第97話 孤独と恐怖
意識が戻るより先に、鈍い痛みを感じた。
「……っ」
ユウは小さく息を漏らした。
頭の奥が重い。
後頭部には、触れてもいないのにじんじんとした痛みが残っていた。
ゆっくりと目を開く。
ぼやけた視界に、見知らぬ天井が映った。
「……ここ……」
声が掠れる。
少なくとも、さっきまでいた古い神殿ではなかった。
壁は石造りで、崩れた跡はない。
窓も見当たらず、天井近くに取り付けられた灯りだけが、狭い部屋を淡く照らしていた。
外の明るさも分からない。
風の音も、鳥の声も届かない。
何があったのか思い出そうとする。
神殿。
リリア。
背後の気配。
そして、後頭部へ走った衝撃。
「……!」
ユウは身を起こそうとした。
その瞬間、両腕が途中で止まった。
「え……?」
手首が動かない。
視線を落とす。
両手首は身体の前で固定され、椅子に座らされたまま大きく身動きすることができなかった。
足首も同じように留められている。
一度だけ力を込める。
外れない。
もう一度試す。
固定された部分がわずかに軋んだだけだった。
「なんで……」
胸の奥がざわついた。
ここがどこなのか。
誰に運ばれてきたのか。
なぜこんな状態にされているのか。
答えられるものは一つもなかった。
ユウは正面へ目を向ける。
机も棚もない。
見える範囲には、自分が座らされている椅子と閉ざされた出入口しかなかった。
助けを呼ぼうかと考えた。
けれど、誰が現れるのか想像もつかない。
声を出すことすらためらわれた。
呼吸が浅くなりかけた、その時。
「……ユウ」
聞き覚えのある声がした。
声のした方へ顔を向ける。
「リリア……!」
部屋の端に、リリアが立っていた。
神殿で見た時と同じ服。
土で汚れてはいるものの、大きな怪我をしている様子はない。
その姿を見ただけで、張り詰めていたものがわずかに緩んだ。
「よかった……」
思わず息を吐く。
「リリア、大丈夫だった?」
「……うん」
「怪我は?」
「ない」
返事は短い。
それでも無事だった。
ユウにとっては、それだけでよかった。
神殿で意識を失う直前まで、気がかりだったのはリリアのことだった。
自分が倒れたあとも、何かされた様子はない。
それだけで、ひとまず安心できた。
すぐに自分の手首へ視線を落とす。
「ここ、どこなの?」
「……知らない」
「リリアも連れてこられたの?」
少し間があった。
「……私も少し話を聞かれただけ」
「話……?」
「うん」
リリアは淡々と答えた。
「ユウにも、少し聞きたいことがあるだけだって」
その言葉に、ユウは顔を上げた。
「僕も……?」
「すぐ終わるから」
何でもないことを告げるような声だった。
けれど、それだけで安心することはできなかった。
気を失わされて。
知らない場所へ運ばれて。
目を覚ましたら、手足を拘束されている。
これが本当に、話を聞くだけのためなのだろうか。
それでも、リリアまでここにいるのなら。
少なくとも自分だけが突然おかしなことに巻き込まれたわけではないのかもしれない。
そう考えようとした。
「僕をここに連れてきたのは……誰なの?」
「知らない」
「じゃあ、ここにいる人たちは……?」
「それも知らない」
「そっか……」
ユウは俯いた。
リリアも詳しいことは聞かされていないらしい。
静かな部屋だった。
外から話し声は聞こえない。
足音さえ、ほとんど届かなかった。
何も聞こえないことが、かえって落ち着かなかった。
ユウは自分の手元を見る。
自由に動かせない。
魔法を使って外せないだろうかという考えも一瞬浮かんだ。
けれど、状況も拘束の仕組みも把握できないまま、無理に動くのは怖かった。
もし本当に話を聞かれるだけなら。
騒がず待っていれば終わるのなら。
そう思おうとした時だった。
リリアが動いた。
出口へ向かって歩き始める。
ユウは顔を上げた。
「……リリア?」
彼女は足を止めない。
「どこ行くの?」
「私はもう行くから」
「行く……?」
「うん」
リリアは入口の前で振り返った。
「ユウはここにいて」
一瞬、その言葉を理解できなかった。
「……待って」
リリアが取っ手へ手をかける。
「リリア」
さっきよりも声が小さくなった。
「待って……」
ようやく彼女が振り返る。
表情は変わらない。
ユウは拘束された腕を動かそうとした。
金具が小さな音を立てるだけで、手を伸ばすことはできない。
「僕も一緒に行けないの……?」
「まだでしょ」
「でも……」
言葉が続かなかった。
リリアがいなくなれば、この部屋には自分だけが残る。
拘束されたまま、次に誰が入ってくるのかを待つしかない。
そう考えた途端、息が詰まった。
さっきまで感じていたわずかな安心が、一気になくなっていく。
「……リリア」
声が震える。
震えを抑えようとした。
けれど、うまくいかなかった。
「行かないで……」
リリアは黙っている。
「お願い……」
視界が滲んだ。
一度まばたきをする。
目の端に溜まったものが、頬を伝った。
拭うこともできない。
「僕……ここで何されるのか、分からないから……」
息がうまく整わない。
「怖い……」
小さな声だった。
静まり返った部屋には、それでもはっきり響いた。
滲む視界の中で、リリアを見る。
「だから……」
一度、唇を噛む。
「一人にしないで……」
リリアの表情は硬いままだった。
取っ手に手をかけたまま、その場から動かない。
わずかな沈黙のあと、彼女は静かに口を開いた。
「……すぐ終わるから」
「リリア……」
「話を聞かれるだけだと思う」
それだけ告げて、前を向く。
ユウは首を小さく振った。
「待って……お願いだから……」
けれど、リリアはそのまま外へ出た。
「リリア……!」
今度は少し声が大きくなった。
それでも戻ってこなかった。
「……どうして……」
最後の言葉は、ほとんど声にならなかった。
重い音とともに入口が閉ざされた。
「……」
ユウはその場所を見つめたまま動けなかった。
頬を伝った涙が、顎から落ちた。
さっきまでリリアが立っていた場所には、もう誰もいない。
静けさだけが戻ってきた。
拘束された手をもう一度動かしてみる。
金具が擦れる音がした。
外れない。
「……リリア」
呼んでも返事はなかった。
もう一度呼ぼうとして、やめた。
壁の向こうへ声が届くかも分からない。
届いたとしても、戻ってきてくれるとは思えなかった。
ユウは俯いた。
自分の呼吸だけが、妙に近く聞こえる。
顔を上げても、変わらない石壁があるだけだった。
時間がどれほど経っているのかさえ分からない。
次に現れるのが誰なのかも知らない。
ユウは拘束されたまま、閉ざされた入口を見つめた。
今は、待つことしかできなかった。




