第87話 消えた人々
翌朝。
王都では、商人たちが店先へ品を並べ、荷馬車が石畳を行き交い始めていた。
そんな中。
一軒の宿で、主人が二階へ続く階段を見上げていた。
「……まだ戻ってないのか?」
「はい」
帳場に立つ女性が、小さく頷く。
「昨日の夕方に出かけたきりです」
宿の主人は眉を寄せた。
二階の一室。
そこを借りているのは、王都へ仕事を探しに来た若い男だった。
滞在して十日ほど。
昼間は町へ出て、夕方には宿へ戻る。
それが毎日のように続いていた。
「荷物は?」
「全部あります」
「金も?」
「部屋に残っています」
主人の表情が変わった。
「見てくる」
二階へ上がり、部屋の扉を開ける。
寝台。
机。
壁際の鞄。
昨日までと変わった様子はない。
机には読みかけの本が置かれ、その隣には小さな革袋まで残っていた。
旅へ出たようには見えない。
長く留守にする支度をしたようにも見えない。
ただ。
本人だけがいなかった。
◇
「昨夜から帰っていない、と」
「そうなんです」
昼前。
王都の一角にある詰所で、宿の主人が衛兵へ事情を説明していた。
「その男について、分かることを教えてください」
「そうですね……歳は十八か十九くらいだったと思います。王都には仕事を探しに来たと言っていました。うちへ泊まり始めて、十日ほどです」
衛兵は話を聞きながら、帳面へ筆を走らせる。
「王都に知り合いがいるという話は?」
「聞いたことはありません」
「誰かと揉めたり、追われているような様子はありませんでしたか?」
「いえ。そういうのは一度も」
「普段と違う様子は?」
主人は考え込んだ。
「昨日も、いつも通りだったと思います。夕方に少し出てくると言って……それきりです」
衛兵が筆を止める。
「ほかに何か、気づいたことはありませんか?」
「気づいたこと……」
しばらく考えたあと、主人が顔を上げた。
「……魔法は使えたと思います」
「魔法を?」
「ええ。前に荷物を運ぶのを手伝ってもらった時、風の魔法を使っていました」
衛兵の視線が、帳面へ落ちる。
「分かりました。こちらでも確認します。本人が戻った場合は、すぐ知らせてください」
「お願いします」
主人が頭を下げ、詰所を出ていく。
扉が閉じたあと。
向かいの机にいた別の衛兵が顔を上げた。
「またか?」
「……また?」
「ああ」
一冊の帳面が机の上へ置かれる。
頁を開く。
そこには、数日前に受け付けた別の届けが記されていた。
二十歳前後の女性。
王都の仕立屋で働いていた。
仕事を終えて店を出たあと、家へ戻っていない。
部屋の荷物はそのまま。
金品も残されていた。
「こっちは?」
「水魔法を使えたらしい」
衛兵は黙った。
「偶然じゃないのか?」
「まだ二人だ」
「そうだけどさ」
男は椅子へ背を預ける。
「こんな時期に、今度は王都で人が消える。嫌な感じがするだろ」
もう一人の衛兵は、考えてから帳面を閉じた。
「……だからといって、今の段階で帝国と結びつけるのは早い」
「分かってるよ」
そう答えながらも、男は納得していない様子だった。
外から鐘の音が聞こえる。
いつも通りの王都。
行き交う人々の声も変わらない。
この時点では、二人の失踪に共通した理由があるのかさえ分かっていなかった。
◇
午後。
王都の市場は多くの人で賑わっていた。
「これ、三つください」
「はいよ」
露店の店主が果物を袋へ入れる。
その前に立っていた少年が代金を渡した。
年齢は十七ほど。
肩から小さな鞄を下げている。
「今日は早いな」
「今日は授業が午前までだったんです」
「そうなのか」
「はい」
少年はそう言って笑った。
王都の小さな私塾で、魔法を学んでいる生徒だった。
袋を鞄へ入れる。
「じゃあ、また」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「はい」
少年は人混みの中へ消えていった。
◇
夕方。
空が赤く染まり始める。
市場の店々が、一つずつ片付けを始めていた。
昼間の少年が通う私塾に、一人の女性が駆け込んできた。
「先生!」
入口近くにいた教師が振り返る。
「どうされました?」
「息子が……まだ家に帰っていないんです」
「まだ帰っていない?」
教師の表情が変わった。
「今日は昼前には、ここを出ています」
「市場へ寄ると言っていたんです」
「市場には確認しましたか?」
「はい。いつも果物を買う店にも行きました。でも、店の方は昼過ぎには帰ったと……」
教師は黙り込んだ。
「そのあと、どこへ行くか何か聞いていませんか?」
「何も……」
女性の声が震える。
「いつもなら、とっくに帰っている時間なんです」
教師は入口の外へ目を向けた。
暮れ始めた通りを人々が行き交っている。
少年の姿はない。
「……衛兵へ知らせましょう」
その日の夜。
王都の詰所へ、三件目の失踪届が持ち込まれた。
十七歳。
私塾で魔法を学ぶ少年。
火と風の魔法を扱うための訓練を受けている。
担当の衛兵は記録を書き終えたあと、最初の二件が記された頁へ目を戻した。
三人とも若い。
三人とも、魔法を使える。
そして三人とも、日常の途中で突然足取りが途絶えている。
誰かと争う姿を見た者はいない。
助けを求める声を聞いた者もいない。
誰かに連れ去られたという証拠もなかった。
「……三人目か」
衛兵が呟いた。
向かいにいた男も、今度は何も言わなかった。
しばらくして、三件の記録が一つの机へ集められる。
「市場周辺にも、人相と服装を伝えておこう」
「ああ」
「明日の朝までに戻らなければ、この三件はまとめて調べた方がいいかもしれない」
その言葉に、もう一人の衛兵が静かに頷いた。
窓の外では、王都の灯りが一つ、また一つと点り始めていた。
三人がどこで姿を消したのか、その瞬間を見た者は誰もいなかった。




