第14章 病に沈む獣人街
一週間後、俺は猫に財布を盗まれた。
正確には、猫の耳を持つ少女だ。
「お兄さん、落としたよ」
人混みの中から声をかけられ、振り返る。
黒い髪の上に、同じ色の耳が二つ。細身の少女が、俺の財布を指先でつまんでいた。
「ありがとう」
受け取ろうとする。
少女はひょいと手を上げた。
「拾得料」
「俺の財布だよな」
「拾ったのはあたし。中身の一割でいいよ」
「いいよって言い方で盗むな」
「二割?」
「増えてる」
周りを歩く人々は、誰もこちらを見ない。
地上の市場から一段下がった地下通り。天井を支える太い柱の間に店が並び、魔導灯の黄色い光が煙の中で霞んでいる。
人間もいるが、半数以上は獣人だ。
犬の耳。狐の尾。鱗のある頬。
地上では珍しそうに見られる特徴が、ここでは普通に混ざっている。
「五枚入ってたでしょ。銅貨一枚」
「中を見たな」
「拾った物の確認は大事」
「落としたんじゃなくて抜いた?」
少女が笑った。
「証拠ある?」
「ない」
「じゃあ、拾った」
交渉する間にも、財布は彼女の指の間をくるくる回る。
取り返そうと手を出したら、もうそこにはない。反対の手へ移っている。
速い。
敗北適応を使えば、二度目は追えるかもしれない。
財布一つに永久能力を使うのも情けない。
「分かった。一枚」
「毎度あり」
少女は銅貨を抜き、財布を投げてよこした。
受け取った瞬間、スマートフォンが震える。
『ミオ・ラグナ』
『十七歳』
『猫系獣人』
『職業:地下街案内人』
『相性率:42%』
『破滅まで 05:23:41:09』
『運命クエスト:彼女に助けを求めさせてください』
五日と二十三時間。
俺が画面と少女を見比べると、ミオは耳を伏せた。
「変だな」
「何が」
「お兄さんの顔、前にもどこかで見た気がする」
ミオは俺の顔を左右から眺め、すぐに肩をすくめた。
「まあ、地味な顔って似るよね」
「何。その黒い板」
「君のプロフィールが出た」
「やだ、告白? 相手は選ぶよ」
「安心して。相性42%」
「微妙」
「前より高い」
「比較対象を聞くの怖いな」
軽い口調。
よく動く目。
笑っていても、俺との距離を一定に保っている。
「案内人なんだろ」
「そうだけど」
「薬屋を探してる」
「地上の? 地下の? 合法? ちょっとだけ違法?」
「疫病に使う薬を扱ってるところ」
ミオの笑顔が、一瞬だけ消えた。
「観光客は帰りな」
「観光じゃない」
「じゃあ教会?」
「違う」
「王国の役人」
「違う」
「いちばん怪しい答え方」
ミオは俺の足元を見る。
右肩に巻いた包帯。泥のついた靴。剣を持たない腰。
「追われてる?」
「少し」
「罪状は」
「不法侵入。窃盗。兵士への傷害。教会への妨害」
「少しじゃない」
「殺人はない」
「安心材料として弱いよ」
彼女は周囲を確認し、声を落とした。
「金貨一枚」
「持ってない」
「じゃあ銀貨十枚」
「銅貨四枚になった」
「かわいそう」
「誰のせいだ」
ミオは少し考えた。
「働く?」
「内容による」
「死体運び」
冗談の声ではなかった。
◇
地下街の奥には、病人が集められていた。
使われなくなった貯水槽へ板を渡し、その上に毛布が並んでいる。
咳の音が途切れない。
熱で汗をかく者。皮膚に黒い斑点が出た者。息をするたび胸が鳴る子供。
入口には白い線が引かれていた。
『疫病区画。獣人以外の立入を禁ず』
「獣人は入っていいのか」
「違うよ」
ミオが布で口元を覆う。
「獣人は出るなって意味」
同じ言葉でも、誰に向けるかで意味が変わる。
地上では疫病を封じたことになっている。地下に閉じ込めた人間を数えなければ、患者はいない。
「死体は」
「まだ一人」
「まだ?」
「そのうち増える」
ミオは貯水槽の隅を指した。
毛布に包まれた、小さな体がある。
大人ではない。
「運べる?」
「どこへ」
「焼却炉。病気で死んだ人は、地下墓地へ入れられない」
俺は毛布の端を持った。
軽い。
軽すぎた。
もう片側をミオが持つ。
貯水槽を出て、細い通路を進む。
「名前は」
「ナナ。八歳」
「家族は」
「弟が一人。まだ生きてる」
「君は知り合い?」
「地下街じゃ、だいたい全員知り合い」
ミオは笑っている。
声の調子も、財布を盗んだときと変わらない。
ただ、毛布を持つ手だけが強く握られていた。
「薬はないのか」
「あるよ」
「効かない?」
「足りない」
焼却炉の前には、同じ包みが二つ置かれていた。
「一人じゃない」
「地上へ報告したのが一人」
ミオはナナを横へ置く。
「数が増えると、地下街ごと閉じるって」
「もう閉じてるだろ」
「今は食料が入る。完全封鎖なら、それも止まる」
生きるために、死者の数を隠している。
「案内料はこれで払った?」
「半分」
「まだ働くのか」
「薬箱を運んで」
「最初から人手が欲しかった?」
「観光客は使えるうちに使わないと」
ミオは先に歩き出す。
俺は三つの包みを振り返った。
助ける対象はミオだ。
だがクエストを達成するには、彼女へ助けを求めさせるだけでは足りない気がした。
この街で、一人だけ救うという形が想像できない。
◇
薬屋は、古い酒場の地下にあった。
扉を開けると、棚に瓶と乾燥薬草が並んでいる。
店主は山羊の角を持つ老人だった。
「遅いぞ」
「ごめん、道で財布が落ちてた」
「拾ってやったのか」
「一割で」
「良心的だ」
この街の相場らしい。
店主が木箱を三つ出す。
「第三区へ一箱。第五区へ一箱。残りは診療所」
「これだけ?」
「地上から届いたのは五箱だ」
「二箱は」
「門の検査料」
「検査する側が薬を取った?」
「人間の役人には、人間の病人がいるそうだ」
老人の角が怒りで震える。
俺は箱を開けた。
小瓶が二十本。
「一人何本使う」
「一日一本」
「患者は」
「百七十を越えた」
三箱で六十本。
一日分にもならない。
「毎日五箱届く?」
「三日に一度だ」
計算が合わない。
店主は帳簿を開いた。
患者名と、渡した薬の本数が並んでいる。
百七十人へ、最低一本ずつ。
届いた薬は三日で六十本。
「ほかの仕入れは」
「ない」
「じゃあ、この薬はどこから」
帳簿を指す。
店主がミオを見る。
「あの子が持ってくる」
ミオは箱を抱えたまま、耳を後ろへ倒した。
「地上の倉庫から盗んでる」
「毎日百本以上?」
「数えたことない」
「一人で運べる量じゃない」
「あたし、力あるから」
細い腕だ。
嘘をついている。
「薬が足りない患者は、どうなる」
店主が答える。
「高熱の後、全身の痛みが始まる。その次に内臓が」
「そこまで」
ミオが声をかぶせた。
「お兄さん、箱持って」
話を終わらせたいらしい。
俺は一箱を抱えた。
重さは十五キロほど。三箱を一人で運ぶのは難しいが、不可能ではない。
問題は量ではない。
薬の出どころだ。
◇
第三区へ薬を届ける間、ミオは一度も休まなかった。
病人へ笑いかけ、子供の額を撫で、老人の愚痴へ付き合う。
「ミオ姉、また来た」
「来るよ。借金取りだからね」
「お金ない」
「元気になったら働いて返して」
「何するの」
「財布拾い」
子供が笑う。
ミオも笑う。
そのたび、呼吸が少し浅くなる。
俺だけが気づいていると思った。
違った。
患者たちは気づいて、気づかないふりをしている。
彼女が離れると、誰もが心配そうに背中を見た。
「どこが悪い」
通路で尋ねる。
「性格?」
「体」
「猫耳。珍しい?」
「ごまかすな」
「お兄さんに関係ない」
「アプリには、君が六日後に死ぬって出てる」
ミオの足が止まった。
「へえ」
振り向いた顔は笑っている。
「便利だね。葬式の予約できる」
「怖くないのか」
「死ぬ時刻を教えられたら、怖がらなきゃいけない?」
リリアとは違う。
リリアは恐怖そのものを失っていた。
ミオは恐怖を持ったまま、笑い声で覆っている。
「助けてほしくない?」
「誰を」
「君を」
「それより、薬を運んで」
歩き出す。
答えは拒絶だった。
相性42%でも、距離はリリアやセレスより遠い。
当たり前だ。
数字は、積み重ねた時間の代わりにならない。
診療所へ最後の箱を届けたとき、ミオはいつもの笑顔で手を振った。
「案内はここまで。財布、次は内ポケットに入れな」
「君は」
「用事あるから」
「ついて行く」
「料金、高いよ」
「払えない」
「じゃあ、だめ」
人混みへ消える。
追おうとしたが、診療所の医師に呼び止められた。
「あなた、地上から来たのか」
「一応」
「薬の追加を頼めないか」
振り返る。
数秒の間に、ミオの姿は消えていた。
◇
見つけたのは、一時間後だった。
財布を盗まれた市場の裏。
閉じた店の間に、細い路地がある。奥から押し殺した咳が聞こえた。
ミオが壁へ手をついている。
一人だった。
笑っていない。
指の隙間から血が落ちる。
咳をするたび、腕や首に黒い斑点が浮かんだ。次の瞬間には消え、別の場所へ移る。
一人分ではない。
何十人もの症状が、彼女の体を順番に通っている。
ミオは俺に気づいた。
「見た?」
「見た」
「忘れて」
「できない」
「そう」
いつものように笑おうとする。
口元が上がる前に、全身から血が噴いた。
俺は倒れる彼女を抱き止めた。




