第101話 走馬灯
何も聞こえなかった。
痛みもない。
身体の重さも。
左側を焼くように残っていた激痛も。
腕にこびりついていた熱も。
すべて、どこかへ消えていた。
「……」
ユウは、自分が目を開いているのかさえ分からなかった。
暗くはない。
けれど、明るいとも思えない。
何もない場所だった。
どこまでも続いているようで。
どこにも続いていないような場所。
その中に、自分だけが取り残されている。
そんな感覚だった。
やがて。
遠くに、小さな光が浮かんだ。
ぼんやりとした輝きはゆっくり広がり、やがて一つの景色へ変わっていく。
◇
森だった。
木々の隙間から朝の光が差し込んでいる。
鳥の声。
風に揺れる葉。
そして、小さな家。
まだ壁も屋根も整っていなかった頃の姿だった。
足りない板を直した。
雨が入り込まないよう、隙間を塞いだ。
一つずつ。
できることから手を加えていった。
椅子は一つ。
棚も大きくはない。
決して立派な家ではなかった。
それでも。
いつしか、そこは自分が暮らす場所になった。
朝になれば森へ出る。
薬草を採り。
必要な分を持って町へ向かう。
売ったお金で食べ物を買い、また森へ帰る。
同じような毎日。
静かな日々。
あの頃は、それを寂しいとは思っていなかった。
◇
本の匂いがした。
町の小さな古書店。
初めて入った時、棚に並ぶ本の多さにどこから見ればいいのか迷った。
文字は読める。
けれど。
そこに書かれていることの多くを、自分は知らなかった。
町のこと。
王国のこと。
人々の暮らし。
学院。
魔法。
ページをめくるたび、知らなかった世界が広がっていった。
もっと知りたい。
そう思った。
そして。
あの店で、一人の少女と出会った。
赤い髪。
明るい声。
リリア。
あの時はまだ。
その名前すら知らなかった。
◇
森の家の前。
今度は、一人ではなかった。
地面には何枚もの紙が広げられている。
リリア。
カイル。
エステル。
三人がいた。
計算。
王国についての知識。
属性の違い。
分からなかったものを、一つずつ教えてもらった。
カイルが何かを言えば、リリアが返す。
エステルが静かに補足する。
三人の声が、森の中で重なっていた。
「ありがとう。みんなが来てくれて、すごく助かったよ!」
自分の声が聞こえた。
三人を見送ったあと。
家の前に広げた紙を一枚ずつ揃えた。
椅子も。
棚も。
窓から見える木々も。
いつもと何も変わっていない。
なのに。
三人が帰ったあとの森は、いつもより静かに感じた。
◇
大きな門が見えた。
王立魔法学院。
初めて見上げた時の気持ちを覚えている。
ここで学びたい。
もっと魔法を知りたい。
知らないことを、もっと知りたい。
試験。
教室。
制服。
初めて会う生徒たち。
そして、男子寮の部屋。
机へ荷物を置いた。
店主からもらった薄い帳面も、そこへ置いた。
森の家とは違う場所。
それなのに。
ここも帰ってくる場所になるのだと思った。
帰る場所が増えた。
それが、嬉しかった。
◇
景色が次々に変わっていく。
灰牙狼。
四人で力を合わせた戦い。
世界樹。
見上げても先の見えない巨大な幹。
長い道を、みんなで歩いた。
怖いこともあった。
傷ついたこともあった。
思うようにいかず、悔しかった時もある。
けれど。
振り返れば。
そこにはいつも、誰かがいた。
◇
町の店。
小さなアクセサリーが並んでいた。
エステルが淡い青色の石を指し、自分に似合うと言った。
リリアも覗き込んでくる。
カイルまで横から何かを言っていた。
「そ、そんなに整ってないよ……」
そう返すと、三人が笑った。
「もう……」
恥ずかしかった。
困りもした。
けれど。
嫌ではなかった。
四人で町を歩いている。
ただそれだけの時間が。
楽しかった。
◇
教室。
食堂。
図書館。
廊下。
実技場。
何か特別なことがあったわけではない。
それでも。
そこには、いくつもの声が残っていた。
「ユウ!」
「おい、ユウ」
「ユウさん」
何度も。
何度も。
名前を呼ばれた。
最初は森で一人だった。
それなのに。
気づけば、誰かに名前を呼ばれることが当たり前になっていた。
◇
不意に。
景色が暗くなった。
『来ないで』
リリア。
『なんか、お前のこと信用できねえんだよ』
カイル。
『今は、以前のようにユウさんとお話ししたいとは思えません』
エステル。
「……」
あの時の苦しさが蘇る。
理由が分からなかった。
自分が何かしたのだと思った。
嫌なことを言ったのかもしれない。
知らないうちに、誰かを傷つけたのかもしれない。
何度考えても。
答えは見つからなかった。
けれど。
その前にあった時間まで、なくなったわけではない。
◇
『だから、何があってもみんなのことは守るよ。約束する!』
自分の声だった。
あの日。
失踪事件について四人で話していた。
自分がそう言うと。
カイルがすぐに返した。
一人だけで守るんじゃない。
四人で助け合うんだ、と。
リリアも。
エステルも。
同じように言ってくれた。
「……」
嬉しかった。
自分一人ではないのだと思えた。
本当に。
嬉しかった。
◇
いくつもの記憶が重なっていった。
森。
学院。
町。
三人の声。
笑った顔。
そして。
また、森の家が現れた。
燃えていない。
記憶の中に残っている、昔のままの姿。
不揃いな壁。
小さな窓。
一つだけの椅子。
扉の前には、三人がいた。
リリア。
カイル。
エステル。
「ユウ!」
リリアが手を振っている。
カイルが隣で何かを言っていた。
エステルもこちらを見ている。
「……」
行きたい。
そう思った。
みんなのところへ。
もう一度。
一緒にいたい。
そちらへ進もうとした。
けれど。
距離が縮まらない。
「待って……」
三人が遠ざかっていく。
「行かないで……」
追いかけたい。
それなのに、足を動かせない。
手を伸ばしたはずなのに。
何にも触れられなかった。
「僕も……」
白い霞が広がっていく。
「僕も、そっちに……」
届かない。
「待って……」
森が薄れていく。
三人の姿も。
「まだ……」
消えてほしくなかった。
森も。
学院も。
店主の古書店も。
三人と過ごした時間も。
名前を呼ばれた日々も。
全部。
「……戻りたい……」
どこへ戻りたいのか。
もう分からなかった。
森の家なのか。
学院なのか。
三人のところなのか。
ただ。
もう一度、誰かと話したかった。
もう一度。
自分の名前を呼んでほしかった。
「……リリア」
赤い髪。
「……カイル」
ぶっきらぼうな声。
「……エステル」
自分を「ユウさん」と呼ぶ声。
三人の姿が、白い霞の中へ消えていく。
やがて。
何も見えなくなった。
◇
再び。
音のない場所。
白い空間。
ユウは一人で立っていた。
さっきまで見えていた森も。
学院も。
三人の姿も。
もう、どこにもない。
「……」
その時。
遠くに何かが見えた。
人影だった。
いつからそこにいたのか分からない。
白い空間の向こう。
ただ一人。
こちらを向いて立っている。
「……?」
ユウは目を凝らした。
人影が、ゆっくり近づいてくる。
一歩。
また一歩。
少年だった。
黒い髪。
周囲が白一色だからこそ、その色だけがひどく鮮明に見えた。
顔を見ようとする。
けれど。
なぜか、その輪郭だけがはっきりしない。
ただ。
目だけは見えた。
黄金色。
そして。
その中心には、人のものとは違う細長い瞳孔が縦に伸びている。
「……」
ユウは動けなかった。
知らない姿だった。
見覚えもない。
それなのに。
目を逸らすことができなかった。
人とは違う瞳をしている。
それでも。
不思議と怖くはなかった。
理由は分からない。
ただ、その姿から目を逸らす気にはなれなかった。
少年は何も言わない。
静かに歩いてくる。
やがて。
数歩ほどの距離で立ち止まった。
「……」
黄金の瞳が、まっすぐユウを見ている。
怒っているようには見えない。
笑ってもいない。
敵意も感じなかった。
ただ。
そこにいる。
「……君は……」
声が小さく響く。
少年は答えない。
ユウは、その姿を見つめた。
黒い髪。
黄金色の、縦長の瞳。
何者なのか。
どうしてここにいるのか。
何も分からない。
それでも。
聞かなければならないような気がした。
「……誰……?」
問いかけが、白い空間へ落ちた。
しばらく。
何の音もしなかった。
黒髪の少年は、ただユウを見つめている。
そして。
その唇が。
ゆっくりと動いた。




