第96話 古い神殿
ユウは古い神殿へ近づいていった。
足元には、割れた石板や伸びた草が入り混じっている。
崩れた建物の隙間を抜けるたび、靴底の下で小石がかすかに鳴った。
その音さえ大きく感じて、ユウは歩幅を少しだけ狭める。
リリアは魔物が近くを探していると言っていた。
だからこそ、周囲から目を離せなかった。
崩れた壁の陰。
倒れた柱の向こう。
草の深くなっている場所。
動くものがないか、一つずつ確かめながら進む。
けれど。
神殿の近くまで来ても、それらしい姿は見えなかった。
唸り声も。
何かが草を踏む音も。
獣のような息遣いも聞こえない。
風が古い建物の間を抜け、乾いた草を揺らしているだけだった。
「……いない?」
ユウは立ち止まった。
魔物がどこかへ移動したのだろうか。
それとも、リリアを見失って別の場所を探しているのか。
どちらにしても、今は姿がない。
それなら好都合だった。
見つかる前にリリアを連れて離れればいい。
ユウは神殿へ続く石段の周辺へ視線を移す。
「リリア……」
声を抑えたまま呼びかける。
返事はない。
大声を出すつもりはなかった。
もしまだ魔物が近くにいるなら、こちらの位置まで知らせてしまう。
ユウは神殿の外壁に沿って進んだ。
石壁の一部は大きく崩れ、その向こうに奥まった空間ができている。
足を止め、そっと覗き込んだ。
「……!」
人影があった。
赤い髪。
「リリア!」
思わず声が大きくなる。
壁際に座り込んでいたリリアが顔を上げた。
衣服には土がつき、髪も少し乱れている。
顔色は良くなかった。
それでも、目立つ傷や出血は見えない。
「よかった……」
張り詰めていた息が、ようやく抜けた。
朝から姿がなくて。
念話では魔物に追われていると言っていて。
追憶の都へ向かう間も、間に合わなかったらどうしようという考えが何度も浮かんでいた。
目の前にいる。
その事実だけで、ひとまず十分だった。
ユウは急いでそちらへ向かう。
「大丈夫? 怪我してない?」
「……ユウ」
返ってきた声は低かった。
ユウが距離を縮めると、リリアがわずかに身を引く。
その動きに気づき、足が止まった。
「あ……」
昨日からのことを思い出す。
リリアは、自分が近づくことを嫌がっていた。
助けを求められたからといって、それまでの気持ちまで変わったわけではないのだろう。
「ごめん」
ユウはそれ以上距離を詰めず、その場にしゃがんだ。
「ここからでいいから。どこか痛いところはない?」
「……大丈夫」
短い返事だった。
「本当に?」
「うん」
「歩けそう?」
「……たぶん」
リリアは俯いたままだった。
ユウは少しだけ眉を寄せる。
大きな傷がないのは分かった。
ただ、顔には疲労がにじみ、呼吸もいつもより浅かった。
この状態で王都まで歩いて戻るのは楽ではないだろう。
朝は風邪で休んでいたはずだ。
それでも追憶の都まで足を運び、そのうえ魔物から隠れていた。
負担がないはずはない。
王都からの道のりだけでも、かなり無理をしたはずだった。
「無理しなくていいよ」
返事はない。
ユウは周囲へ視線を戻す。
「魔物は?」
「……分からない」
「僕も来る途中では見なかったんだ」
神殿の周辺にも、それらしい気配はない。
逃げていったのなら助かる。
まだどこかにいるとしても、今のうちにここを離れればいい。
「今なら戻れると思う」
ユウはリリアへ向き直った。
「歩くのがつらかったら、ゆっくりでいいから」
「……」
「途中で休んでもいいし。もし魔物が出てきたら、僕が前に出るから」
リリアが顔を上げた。
そこに以前のような柔らかさはない。
冷えたような視線が、ユウへ向けられている。
それでもユウは目を逸らさなかった。
「朝から具合悪かったんでしょ?」
「……うん」
「それなのにここまで来たんだから、疲れてるよね」
リリアは何も答えない。
「大事な予定のことも、念話のことも、あとでいいから」
「……」
「今は帰ろう」
ユウは立ち上がった。
念のため、もう一度周囲を確かめる。
神殿の石段。
崩れた外壁。
草の揺れる方向。
魔物の姿はやはり見えない。
「僕が先に周りを見るから。リリアは無理して――」
その時だった。
背後で、空気がわずかに動いた。
気づいた時には、後頭部へ鈍い衝撃が走っていた。
「っ……!」
視界が大きく揺れる。
全身から一気に力が抜けた。
膝が石床へ落ちる。
何に襲われたのか、すぐには分からなかった。
ユウは反射的に顔を上げようとする。
けれど、景色が定まらない。
輪郭が二重にぶれ、地面さえ傾いて見えた。
その向こうに、リリアがいる。
こちらを見ている。
表情は硬いままだった。
「リリ……ア……」
声になったかも分からない。
背後に何者かがいる。
それだけは分かった。
そこまで考えたところで、そのまま前へ崩れかける。
手をつこうとしても力が入らなかった。
立たなければ。
リリアを守らなければ。
そう思うのに、手足は言うことを聞かない。
視界の端から、少しずつ暗くなっていく。
最後に残ったのは、何も言わずそこにいるリリアの姿だった。
そこで、ユウの意識は途切れた。




