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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第五章 帝国侵攻編
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第99話 左目

 熱が、ようやく遠ざかった。


「……っ……」


 ユウは浅い呼吸を繰り返した。


 腕には焼けるような痛みが残っている。


 首筋もひりついていた。


 何より苦しいのは、次に何をされるのか分からないことだった。


 拷問官が離れるたび、ほんのわずかに安心する。


 そして鞄へ手を伸ばされるたび、その安心はすぐに消える。


「……もう……」


 声がうまく出なかった。


「もう、やめてください……」


 返事はない。


 男は炎を消すと、しばらくユウを眺めていた。


 涙の残る顔。


 乱れた呼吸。


 首元を伝う血。


 熱から逃れようと何度も引かれた腕。


 それらを一つずつ確かめるように視線が動く。


 やがて。


 拷問官の口元が、ゆっくり持ち上がった。


「……ああ、そうだ」


「……?」


 何かを思い出したように呟く。


「ちなみにさぁ?」


 急に声の調子が変わった。


 先ほどまでの荒々しさに、妙に弾んだ響きが混じる。


「お前らが住んでる王都からさ、三人攫ったんだよ」


「……え……?」


「若くて、魔法が使える奴ら」


 ユウの目がわずかに動いた。


 三人。


 若くて、魔法を扱える。


 学院で聞いた失踪事件が頭をよぎった。


 王都から消えた、三人の若い魔法使用者。


「……まさか……」


「あ?」


「王都で……いなくなった三人……?」


 拷問官の笑みが深くなった。


「知ってんのか」


「……」


「そうそう。そいつら」


 胸の奥が冷たくなる。


 あの三人は、自分から姿を消したわけではなかった。


 この男たちに連れ去られていた。


「いやあ、いろいろ試したんだけどよぉ……」


 拷問官は楽しげに指を折る。


 そこで言葉を止めた。


 ユウの顔を覗き込む。


 次の瞬間。


「そのうち二人、魔物になっちまったんだよ!」


「……」


 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。


「……魔物……?」


「ああ!」


 拷問官は嬉しそうに頷く。


「すげえぞ? 元は普通の人間だったのによ」


 声がさらに弾む。


「身体は変わるわ、まともに喋れなくなるわ、こっちの言うことなんか全然聞かねえわ!」


「……」


「制御すんのが大変でねえ!」


 まるで手のかかる玩具について話しているようだった。


 ユウは息を呑む。


「その二人は……」


「あ?」


「まだ……生きてるんですか……?」


 一瞬、拷問官の動きが止まった。


 それから楽しそうに目を細める。


「生きてる、生きてる」


「……」


「ちゃーんと動くぞ」


 ユウの指先が震えた。


 生きている。


 その言葉に安心していいのかさえ分からない。


 人だったはずなのに。


 日常を送っていたはずなのに。


 無理やり連れ去られ、実験されて。


 魔物へ変えられた。


「ねえ?」


 拷問官が顔を寄せる。


「見たい?」


「……」


「見たいだろ?」


 ユウは小さく首を振った。


「……見たく、ないです……」


「ええ?」


 心底意外そうな顔をする。


「面白いのに」


「面白くなんか……」


 掠れた声が漏れた。


「そんなの……面白くなんかないです……」


「あっそ」


 拷問官は肩を竦める。


 だが、すぐにまた表情が明るくなった。


「まあいいや!」


 両手を大きく広げる。


「これから戦争だからな!」


「……戦争……?」


「ああ!」


 ユウの目がわずかに見開かれた。


「楽しい楽しい戦争だ!」


 男の声が部屋に響く。


「せっかく作ったんだ。使わねえともったいねえだろ?」


「……」


「そこで放してやるんだよ。あいつらをさ!」


 何かを解き放つように腕を振る。


「敵も味方も分かんねえ。止まれっつっても止まらねえ」


 肩を揺らす。


「さて、どれだけ暴れてくれるかなぁ?」


「……やめて……」


 ユウの声が震えた。


「そんなこと……」


「あ?」


「そんなこと、しちゃ駄目です……」


 一瞬。


 拷問官がきょとんとした。


 そして堪えきれなくなったように声を上げる。


「お前、本当に面白えな!」


「……」


「自分がこんな目に遭ってんのに、そいつらの心配かよ!」


 男はしばらく肩を揺らしていた。


 ユウは何も返せない。


 王都から消えた三人。


 そのうち二人は、すでに人の姿ではなくなっている。


 そして今度は、戦場へ放たれようとしている。


「助けられないんですか……」


「あ?」


「その人たち……」


 ユウは俯いた。


「元に……戻せないんですか……?」


 男の笑みが消えた。


 代わりに、つまらなそうな顔になる。


「知らねえよ」


「……」


「俺の仕事じゃねえ」


 その言葉だけで切り捨てる。


 数秒後。


 また何かを思い出したように表情が変わった。


「あー……」


 床に置かれた鞄へ目を向ける。


「まあ、こんな話はどうでもいいか」


「……」


「次に移ろっか」


 妙に軽い声だった。


 まるで楽しい遊びを次へ進めるように。


 拷問官がしゃがみ込む。


 鞄へ手を入れた。


 ユウの呼吸が浅くなる。


「……もう……」


 取り出されたのは、小さな刃物だった。


 細く。


 先端が鋭い。


 ユウは首筋の傷を思い出し、反射的に身を引いた。


「もう……本当にやめてください……」


「ん?」


 拷問官は刃を指先で弄ぶ。


「まだ何もしてねえだろ?」


「でも……」


 ゆっくり近づいてくる。


「……そこ、もう切ったじゃないですか……」


「誰が首だって言った?」


「……え?」


 正面まで来る。


 顎を掴まれた。


「顔上げろ」


「待って……」


 力任せに上を向かされる。


「やめてください……」


「動くな」


「何するんですか……」


 刃先が視界へ入った。


 顔の近く。


 頬なのか。


 耳なのか。


 それとも――。


 刃先が、ゆっくり左側へ移動した。


「……」


 ユウの呼吸が止まった。


 左目の前に、刃がある。


「……待って」


 反射的に顔を逸らそうとする。


 顎を掴む手に力が入った。


「動くなって言っただろ」


「そこは……」


 声が震えた。


「そこだけは……っ」


 刃先が近づく。


 ユウは必死に首を振ろうとした。


 押さえつけられた顔は、ほとんど動かなかった。


「お願い……」


 涙が溢れた。


「そこだけはっ……そこだけは……!」


 拘束された腕を引く。


 金具が肌へ食い込んでも構わなかった。


 少しでも遠ざかりたかった。


「やめて……お願い……」


 刃先がさらに近づく。


「何でもします……!」


 声が裏返った。


「言うこと聞きますから……だから……!」


 息が乱れる。


「そこだけは……やめてください……!」


 拷問官は答えない。


 ただ、ユウの顔を眺めていた。


 その目には、先ほどまで以上の高揚が浮かんでいる。


「嫌だ……」


 首を振る。


「嫌だ……嫌だ……」


 もう言葉を選ぶ余裕はなかった。


「お願い……何でもしますから……」


 涙で目の前が滲む。


「やめて……」


 刃先が左目のすぐ前まで迫った。


「嫌だ……嫌だ嫌だ……!」


 ユウは拘束を忘れたように身体を引こうとした。


「そこだけはっ……!」


 次の瞬間。


 左目に、これまで経験したことのない激痛が突き抜けた。


 ユウの口が大きく開いた。


 悲鳴は声にならなかった。


 頭の中が真っ白になる。


 何をされたのか。


 何が起きたのか。


 そんなことを考える余裕は、一瞬で消えた。


「っ……ぁ……!」


 全身が大きく震えた。


 息を吸おうとしても、喉がうまく動かない。


 左側の顔全体へ、形のない激痛だけが広がっていく。


 頭の奥まで突き抜けてくる。


「……ぁ……っ……」


 拘束された指が震えた。


 足にも力が入らない。


 声を出そうとしても、空気しか漏れなかった。


 目に入るものも。


 耳へ届く音も。


 何一つ意味を結ばない。


 痛い。


 ただ、それだけだった。


「……っ……ぁ……」


 頭が前へ落ちかける。


 顎を掴んでいた手が離れた。


 それでも顔を上げることができない。


「……いた……」


 ほとんど声にならない。


「いた……い……」


 かろうじて、それだけが漏れた。


 目がどうなったのか。


 何が見えているのか。


 そんなことを確かめる余裕はどこにもなかった。


 ただ、左側を中心に広がる激痛だけが全身を支配していた。


 息を吸う。


 うまく入らない。


 もう一度。


 それでも足りない。


「……助……け……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 意識が遠のいていく。


 手足から力が抜けていった。


「おいおい」


 拷問官の声が、ひどく遠くから聞こえた。


「もう落ちるのか?」


「……」


「まだ寝るなよ」


 肩を掴まれ、強く揺さぶられた。


 その振動だけで左側へ激痛が走る。


 ユウの口が開いた。


 声は出なかった。


 意識が一気に暗くなる。


 もう触らないでほしい。


 揺らさないでほしい。


 何もしないでほしい。


 それしか考えられなかった。


「お願い……」


 ほとんど息だけの声。


「もう……」


 続きが出ない。


 森の家。


 リリア。


 カイル。


 エステル。


 学院。


 頭の中へ浮かんでは、すぐに消えていく。


 帰りたい。


 助けてほしい。


 誰かにそばにいてほしい。


 それを言葉にする力さえ残っていなかった。


 残っていたのは、怖さと、もう何もされたくないという思いだけだった。


「……」


 ユウの頭がゆっくり垂れる。


 呼吸は浅い。


 全身から力が抜けていく。


 拷問官が何かを言った。


 もう意味は分からなかった。


 遠くで、足音が聞こえた気がした。


 一つではない。


 いくつもの足音。


 誰かが、こちらへ近づいてくる。


 それが本当に聞こえているのかさえ判断できない。


 ユウは顔を上げられなかった。


 左側を襲う痛みに耐えながら、途切れそうな意識へ必死にしがみつく。


 誰が来るのか。


 次に何をされるのか。


 もう考えることすらできなかった。


 ただ。


 これ以上はやめてほしい。


 その願いだけを残したまま、ユウの意識は暗闇へ沈みかけていた。

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