第90話 名前
リリアが目を開けた時、最初に感じたのは背中に触れる椅子の冷たさだった。
「……っ」
身じろぎしようとして、身体が動かないことに気づく。
両手は椅子の後ろで縛られ、足も固定されていた。
薄暗い部屋。
石造りの壁。
窓はなく、机の上に置かれたランプだけが周囲を照らしている。
「ここ……どこ……?」
ぼんやりした頭で、最後の記憶を辿る。
学院を出た覚えはない。
放課後、校舎から寮へ戻ろうとしていた時だった。
学院へ荷を届けに来た者のような格好をした男に呼び止められた。
『フェルナさんですね。ご家族から急ぎの伝言を預かっています』
そう言われた。
家族。
その言葉に足を止めたところまでは覚えている。
近くには、幌をかけた荷車が一台止まっていた。
対抗戦での一件以来、学院へ出入りする者への確認は以前より厳しくなっていた。
だが、男の胸元には学院の紋章と番号が刻まれた木札が下げられていた。外部から訪れ、門で身元と用件を確認された者に渡される札だ。
少なくとも、リリアの目には正規の荷届け人にしか見えなかった。
男は、人通りの少ない場所で話したいと言った。
学院の敷地内だった。
それに、男の格好にも不自然なところは見当たらなかった。
だから、ほんの少しだけならと後をついていった。
何かがおかしいと思ったのは、その直後だった。
物陰へ入った瞬間、背後から口元を塞がれる。
「――っ!」
声を上げるより早く、首筋に強い衝撃が走った。
視界が揺れる。
膝から力が抜けた。
誰かに身体を支えられた感覚を最後に、意識が途切れた。
その後、意識を失ったリリアは幌付きの荷車へ運び込まれた。
荷台の奥には、積み荷に紛れて外から見えない空間が作られていた。
男は入ってきた時と同じ木札を胸元に下げたまま、荷車とともに門を出た。
学院側から見れば、荷を届け終えた者が帰っていくだけだった。
「起きたか」
正面から声がした。
リリアは顔を上げる。
黒い外套を着た男が一人、机の向こうに座っている。
その後ろにも二人。
見覚えのない顔だった。
「誰なの……?」
「質問するのはこちらだ」
男が立ち上がる。
「確認だ。名前を言え」
「……リリア・フェルナ」
「王立魔法学院の一年生」
「だったら何?」
男は答えず、机の上の書類をめくった。
「水属性を得意とし、風属性も扱う。学院ではユウ・リシェル、カイル・フェルド、エステル・ヴァレインと行動することが多い」
リリアの表情が固まった。
「なんで……」
「こちらにはこちらの調べ方がある」
男は書類を閉じた。
「心配するな。我々の目的は、お前ではない」
「じゃあ、何なの?」
「極秘の研究だ」
淡々とした声だった。
「貴様は余計なことを考える必要はない。我々の質問に答え、指示に従えばいい」
「従うわけないでしょ」
間を置かず返す。
男はしばらくリリアを見た。
「そうか」
次の瞬間。
乾いた音が部屋に響いた。
「――っ!」
背中に鋭い痛みが走る。
リリアは息を詰まらせた。
後ろに立っていた男の手には、細い鞭が握られていた。
「……何、するのよ……!」
「忠告だ」
「こんなのが?」
「今のはな」
男は何事もなかったように書類へ目を戻す。
「もう一度言う。我々が探しているのは、ある条件を満たす人間だ」
「……」
「一つ。魔法を扱えること」
男が指を立てる。
「そしてもう一つ」
リリアへ視線を戻した。
「純粋な心の持ち主であること」
「……純粋な、心?」
「そうだ」
「そんなの……どうやって分かるのよ」
「最終的に判断するのは我々だ」
男が答える。
「貴様には候補を挙げてもらう」
「だったら自分たちで探せばいいじゃない」
再び鞭が振られた。
「っ……!」
今度は肩から背中へ痛みが走る。
リリアは歯を食いしばった。
「貴様は学院の人間を知っている」
男が近づく。
「毎日同じ教室で過ごし、共に訓練し、依頼へ赴く。外から調べる我々より、はるかによく知っているはずだ」
「知らない」
「まだ誰の名前も聞いていないが?」
「……」
「心当たりがあるようだな」
リリアは顔を背けた。
「ない」
「嘘はつくな」
「嘘じゃない」
「なら、こちらを見ろ」
机の上へ、一枚の紙が置かれた。
何気なく目を向けたリリアの呼吸が止まる。
「……え?」
そこに書かれていたのは、家族の名前だった。
暮らしている場所。
家の位置まで。
「なんで……」
声が震えた。
「なんで知ってるの……?」
「言ったはずだ。我々には我々の調べ方がある」
「家族は関係ないでしょ」
「今はな」
男の返事は冷たかった。
リリアが睨みつける。
「手を出したら……!」
「何をする?」
「……っ」
「お前はここから動くことすらできない」
男の指が紙の上をなぞった。
「そして我々ならば、貴様の家族など一瞬にして灰にできる」
「やめて」
「家も」
「やめてよ」
「家族も」
「やめて!」
椅子が大きく揺れた。
「家族には何もしないで!」
「なら答えろ」
男は声を荒らげなかった。
その平静さが、かえって恐ろしかった。
「貴様の知る中で、条件に最も近い者の名前を言え」
「……」
「魔法を扱うことができ、それでいて純粋な心を持つ者だ」
リリアは唇を噛んだ。
「いない」
「嘘をつくな」
「いないって言ってるでしょ……!」
鞭の音。
「っ……!」
背中の痛みに身体が縮こまる。
それでも、リリアは口を閉ざした。
「もう一度だけ聞く」
男が紙を持ち上げる。
「名前を言え」
「……」
「黙れば、この中の誰かがどうなるか試してみるか?」
「……やめて」
「我々には簡単なことだ」
「お願い……」
「なら吐け」
視界が滲んだ。
頭の中に、何人もの顔が浮かぶ。
学院の友人。
クラスメイト。
そして。
いつも誰かのことばかり気にして。
困っている人を見れば足を止めて。
自分にできることを探そうとする少年。
浮かんでほしくなかった。
今だけは。
絶対に。
「……いない」
震える声で、もう一度言った。
男はしばらくリリアを見つめていた。
やがて。
「家族より大切か?」
「……っ」
「その者は」
リリアの指先が震えた。
「違う……」
「いるのだろう?」
「違う」
「純粋な心を持った友人が」
「……」
「名前を言え」
涙が頬を伝った。
言えば、きっと何かが起きる。
分かっている。
だから言いたくない。
それでも。
机の上には家族の名前がある。
「……家族には」
声が掠れた。
「何もしないで……」
「貴様次第だ」
リリアは目を閉じた。
「……ユウ」
「聞こえない」
「……ユウ・リシェル……」
男の目がわずかに動いた。
後ろにいた一人が、すぐに別の書類を開く。
「ユウ・リシェル」
男はその名を確かめるように繰り返した。
「魔法を扱えるな?」
「……うん」
「お前と親しい?」
リリアは答えられなかった。
沈黙が落ちる。
男はそれ以上尋ねなかった。
「十分だ」
机へ戻り、書類の余白にペンを走らせる。
静かな部屋に、紙を擦る音だけが響いた。
そこへ新たに、一つの名前が書き加えられた。
ユウ・リシェル。




