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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第五章 帝国侵攻編
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第100話 心核

 閉ざされた扉の向こうで、いくつもの靴音が止まった。


 左側を襲う激痛は消えず、腕には焼けるような熱が残っている。呼吸をするだけでも身体が重かった。


 やがて、扉が開いた。


「……」


 複数の人影が部屋へ入ってくる。


 その数を確かめる気力さえ残っていなかった。


「随分やったな」


 知らない声がした。


「まだ生きてんだろ?」


 返したのは拷問官だった。


 聞き慣れてしまった荒い声。


「もう十分だ、ガシス」


 ガシス。


 その名だけが、ぼんやりと耳に残る。


 それ以上考えることはできなかった。


「ちぇっ。これからだったのによ」


「目的を忘れるな」


「ああ?」


「壊し切れば使えない」


 何を話しているのか。


 意味が頭へ入ってこない。


 俯いたまま、浅く息をした。


「……もう……」


 声が掠れる。


「やめて……」


 誰も答えなかった。


 人が動く気配に続いて、何かが床へ置かれる音、紙をめくる音、金属の触れ合う小さな響きが聞こえる。


 どれも遠かった。


「心核を確認する」


「術式を」


「はい」


 胸元に、淡い光が浮かんだ。


「……っ」


 何かに触れられたわけではない。


 それでも、自分の内側へ視線を差し込まれたような感覚がした。


 指先がわずかに震える。


 胸の前に幾重もの術式線が重なり、その中心に透き通るような純白の輝きが浮かび上がった。


 表面には、細かな亀裂が走っている。


「……なるほど」


 研究者の声が変わった。


「想定以上だ」


「亀裂は?」


「十分入っている」


 別の者が近づく。


「精神もかなり消耗しているな」


「あれだけやりゃな」


 ガシスが楽しそうに答えた。


 短い沈黙。


「よくやった、ガシス」


「へっ」


 満足げな声が返ってくる。


「だろ?」


 ユウには、それが何を意味しているのか理解できなかった。


 亀裂。


 何の話をしているのか。


 どうしてガシスが褒められているのか。


 考えようとしても、思考が途切れる。


「……もう……帰りたい……」


 小さく零れた声を、誰も拾わない。


 研究者たちは術式を見続けていた。


「それにしても……」


「何だ?」


「この色だ」


 空気が変わる。


「ここまで濁りがない心核は見たことがない」


「これまでの被験者とはまるで違う」


「少なくとも、観測できる範囲に大きな破綻はない」


「だが、この純度は異常だ」


「記録を」


「はい」


 会話は途切れ途切れにしか耳へ入ってこない。


 白い何かについて話している。


 自分のことだという実感さえ薄かった。


「これなら試せる」


 誰かが言った。


「例の方法を?」


「ああ。抽出術式を接続する」


 黒い線が術式の中へ加わった。


「……」


 肩が小さく動く。


 理由は分からない。


 それを目にした瞬間、強い拒絶が全身を走った。


「……や……」


 掠れた声が漏れる。


 研究者たちは止まらない。


 黒い術式線が、純白の輝きを囲むように伸びていく。


「接続確認」


「流量は最低から」


「反応を記録しろ」


 言葉は聞こえている。


 意味までは追えない。


 ただ、嫌だった。


 何をされるのか分からない。


 それでも、もっと深い場所が逃げろと訴えている。


 ふいに、最近見るようになった嫌な夢のことが頭をよぎった。


 目が覚めると、何を見ていたのかほとんど思い出せない。それなのに、胸の奥にはいつも、言いようのない不安が残っていた。


 何か大切なものが、自分の中からなくなってしまうような。


 自分なのに、自分じゃなくなってしまうような。


 誰にも直接話せずにいた、あの不安。


 リリア。


 カイル。


 エステル。


 みんなと過ごした時間も、大切に思う気持ちも。


 もし、それさえ失ってしまったら。


 ――嫌だ。


 そんなことには、なりたくない。


 黒い術式線が濃くなる。


 なぜ今、あの夢を思い出したのか分からない。ただ、目覚めた後に残っていた恐怖が、再び胸の奥から込み上げてきた。


 ユウは必死に首を横へ振った。


「……やめて……」


 息が震える。


 その瞬間だった。


 右目から、一気に涙が溢れた。


 止める間もなく頬を濡らし、顎から雫が落ちていく。


「……っ……」


 自分でも止められなかった。


「お願い……」


 声まで震えていた。


 黒い線が濃くなり、右側の視界が涙で滲む。


「もう……何もしないで……」


 息が詰まる。


「お願い……」


「何でも……します……」


 研究者の手は止まらない。


「何でもしますから……」


 声が崩れていく。


「お願い……だから……」


 黒い術式線が増えていく。


 ユウは残された力を振り絞り、何度も首を横に振った。


「それだけは……っ!」


 掠れきっていた声が、一瞬だけ強くなる。


 けれど、すぐに息が詰まった。


 胸が激しく上下する。息を吸うことさえ苦しい。それでも、ユウは必死に言葉を繋ごうとした。


「それだけは……っ、やめて……ください……っ!」


 最後の言葉は震え、ほとんど声にならなかった。


 何をされようとしているのか、ユウには分からない。


 ただ、今まで大切にしてきたものが、自分の中から失われてしまう。


 その恐怖だけが、薄れかけた意識の中に残っていた。


「開始する」


 誰かの声と同時に、周囲の術式が動いた。


 意味は分からない。


 ただ、あれほど頼んでも止めてもらえなかったことだけは分かった。


 もう、始まってしまった。


 身体が強く震える。


「待って……」


 声が裏返った。


 右目から溢れる涙が、次々と頬を伝い、顎から落ちていく。


 ユウはなおも首を横に振った。けれど、目の前の術式は止まらない。


「お願い……待って……っ!」


 息が詰まり、しゃくり上げるたびに声が途切れる。


 もうどうすれば止めてもらえるのかも分からなかった。


 涙で滲んだ視界の向こうで、黒い術式線が純白の輝きへ近づいていく。


「やめて……お願い……やめて……っ……」


 声は嗚咽に変わり、言葉の終わりは聞き取れなかった。


 それでも、ユウは首を振り続けた。


 次の瞬間。


 胸のさらに奥へ、冷たい何かが触れた。


 息が止まる。


 そのまま、内側へ流れ込んできた。


 これまで受けたどの痛みとも比べものにならない苦痛が、全身を貫いた。


 ユウは口を大きく開いた。


 けれど、叫びは喉の奥で潰れた。


 傷ついた左目も、焼かれた腕も、その痛みさえ意識から遠ざかっていく。


 自分の最も深いところを無理やりこじ開けられ、そこへ異物をねじ込まれる。


 身体が激しく震え、視界が揺れた。


 何かを考える余裕が、一瞬で消えた。


 右目から涙が溢れ続ける。


 胸元の純白が、一気に強まった。


「反応した!」


「拒絶反応、急上昇!」


「出力維持!」


 研究者たちの声が重なる。


 喉だけが震えている。


 胸元の輝きが、流れ込む闇を拒むように強く押し返す。


 亀裂の走った心核は、なお白く輝いている。


 拘束された指が大きく震え、背中が椅子へ押しつけられた。


 身体は逃げようとする。


 逃げ場はない。


「まだ抵抗するのか」


「出力が上がっています!」


「外への流出は?」


「ありません!」


「続けろ」


 さらに闇が押し込まれた。


 純白の輝きが強まる。


 身体が大きく跳ねた。


 息を吸おうとしているのか、吐こうとしているのか。


 それさえ分からない。


 押し寄せる苦痛が意識のすべてを覆い、もはや身体のどこが痛んでいるのかさえ分からなくなっていた。


 森の家。


 リリア。


 カイル。


 エステル。


 学院。


 何かが頭に浮かぶ。


 形になる前に消えていく。


 音が遠ざかった。


 研究者たちの声も。


 ガシスの声も。


 何も聞こえなくなる。


 それでも、自分の奥に残った純白だけは、流れ込む闇を拒み続けていた。


 押し返している。


 受け入れまいとしている。


 必死に。


 ユウ自身の意識は、もう限界だった。


 右目の焦点が合わなくなる。


 頭がゆっくり垂れていく。


 何も見えなくなる直前。


 唇が、ほんのわずかに動いた。


「……だ……れ……か……」


 掠れた音だけが零れた。


 それが最後だった。


 そこで、現実の感覚は完全に途切れた。

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