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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第五章 帝国侵攻編
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第98話 拷問官

 どれほど時間が経ったのか分からなかった。


 ユウは椅子に拘束されたまま、閉ざされた入口を見つめていた。


 リリアがいなくなってから、誰も来ていない。


 静かな部屋には、自分の呼吸と、時折金具が軋む音だけが残っている。


「……」


 もう一度、手首に力を入れてみる。


 外れない。


 無理に動けば、固定された場所が肌へ食い込むだけだった。


 ユウは力を抜いた。


 リリアは言っていた。


 少し話を聞かれるだけ。


 すぐ終わる、と。


 その言葉を信じたい。


 そうすれば、この状況にも何か理由があるのだと思える。


「……すぐ、終わるんだよね」


 自分へ言い聞かせるように呟いた。


 その時。


 廊下の向こうから足音が聞こえた。


 ゆっくりと。


 一定の間隔で近づいてくる。


 ユウの背筋が強張った。


 足音は入口の前で止まる。


 少し間を置き、扉が開いた。


「……!」


 入ってきたのは、一人の男だった。


 大柄な体格。


 短く乱れた髪。


 上着の袖を肘までまくり、片手には細長い鞄を持っている。


 少なくとも、学院の教師のような落ち着いた雰囲気はなかった。


 むしろ、初めからこちらを値踏みするような目をしていた。


 後ろ手に扉を閉める。


「お前がユウ・リシェルか」


 低く、荒い声だった。


「……はい」


 口元がわずかに歪む。


「へえ。もっと生意気なガキかと思ってたぜ」


 鞄を床へ置いた。


 ユウはその動きを目で追う。


「……あの」


「あ?」


「あなたが……僕に話を聞く人ですか?」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、男が声を上げた。


「話?」


「……」


「そう聞かされてんのか?」


 嫌な予感がした。


「リリアが……少し聞きたいことがあるだけだって」


「ああ、なるほどな」


 面白そうに頷く。


「そりゃ優しい話だ」


 ユウの指先が強張った。


「じゃあ……違うんですか?」


「さあな」


 鞄を開いた。


 中身はユウの位置からよく見えない。


「俺は質問するのが仕事じゃねえ」


「……じゃあ、何を……」


 ゆっくり顔を上げる。


「俺の仕事は簡単だ」


 荒い声が、静かな部屋に響いた。


「お前がまともに立てなくなるまで、付き合ってやる」


 意味を理解するまで、一瞬かかった。


「……え?」


「分かんなくてもいい」


 一歩、こちらへ近づく。


「そのうち嫌でも分かる」


 ユウは反射的に身を引いた。


 けれど、拘束が食い込むだけで逃げられない。


「待ってください」


「あ?」


「僕……何もしてません」


「知ってる」


 即答だった。


 ユウは目を見開く。


「じゃあ……」


「お前が何かしたかどうかなんざ、どうでもいいんだよ」


 正面で足が止まる。


「必要だからやる。それだけだ」


「そんな……」


「まずは、いいもん見せてやるよ」


 懐から、薄い板状のものが取り出された。


 見たことのない品だった。


 その表面には、森の風景が鮮明に浮かんでいる。


 ユウは最初、それが何なのか理解できなかった。


 木々。


 見覚えのある道。


 小さな建物。


「……」


 息が止まった。


「これ……」


「分かったか?」


 板がユウの顔の近くへ掲げられる。


 森の家だった。


 自分で少しずつ手を入れ、暮らしてきた場所。


 不揃いな板で直した壁。


 小さな窓。


 何度も開け閉めした扉。


「僕の……家……」


「ああ」


 もう一枚が目の前へ出された。


 同じ場所。


 けれど。


 家は炎に包まれていた。


「……え?」


 赤い火が壁を這い、屋根から煙が上がっている。


 さらに次のものには、屋根の一部が崩れ落ちた姿が映っていた。


「……これ……」


 声が震える。


「嘘……」


「嘘に見えるか?」


「だって……」


 目を離すことができなかった。


 不揃いな板で直した壁。


 少し傾いた棚。


 一つだけの椅子。


 一人で暮らしてきた場所だった。


 町へ通うようになって。


 リリアたちが来てくれて。


 家の前で一緒に勉強した。


 学院へ入ったあとも、休日になれば帰れると思っていた。


 もう一つの帰る場所だった。


 その家が、炎に包まれていた。


「どうして……」


 喉からかすれた声が漏れた。


「あそこは……何も関係ないじゃないですか……」


「関係あるさ」


 焼けた家が映る板を、指先で軽く叩く。


「お前が大事にしてた」


「……」


「なら使える」


 ユウが顔を上げた。


「使える……?」


「ああ」


 口元が歪んだ。


「お前みたいなのには、よく効くだろ」


「そんな理由で……」


「そんな理由?」


 声が低くなる。


「大事なもんだから苦しいんだろうが」


 板が床へ放られる。


「だったら、なくなりゃもっと苦しい」


 ユウは焼けた家から目を離せなかった。


「……戻して」


「あ?」


「僕の家……」


 声が震える。


「戻してください……」


 しばらくユウの顔を眺めてから、鼻で小さく息を吐いた。


「燃えたもんをどう戻すんだよ」


「……」


「灰でも拾ってくるか?」


 ユウは唇を噛んだ。


 視界が滲んだ。


 けれど、涙を拭うこともできない。


 帰れると思っていた。


 学院でつらいことがあっても。


 何か分からないことがあっても。


 休日になれば、あの家へ戻れた。


 誰もいなくても。


 小さくても。


 そこは確かに、自分の場所だった。


 もう、ない。


 その事実が胸の中へ沈んでいく。


 その反応を確かめるように眺めていた男が、床の鞄へ手を伸ばした。


「次だ」


 取り出されたのは、細い刃物だった。


 ユウの視線が止まる。


「……それ……」


 刃先が灯りを反射した。


「待ってください」


 男が近づく。


「待って……何するんですか」


「見りゃ分かるだろ」


「嫌です……」


「そうかよ」


「お願いですから……」


 聞く様子はなかった。


 顎を掴まれ、顔を上へ向けられる。


「動くなよ」


「やめて……」


 冷たい刃先が首元へ触れた。


 ユウは息を呑んだ。


「嫌だ……」


 刃が肌の上をわずかに滑った。


「っ……!」


 鋭い痛みが走る。


 傷は浅い。


 それでも、首元へ刃物を当てられているという事実だけで息が詰まった。


「やめてください……」


「まだ一個だ」


「嫌だ……」


 声が震える。


「何も……してないのに……」


「だから?」


 少し離れた場所へ、再び冷たい感触が触れる。


「待って……」


「あと何本いけるかな」


「嫌だ……やめて……」


 首筋に二本目の傷が刻まれた。


「っ……!」


 ユウの肩が跳ねる。


 逃げようとしても、椅子に固定された身体は動かない。


 傷口から落ちる血を眺め、拷問官は楽しげに目を細めた。


「ちゃんと赤いな」


「……」


「まだ浅いけどよ」


 震える息を吐く。


 首筋を、温かなものがゆっくり伝っていった。


 頬にも涙が流れていた。


「何が……目的なんですか……」


「俺に聞くな」


「じゃあ、誰に……」


「そのうち会える」


 刃物が鞄のそばへ置かれる。


 それだけでユウは、ようやく息を吐いた。


 終わった。


 一瞬だけ、そう思った。


 だが。


 男が次に取り出したものを見た途端、その期待は消えた。


 小さな炎が灯される。


「……」


 ユウの顔から血の気が引いた。


「次はこいつだ」


 何をするつもりなのか、聞く必要はなかった。


 視線が炎から離れない。


 ゆっくりと首を振る。


「……やめてください」


 炎が近づいてくる。


「お願いです……もう、やめてください……」


 反射的に腕を引こうとした。


 拘束が食い込む。


 逃げられない。


「待って……」


 男は止まらない。


「怖いんです……」


 声が震えた。


「お願いだから……それ以上は……」


「へえ」


 拷問官は足を止めず、ユウの顔を覗き込んだ。


「さっきよりいい顔になってきたじゃねえか」


「……やめて」


 涙が頬を伝う。


「もう……十分じゃないですか……」


「誰が決めた?」


「僕、本当に何も――」


 炎が腕へ近づいた。


「っ――」


 その瞬間。


 声が途切れた。


 喉が閉じたように息が詰まり、口だけがわずかに開く。


 熱い。


 そう言いたいのに、声にならない。


 腕を引こうとする。


 肩を捩る。


 身体を少しでも遠ざけようとする。


 けれど拘束は緩まなかった。


「……っ、ぁ……」


 かすれた息だけが漏れる。


 視界が大きく滲んだ。


 炎そのものが触れていないのに、皮膚の奥まで焼かれているようだった。


 指先が震える。


 うまく息を吸えない。


「どうした?」


 拷問官の声が聞こえた。


「さっきまであんなに喋ってただろ」


 ユウは答えられない。


 必死に息を吸おうとする。


「……っ……」


 胸だけが速く上下した。


 涙が顎から落ちる。


 首を振ることしかできなかった。


 それでも炎は離れない。


「……もう……」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。


「もう……無理です……」


 男の目が細くなる。


「まだだろ」


「お願い……」


 息を吸うたび、声が途切れる。


「離して……ください……」


 また熱が強くなる。


 ユウの身体が大きく強張った。


 今度は声すら出なかった。


 背中が椅子へ押しつけられる。


 涙だけが次々と流れた。


 燃えていた森の家が頭から離れない。


 帰る場所だった。


 休日になれば、またあそこへ戻れると思っていた。


 それなのに、もうない。


 リリアもいない。


 ここがどこなのかも知らない。


 何をされるのかも分からない。


 そして今は、自分の腕が炎で炙られている。


「……助けて……」


 ようやく出た言葉だった。


 返事はない。


「誰か……」


 震える息の合間に、もう一度だけ呼ぶ。


「お願い……」


 誰を呼んでも、ここには届かない。


 カイル。


 エステル。


 学院の教師たち。


 名前はいくつも浮かぶのに、誰もここにはいない。


「……帰りたい……」


 その言葉だけは、はっきり出た。


「帰りたいよ……」


 けれど、帰ろうとしていた森の家は燃えていた。


 そのことに気づいた瞬間、続きの言葉が消えた。


「……」


 唇だけが震えた。


 拷問官はそんなユウを眺め、ゆっくり口角を上げた。


「そうだ」


 低い声がした。


「その顔だよ」


 ユウは何も答えられなかった。


 ただ浅い呼吸を繰り返しながら、熱から少しでも逃れようと腕を引き続ける。


「まだ終わらねえぞ」


 男が炎を見せつけるように揺らした。


「始まったばっかだ」


 ユウは首を振った。


 もう言葉は出てこなかった。


 逃げる場所もない。


 助けを呼んでも届かない。


 そして、帰りたいと願った森の家も、もうない。


 その中でただ一人、次に何をされるのかも分からないまま、ユウは拘束され続けていた。

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