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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第五章 帝国侵攻編
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第102話 その腕の中で

 黒髪の少年の唇が、ゆっくりと動いた。


「……もう、無理をしなくてもいいんですよ」


「……え……?」


 静かな声だった。


 大きくもない。


 強く言い聞かせるような声でもない。


 白い空間の中で、その言葉だけが不思議なほどはっきり聞こえた。


 ユウは少年を見つめる。


「……君は……誰なの?」


 もう一度尋ねた。


 少年はすぐには答えなかった。


 黄金色の瞳が、静かにユウを映している。


「答えは、すぐに分かりますよ。……君なら」


「……」


「それより」


 少年がわずかに首を傾けた。


「ずっと、帰りたかったのでしょう?」


「……っ」


 ユウの目が見開かれた。


 森の家。


 学院。


 リリア。


 カイル。


 エステル。


 さっきまで流れていた景色が、一瞬だけ頭をよぎる。


「どうして……」


 声が震えた。


「どうして、それを……」


「知っています」


 迷いのない返事だった。


「……全部?」


「ええ」


「森の家のことも……?」


「覚えていますよ」


「……え?」


「リリアさんたちのことも、です」


 ユウは少年を見つめた。


 初めて見るはずだった。


 名前も知らない。


 なのに。


 森の家を知っている。


 三人のことを知っている。


 自分が何を失ったのか。


 何に怯えていたのか。


 何を守ろうとしていたのか。


 まるで。


 そのすべてを見てきたかのように。


「僕……」


 ユウは俯いた。


「帰りたい……」


 小さな声だった。


「みんなのところに……帰りたい……」


 少年は何も言わない。


 ただ、続きを待っていた。


「まだ、話したいこともあるし……」


 白い空間へ、言葉だけが落ちていく。


「僕が何かしたなら……ちゃんと謝りたいし……」


 リリアの冷たい目。


 カイルの疑うような声。


 エステルの距離を置いた言葉。


 思い出すだけで、胸が苦しくなった。


「前みたいに戻れなくても……」


 そこで。


 声が詰まった。


「せめて……ちゃんと話したかった……」


 どうして避けられたのか。


 何をしてしまったのか。


 それさえ聞けないまま。


 終わりたくなかった。


「それに……」


 ユウは自分の手を見る。


「約束したから……」


「約束、ですか?」


「みんなを守るって」


 声が掠れた。


「一人で全部やるって意味じゃないって……分かってたけど……」


 あの日。


 カイルも。


 リリアも。


 エステルも。


 四人で助け合うのだと言ってくれた。


「それでも……約束したんだ」


 少年は黙って聞いている。


「だから……まだ……」


 唇が震えた。


「まだ、終わりたくない……」


 白い空間は静かなままだった。


 少年は否定しない。


 無理に励ますこともしなかった。


 ただ。


 ユウの言葉が途切れるまで、そこにいた。


「……怖かった」


 ぽつりと零れた。


「一人になるのも……」


 リリアが部屋を出ていった時。


「家がなくなるのも……」


 炎に包まれた森の家。


「傷つけられるのも……」


 首。


 腕。


 左目。


 そして。


 心核へ流れ込んできた、あの冷たさ。


「全部……怖かった……」


 少年はしばらく黙っていた。


「……そうでしょうね」


 それだけだった。


 ユウはなぜか、それ以上の言葉を求めなかった。


「僕……」


 唇を噛む。


「ちゃんと、できてたのかな……」


「何を、ですか?」


「分からない……」


 自分でも。


 何を聞きたいのか分からなかった。


 学院へ行ったことなのか。


 三人と友達になったことなのか。


 守ろうとしたことなのか。


 最後まで助けを求め続けたことなのか。


「僕……間違ってなかったかな……」


 少年はすぐには答えなかった。


 黄金の瞳が。


 静かにこちらを見ている。


「何が正しかったのか。その答えは、一つではないでしょう」


「……」


「ですが」


 一歩。


 近づいた。


「君が誰かを大切にしてきたことまで、なくなるわけではありません」


「……」


「君が見てきたものは、すべて確かに残ります」


 もう一歩。


「森も。学院も。そこで過ごした時間も」


「……」


「交わした約束も」


 ユウは何も言えなかった。


「……本当に?」


「ええ」


 少年の声は変わらない。


「覚えていますから」


「……どうして……」


 問いかけても。


 少年は答えなかった。


 ただ。


 すぐ目の前まで歩いてきた。


「もう、いいんですよ」


「……何が……?」


「もう、頑張らなくていいんです」


「……」


「十分、頑張ったでしょう」


 その言葉を聞いた瞬間。


 身体から力が抜けた。


「あ……」


 膝が折れる。


 ユウは、その場に両膝をついた。


 俯いたまま。


 もう立ち上がろうとはしなかった。


「……疲れた……」


 声が漏れる。


「すごく……疲れた……」


 少年は何も言わない。


 ユウは。


 俯いたまま、小さく息を吸った。


「……もう少しだけ……」


 声が。


 かすかに震えた。


「そばにいてほしい……」


「……」


 少年は返事をしなかった。


 ただ。


 ユウの前で静かに身を屈める。


 同じ高さまで膝をついた。


 ユウが顔を上げる。


 黄金の瞳が、すぐそばにあった。


 少年は何も言わず。


 両腕を伸ばした。


 次の瞬間。


 ユウの身体が、その腕の中へ静かに包まれた。


「……っ」


 抱きしめられていた。


 強くはない。


 締めつけるようでもない。


 ただ。


 もう自分で身体を支えなくてもいいように。


 そっと包み込む抱擁だった。


 ユウの額が。


 少年の胸元へ触れる。


「……」


 温かかった。


 どうしてなのかは分からない。


 ここには何もないはずなのに。


 その温かさだけは。


 はっきりと感じられた。


 ユウは抵抗しなかった。


 むしろ。


 もう一人で立っていなくてもいいことに。


 ほんの少しだけ。


 安心していた。


 少年の服を掴む力さえ残っていない。


 ただ。


 その腕へ身を預ける。


「さあ、力を抜いて」


 頭のすぐ上から声がした。


「……」


「何も考えなくていい」


 静かな声。


「今は、それでいいんです」


 ユウはゆっくり目を閉じた。


 誰かを守る方法を探さなくてもいい。


 自分が何を間違えたのか考えなくてもいい。


 どうすれば元に戻れるのか。


 もう考えなくていい。


 ほんの少しだけ。


 何も背負わなくてもいい。


 そう思った。


 その時だった。


「……?」


 何かが。


 わずかに変わった。


 ユウは薄く目を開けた。


 右手の指先が淡く光っている。


 白い。


 小さな光。


 最初は一粒だけだった。


 やがて。


 指先の輪郭が、細かな輝きへ変わっていく。


「……僕……」


 ユウが腕を見る。


 白い粒が静かに舞い上がっていた。


 指。


 手のひら。


 腕。


 少しずつ。


 身体が光へほどけていく。


「……消えるの……?」


 少年は。


 抱く腕を緩めなかった。


「消えてしまうわけではありませんよ」


 ユウは少年を見る。


 黄金色の瞳は。


 変わらず静かだった。


「大丈夫です」


 不思議と、恐怖はなかった。


 つい先ほどまで。


 逃げ場のない不安と痛みに、心まで押し潰されそうだったのに。


 今は。


 その腕の中にいるだけで。


 もう力を入れる必要はないように思えた。


 白い粒が増えていく。


 足。


 肩。


 髪。


 身体の輪郭が。


 ゆっくりと失われていく。


 しかし。


 舞い上がった光は。


 どこか遠くへ消えてはいかなかった。


 少年の胸元へ向かっていく。


 一粒の純白の光が。


 黒髪の少年へ近づいた。


 触れる。


 その直前。


 白い輝きの内側へ、黒が滲んだ。


 暗い赤が混じる。


 瞬く間に。


 純白は禍々しい赤黒へ反転した。


「……」


 赤黒く変わった粒は。


 そのまま少年へ重なるように。


 内側へ溶け込んでいく。


 続いて。


 もう一粒。


 白い光が近づく。


 そして。


 触れる直前に。


 同じように、自ら赤黒く染まった。


 それからも。


 同じだった。


 ユウからほどけた純白の光は。


 一粒一粒。


 少年へ触れる直前に赤黒く反転していく。


 一つとして。


 白いまま重なるものはなかった。


 ユウはもう。


 その変化について尋ねなかった。


 ただ。


 少年の胸元へ。


 そっと額を預ける。


 身体が軽くなっていく。


 指先の感覚も。


 足の感覚も。


 少しずつ。


 遠くなっていく。


 その時。


 ふと。


 声が聞こえた気がした。


『ユウ!』


 明るい声。


『おい、ユウ』


 少しぶっきらぼうな声。


『ユウさん』


 静かな声。


「……」


 リリア。


 カイル。


 エステル。


 もう一度。


 自分の名前を呼んでくれた。


 そんな気がした。


 ユウの唇が。


 ほんのわずかに動いた。


「……みんなに……」


 声は。


 ほとんど息のようだった。


「もう一度……会いたかったな……」


 言い終えたあと。


 閉じた瞼の隙間から。


 たった一滴だけ。


 涙が零れた。


 もう痛くはない。


 恐怖に押し出された涙でもなかった。


 ただ。


 もう一度だけ。


 三人に会いたかった。


 少年は。


 すぐには答えなかった。


 ユウを抱いたまま。


 ほんのわずかに。


 その腕へ力を込める。


「……ええ」


 それだけだった。


 ユウは。


 少年の胸元へ、さらに顔を預けた。


 頬に残った一滴の跡も。


 やがて。


 淡い光へ変わっていく。


 頬が。


 閉じた瞼が。


 金色の髪が。


 一つずつ。


 純白の粒へほどけていった。


 そこから生まれた光も。


 少年へ触れる直前に赤黒く反転し。


 重なるように、その内側へ溶け込んでいく。


 やがて。


 腕の中に残るユウの輪郭は。


 あとわずかになっていた。


「……」


 最後まで。


 少年の腕は離れなかった。


 残った輪郭も。


 静かに純白の光へほどけていく。


 その光も。


 一粒ずつ赤黒へ反転しながら。


 少年へ重なっていった。


 やがて。


 最後の一粒だけが残った。


 小さな。


 純白の光。


 それが。


 ゆっくりと少年の胸元へ近づいていく。


 触れる直前。


 白に黒が滲んだ。


 暗い赤が混ざる。


 最後の純白も。


 禍々しい赤黒へ反転した。


 そして。


 静かに。


 少年へ重なるように、その内側へ溶け込んでいった。


「……」


 最後の光が重なったあとも。


 少年の腕は。


 すぐには下ろされなかった。


 抱擁の形を残したまま。


 ほんのしばらく。


 その位置に留まっていた。


 やがて。


 ゆっくりと。


 腕が下ろされる。


 少年は何も言わなかった。


 ただ。


 静かに顔を上げた。


 黒い髪。


 黄金色の、縦長の瞳。


     ◇


 その瞬間。


 現実。


 術式の中心で輝いていた純白の心核が、大きく揺らいだ。


「……!」


「拒絶反応が弱まった!」


「出力は維持しろ!」


「外への流出は?」


「ありません!」


「まだ出ないのか……?」


 研究者たちの声が飛び交う。


 闇は。


 なおも心核へ流れ込んでいる。


 これまで。


 純白の輝きは。


 それを必死に押し返し続けていた。


 しかし。


 今。


 初めて。


 白い光は。


 闇を押し返すのをやめた。

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