第17章 痛みを分けるということ
「助けて」
ミオが言い終えたのは、それから三時間後だった。
秘密部屋には、地下街の住民が集まっていた。
山羊角の老人。診療所の医師。犬耳の青年。ミオから痛みを引き受けてもらっていた患者と、その家族。
壁に貼られた百三十二人の名前を、全員が見ている。
俺は疫病の正体を説明した。
教会の予防薬へ毒が入っていたこと。
ミオが症状を一人へ集めていたこと。
薬を盗み、一人分へ使うことで百人以上を生かしていたこと。
「そんな話、聞いてない」
最初に声を上げたのは、犬耳の青年だった。
「半分だけ分けるって」
「ごめん」
寝台のミオが答える。
「でも、あんた母ちゃんの看病で寝てなかったでしょ。痛みまで半分じゃ倒れるから」
「だからって、お前が」
「あたしなら一人分」
「百三十二人分だ!」
青年が壁を殴る。
別の女性が泣き出した。
「私のせいで?」
「違う」
ミオは起き上がろうとする。
全身が震え、また寝台へ倒れた。
「誰のせいでも」
「教会のせいだ」
俺が言う。
「毒を入れ、地下街を閉じた側の責任だ。でも、これからどうするかは、ここにいる全員で決める」
「解毒薬があるんだろ」
医師が青い瓶を見る。
「原液はある。百七十六人分へ薄めるには、あと二時間」
山羊角の老人が答えた。
「ミオは、そこまで持たん」
「接続を切れば」
「全員へ症状が戻る。急変した者は、やはり持たん」
沈黙。
一人を死なせるか。
何人かを死なせるか。
同じ二択へ戻る。
「三つ目がある」
俺は壁の黒い糸を指した。
「一人から百三十二人へ戻すんじゃない。ここにいる全員へ、均等に分ける」
医師が眉を寄せる。
「病気でない者にも?」
「本人が同意すれば、ミオの能力でできる」
「何人必要だ」
「分からない」
俺はミオを見る。
「できる?」
「理屈では」
「代償は」
「痛みも毒も消えない。人数で薄まるだけ。体力も分けるから、みんな動けなくなるかも」
「二時間、耐えればいい」
「教会が待つと思う?」
ミオの耳が、遠くの音を拾った。
地下街の入口で金属が閉じる音。
続いて、魔導灯が一列ずつ消えていく。
「完全封鎖だ」
犬耳の青年が扉を開ける。
通路の向こうから煙が流れていた。
普通の火ではない。白い煙。実験室で見た、記録を消すための薬品だ。
「証拠ごと地下街を焼く気だ」
選別実験が露見した。
教会は患者を救うより、記録を消す方を選んだ。
「二時間を作る」
俺は立ち上がる。
「調合を続けて。ミオは接続を組み替える」
「お兄さんは」
「煙を止める」
「また一人で?」
「違う」
住民たちを見る。
「道を知る人。水を運べる人。戦える人。手を貸してほしい」
助けて、と口にした。
難しい言葉ではない。
言ったから弱くなるわけでもなかった。
犬耳の青年が腕を上げる。
「水路なら分かる」
診療所の医師が続く。
「煙を吸った者は私が診る」
角のある男が斧を持つ。
「地上門を壊す」
一人ずつ、できることを選ぶ。
ミオが寝台で見ていた。
「あたしも」
「君は、別の仕事」
「命令?」
「依頼」
俺は手を差し出す。
「全員へ、助けてって言って」
ミオは俺の手を見た。
次に、集まった住民を見る。
笑ってごまかそうとした口元が、途中で止まる。
「怖い」
初めて口にした。
「接続を変えたら、失敗するかもしれない。みんなへ毒が行く。あたしが持ってれば、一人で済む」
「一人で済ませたくない」
犬耳の青年が言う。
「俺にも寄こせ」
「でも」
「母ちゃんの分と、お前の分」
女性が前へ出る。
「私も」
「子供がいるでしょ」
「だから生きる。二時間なら耐える」
手が差し出される。
十人。
二十人。
秘密部屋に入りきれない者は、通路で隣の手を握る。
長い鎖のように、人がつながる。
ミオの目から涙が落ちた。
「助けて」
今度は最後まで言った。
「あたし一人じゃ無理。みんな、助けて」
黒い糸がほどけた。
百三十二本が、部屋を埋める人々へ分かれていく。
俺の手にも一本つながる。
痛みが来た。
前回の百分の一にも満たない。
それでも膝が震える。
全員が同じように息を詰めた。
誰か一人の痛みではない。
全員が、自分で引き受けた痛みだ。
『対象者の信頼を確認』
『生命共有 接続率50%』
アプリの文字を閉じる。
今は数字より、煙を止める。
◇
白い煙は、地上門の換気塔から送られていた。
水路を知る青年に案内され、地下街の西端へ向かう。
体が重い。
分散した毒が筋肉を鈍らせている。
戦える住民は二十人ほど。武器は斧、包丁、棒。教会兵は門の向こうに三十人。
正面からは勝てない。
「換気管を閉じれば」
「圧が上がって、別の口から出る」
青年が天井の管を指す。
「地上の送り機を止めるしかない」
「門は」
「魔法錠。壊すのに時間がかかる」
俺は白い術式へ触れた。
一度焼かれ、敗北適応で流れを知っている。
だが今の体では、二度目にも耐えられない。
永久能力は二枠。
時間回帰は死ななければ使えない。ここでは敗北適応と、一時接続中の生命共有を組み合わせる。
俺一人では二度目の火傷に耐えられない。だが住民たちは、さっき負担を分けることへ同意した。
術式が強くなる瞬間を敗北適応で読み、焼ける痛みだけを全員へ薄く分ける。
一人なら腕を失う。二十人なら、一瞬歯を食いしばれば済む。
「やる」
扉へ両手を当てる。
白い光が皮膚へ入る。
適応が強い場所を示す。
光が集まる瞬間、白い糸を通して火傷を分ける。痛みに腕を持っていかれる前に、指をずらした。
二つの能力を同時に使うと、頭の中で傷と白い糸の記憶がぶつかった。
俺ではない声が漏れる。
「右列、交代」
セレスの言葉だった。
手の動きが、ミオの針金を扱う仕草になる。
人格が混ざる。
怖くなり、生命共有を切る。
最後は自分の手で錠を回した。
門が開く。
「行け!」
住民たちが飛び出した。
教会兵が杖を構える。
俺は最初の白い光を受け、肩を焼かれる。
二撃目へ適応し、体をひねる。
青年の斧が杖を叩き落とす。
全員が鈍い。
教会兵も煙を避ける面をつけ、視界が狭い。
倒すことが目的ではない。
送り機へ近づく。
大きな炉の上で白い薬品が燃えている。
周囲には実験記録の箱。
「水を!」
住民が桶を渡していく。
列を作り、地下の貯水槽から地上まで。
一杯。
二杯。
炉の火が弱まる。
教会兵が列を切ろうとする。
住民たちは戦わず、桶を隣へ投げてつなぐ。
別の者が体で道を塞ぐ。
痛みを分けたのと同じだ。
一人へ役目を集めない。
俺は送り機の蓋へ手をかける。
熱い。
生命共有の糸が震え、火傷の痛みが全員へ薄く流れる。
背後で悲鳴がいくつも上がる。
「やめるか!」
叫ぶ。
地下からミオの声が、糸を通して届いた。
『続けて!』
全員の意思が重なる。
蓋を外し、炉の中へ桶を落とす。
白い蒸気が吹き上がった。
送り機が止まる。
地下へ流れていた煙が薄くなった。
◇
中和剤は、二時間十三分で完成した。
全員へ行き渡るまで、さらに三時間。
夜明け前、壁の名前から黒い糸が一本ずつ消えていく。
患者の熱が下がり、斑点も薄くなった。
死者は戻らない。
体力を失った者の回復には時間がかかる。
それでも、明日へ進める。
最後の糸が消えたとき、ミオは寝台から起き上がった。
自分の足で立つ。
「軽い」
腕を回す。
「あたしの体、こんな軽かった?」
「体重は増やした方がいい」
「乙女に言う?」
「食べて寝ろって意味」
「言い方が下手」
ミオは笑った。
今度は胸の線が脈打たない。
笑っても、命が減らない。
アプリが震える。
『対象者が他者へ助けを求めました』
『対象者の破滅を回避しました』
『運命クエストを達成しました』
『一時接続率:100%』
選択画面が現れる。
ミオが俺の顔を見る。
「それ、また出た?」
「うん」
「今度は相談する?」
「する」
「じゃあ、案内料を先に払って」
「感動的な場面じゃないのか」
「借金は別」
差し出された手を握る。
記憶を消すためではない。
少なくとも今は、同じ痛みを分けるためだった。




