第86話 国境からの報せ
王都へ続く街道を、一頭の馬が駆けていた。
朝靄の残る道に、乾いた蹄の音が響き続ける。
馬上の騎士は前方を見据えたまま、手綱を強く握っていた。
胸元には、赤い封蝋で閉じられた一通の書簡。
国境守備隊から送られた、緊急報告だった。
◇
「……帝国軍が?」
王立魔法学院。
学院長室へ集められた教師たちの間に、低い声が落ちた。
机の上には、王国側から学院へ届けられた正式な通達が置かれている。
クラリスも、その場に呼ばれた教師の一人だった。
「国境を越えたわけではないのですね?」
「現時点ではな。ただし、通常の演習とは考えにくい規模だと報告されている」
室内が静まった。
誰もが同じ可能性を思い浮かべている。
まだ口にするには早い。
「王国軍と騎士団は、すでに警戒態勢へ移り始めている」
「では、学院も?」
「ああ」
学院長は教師たちを見渡した。
「生徒たちを必要以上に混乱させるつもりはない。ただし、学院外での活動については当面の間、制限を設ける」
「学院冒険者の活動も、ですか?」
クラリスが尋ねる。
「国境方面へ近づく可能性のある活動はすべて見合わせる。遠方へ出る依頼についても当面は許可しない」
「分かりました」
「生徒から尋ねられた場合、事実を伏せる必要はない。ただし――」
学院長は一度言葉を切った。
「帝国が侵攻すると断定できる段階ではない。憶測を事実として語らぬよう徹底してくれ」
◇
「今日は先生たち、ずっと忙しそうだね」
昼休み。
ユウは食堂の窓から中庭を眺めていた。
朝から何人もの教師が中央棟を出入りしている。
「職員室にも人が集まってたよ」
リリアがパンを半分に分けながら言った。
「何かあったのかな」
「対抗戦の後始末じゃないか?」
カイルが答える。
「まだ調査も続いてるんだろ」
「それもあると思います」
エステルが中央棟の方角へ目を向ける。
「ですが、今日の慌ただしさは少し違うように見えます」
「エステルもそう思う?」
「ええ」
ユウも頷いた。
対抗戦で起きた一連の事件については、今も学院と冒険者ギルドの調査が続いている。
それでも、今日の慌ただしさは別のものに思えた。
「……何だろう」
「ユウ?」
リリアの声に振り向く。
「ごめん。ちょっと気になって」
「考えるのはいいけど、ご飯まで忘れるなよ」
カイルが言った。
「忘れてないよ」
「さっきから全然減ってないぞ」
自分の皿を見る。
「……本当だ」
「ほら」
リリアが笑った。
ユウもつられて笑い、再び食事へ手を伸ばした。
◇
午後。
授業開始の鐘が鳴って間もなく、クラリスが教室へ入ってきた。
「授業を始める前に、皆さんへ伝えておくことがあります」
ざわめきが収まる。
「本日より、学院外での活動について一部制限を行います」
生徒たちの間から声が上がった。
「何かあったんですか?」
「静かにしてください」
声が収まるのを待ち、クラリスは続ける。
「現在、ヴァルグレア帝国との国境付近で、帝国軍の大規模な集結が確認されています」
教室から音が消えた。
ユウは自然と背筋を伸ばした。
ヴァルグレア帝国。
かつて同じ国から分かれ、内戦の後も国境で衝突した時代があったことは、授業でも学んでいる。
それまでは、本や地図の中で知るだけの国だった。
一人の生徒が、ためらいがちに手を上げた。
「先生……戦争になるんですか?」
「現時点で、帝国軍が王国領へ侵入した事実は確認されていません」
クラリスは、はっきりと告げた。
「したがって、今この時点で戦争が始まったということでもありません」
教室の緊張が、わずかに緩む。
「ですが、国境へ集まっている兵力は通常の軍事演習としては非常に大きな規模です。王国軍と騎士団も警戒を強めています」
再び、生徒たちの表情が硬くなる。
「学院としても不測の事態に備えます。当面の間、遠方での活動には制限が入ります。学院冒険者としての活動についても、国境方面へ近づくものはすべて見合わせます」
ユウは横へ視線を向けた。
リリアもこちらを見ている。
カイルは腕を組み、エステルも黙ってクラリスの話を聞いていた。
「確認されていない噂や憶測に振り回されず、今まで通り学院で学んでください。状況に変化があれば、改めて伝えます」
今まで通り。
教室も、机も、窓の外の景色も変わっていない。
それでも、先ほどまでとは何かが違っていた。
◇
授業を終え、四人で廊下を歩く。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……本当に来るのかな」
最初に沈黙を破ったのはリリアだった。
「帝国軍」
「分からない」
カイルが答える。
「まだ国境は越えてないって話だからな」
「ですが、何の意図もなく大軍を集めるとは考えにくいです」
エステルの言葉に、会話が止まる。
ユウは廊下の窓から外を見た。
学院の向こうには、いつものリーヴェルの街並みが広がっている。
行き交う人々。
荷馬車。
店先から聞こえる声。
遠くに見える城壁。
これまでと変わらない景色だった。
「もし本当に何か起きても、その時に僕たちができることを考えよう」
三人がユウを見る。
「今はまだ、分からないことの方が多いよね?」
自分の考えを確かめるように続ける。
「だから、まだ起きていないことまで悪い方へ決めつけても仕方ないと思う」
一度、窓の外へ目を向けた。
「でも、状況が変わった時にすぐ動けるように、今できることはしておきたい」
カイルが小さく息を吐いた。
「結局、お前はいつも通りだな」
「いつも通り?」
「分からないことがあったら、分かるところから考える」
「あ……」
「確かにユウさんらしいですね」
エステルの表情がわずかに和らぐ。
「そうかな」
「そうだよ」
リリアも頷いた。
「今の私たちにできることまでなくなったわけじゃないもんね」
「うん」
ユウは三人を見た。
「まずは、明日もちゃんと授業を受けよう」
「そこかよ」
「大事だよ?」
「まあ、間違ってはいないな」
四人は再び歩き始めた。
学院の外には、いつもと変わらない夕暮れが訪れようとしていた。




