第94話 戻らない朝
翌朝。
ユウはいつもより早く目を覚ました。
窓の外は、まだ淡い朝の光に包まれている。
寝台から起き上がり、しばらくそのまま座っていた。
昨夜のことを思い出す。
帳面を開いても、一文字も書けなかった。
朝になれば、何か違っているかもしれない。
そう思って眠った。
「……行こう」
支度を済ませ、食堂へ向かった。
中へ入ると、すでに多くの生徒が朝食を取っている。
視線を巡らせる。
見慣れた姿はすぐに見つかった。
カイルとエステル。
二人は同じ席についている。
そこにリリアの姿はなかった。
「あれ……」
少しだけ辺りを見回した。
料理を取りに行っているわけでもなさそうだった。
昨日から元気がなかった。
もしかすると、本当に体調を崩したのかもしれない。
二人へ目を戻す。
昨日とは違う朝になっているかもしれない。
その期待は、まだ残っていた。
「……おはよう」
二人へ声をかける。
カイルがこちらを見る。
「……ああ」
短い返事だった。
昨日と変わらない警戒が、その目に残っている。
「リリア、いないけど……どうしたの?」
「知らねえよ」
カイルはそれだけ答えた。
エステルが静かに口を開く。
「体調が優れないのではないでしょうか」
「そっか……」
やっぱり。
昨日から様子がおかしかったのは、そのせいもあったのかもしれない。
「大丈夫かな」
そう呟いた時、カイルの眉がわずかに寄った。
「お前が気にすることか?」
「……え?」
「いや。何でもねえ」
言葉を失った。
エステルと目が合う。
「おはようございます、ユウさん」
「あ……うん。おはよう」
いつもの呼び方だった。
声には、はっきりと距離がある。
それ以上、会話は続かなかった。
「じゃあ……」
二人から離れ、一人分の朝食を受け取る。
今日は最初から食堂の端へ向かった。
昨日のように、同じ席へ行ってもいいか迷うことすらしなかった。
腰を下ろし、料理へ手を伸ばす。
昨夜思い浮かべた朝とは、まるで違っていた。
カイルの態度は昨日のまま。
エステルの声にも、以前の温かさは戻っていない。
リリアは姿さえ見せなかった。
「……そっか」
それだけ呟いて、食事を続けた。
◇
教室へ入って間もなく、教師から連絡があった。
「リリア・フェルナさんは風邪のため、今日は休みです」
思わず顔を上げた。
風邪。
昨日から元気がなかったことを思えば、不思議ではない。
むしろ、これまで無理をしていたのかもしれない。
昨日、自分が何度も話しかけたことまで思い出す。
「……悪かったかな」
体調が悪い時に何度も声をかけられれば、嫌になることだってある。
少なくともリリアについては、昨日の態度にも理由があったのかもしれない。
午前の授業が始まる。
教師の声はいつも通り教室に響いている。
板書を写しながら、授業へ意識を向けようとした。
何度か文字を書き損じ、そのたびに脇へ書き直す。
先ほどの説明を聞き逃していたことにも気づいた。
「……」
一度、筆を置いた。
こんなことは、ほとんどなかった。
もう一度教本へ目を落とす。
今は授業中だ。
考えるのは後にしよう。
そう決めても、昨日からの出来事は簡単には頭から離れてくれなかった。
休憩時間になった。
隣の生徒が教本を閉じる。
以前なら、授業で分からなかったところを互いに確認することもあった。
「ねえ、さっきのところなんだけど――」
声をかける。
生徒は振り返った。
「何?」
「先生が最後に言ってたところ、聞き逃しちゃって」
「ああ」
教本へ目を落としたあと、相手は困った顔をした。
「悪い。他のやつに聞いて」
「……うん。分かった」
それだけだった。
怒られたわけではない。
ただ、これ以上話す必要はないとでも言うような距離を感じた。
その後も、必要なこと以外で声をかけてくる生徒はいなかった。
次の授業へ向かう人の流れの中、一人で教本を抱え直す。
昨日よりも、周囲との距離が広がっている。
理由が見つからないほど、自分に何か原因があるのではないかという思いが強くなった。
◇
昼になっても状況は変わらなかった。
一人で食事を取る。
カイルとエステルの席へは行かなかった。
近づけば、また嫌な思いをさせてしまう。
今はそう考える方が楽だった。
リリアの姿は、当然そこにもない。
風邪なら、今頃は休んでいるのだろう。
早く良くなればいい。
そう思った。
周囲には大勢の生徒がいる。
楽しそうに話している声も聞こえる。
それなのに、これまで当たり前にあった会話が、自分の周りからだけ消えていた。
午後の授業でも、教師は普段通りだった。
質問すれば答えてくれる。
名前もこれまで通り呼ばれる。
そこで初めて、朝から感じていた違和感がはっきりと形になった。
先生たちは、いつも通りだ。
違っているのは、生徒たちだけだった。
「……?」
一瞬、何かがおかしいと思った。
ただ、教師と友人ではそもそもの関係が違う。
カイルやエステル、それにほかの生徒たちとの間にだけ何かがあったとしても、不思議ではない。
リリアについては、風邪で休んでいると聞いている。
結局、自分が原因に気づいていないだけなのかもしれない。
その考えを振り切るだけの理由も、まだ見つからなかった。
◇
午後の授業が終わった。
生徒たちが次々と教室を出ていく。
ゆっくりと鞄へ教本をしまった。
今日は最初から、カイルとエステルのところへ行こうとはしなかった。
迷惑をかけたくなかった。
教室を出る。
男子寮へ戻ろうと廊下を歩いていた時だった。
『……ユウ』
足が止まった。
「……え?」
声がした。
すぐそばではない。
頭の奥へ、直接届いたような声だった。
周囲を見回す。
廊下には生徒たちが行き交っている。
今の声に反応した者はいない。
『ユウ……聞こえる?』
「リリア……?」
聞き間違えるはずがなかった。
リリアの声だった。
念話。
そう気づくまでに、少し時間がかかった。
リリアが念話を使うところを、一度も見たことがない。
「どうして……」
『お願い。助けて』
息を呑んだ。
「どうしたの?」
『追憶の都にいるの』
「追憶の都?」
朝から風邪で休んでいたはずだった。
『朝は具合が悪かったんだけど……どうしても今日じゃないと駄目な予定があって……』
「大事な予定……?」
『うん……それで、来たんだけど……』
声が途切れる。
その向こうで、浅い呼吸が聞こえた。
『魔物が出てきて……今、物陰に隠れてるの……』
「怪我は?」
『まだ大丈夫……』
リリアが息を潜めるように声を落とした。
『でも、ずっと近くを探してて……ここから動けないの』
表情が強張った。
「今、どこ?」
『古い神殿の近く……』
「分かった」
追憶の都まで来なければならない、大事な予定。
何のことだろう。
風邪で学院を休んでまで向かわなければならなかったのか。
それに、リリアは念話を使えたのだろうか。
疑問はいくつも浮かんだ。
今は魔物に見つからないよう身を隠している。
詳しいことを聞き続ける方が危ないかもしれない。
『ユウ……』
弱い声が届く。
『助けて……』
「分かった。今行く」
『……ありがとう』
そこで声は途切れた。
「リリア?」
もう声は届かなかった。
その場に立ち尽くす。
迷ったのは、ほんのわずかだった。
詳しいことは、助けたあとで聞けばいい。
どんな予定だったのかも。
どうして念話が使えたのかも。
今はそれより、リリアが危ない。
踵を返した。
向かう先は、男子寮ではなかった。




