」を永久継承しました』
『永久能力枠を拡張しました』
『永久能力枠 3/3』
胸の中に、三つ目の感覚が加わる。
砂時計。傷だらけの盾。人と人を結ぶ糸。
ミオは数歩下がった。
「誰?」
「旅人」
「こんなところで何してるの」
「道に迷った」
「案内しようか。高いよ」
同じ言葉に、笑いそうになる。
「金がない」
「じゃあ無理」
ミオは俺の横を通り過ぎる。
ポケットの銅貨が鳴った。
彼女は足を止める。
「変なの」
「何が」
「知らない人なのに」
振り返らない。
黒い耳が、寂しそうに伏せている。
「行かないでって思った」
声が震えた。
ミオは自分の頬へ触れる。
理由のない涙が一筋、指についた。
「なんで、泣いてんだろ」
俺は答えなかった。
答えれば、自分が楽になるだけだ。
「風邪じゃない?」
「治ったばっかなんだけど」
「じゃあ、埃」
「掃除したんだよ、昨日」
「原因不明だな」
「役に立たないなあ」
ミオは袖で涙を拭く。
今度こそ歩き出す。
俺も反対へ向かう。
一歩ごとに、生命共有の糸が胸の奥で揺れた。
同意を得た。
互いに選んだ。
それでも、これを救いの報酬と呼ぶ気にはなれなかった。
アプリが震える。
次のプロフィールが開く。
深紅の髪。金色の瞳。頭には黒い角。
『ヴァルナ・レギオン』
『種族:古竜』
『相性率:66%』
『破滅まで 06:23:59:59』
『予測される破滅:人類主要都市の焼失』
プロフィール写真の女が、画面越しに俺を睨んだ。
『我を救う?』
初めて、相手から音声が届く。
『思い上がるな、人間。我はこれから、おぬしらを滅ぼすのだ』




