第63話 忍び寄る影
リーヴェル王国から遠く離れた場所。
高い城壁に囲まれた都市は、すでに夜を迎えていた。
大通りにはまだ人の姿があり、建物の窓から漏れる灯りが石畳を淡く照らしている。
少なくとも、街の様子だけを見ればいつもと変わらない夜だった。
その中心にそびえる巨大な城。
人通りの少ない一角にある部屋で、三人の男が机を囲んでいた。
机の上には、何枚もの地図が広げられている。
山脈。
街道。
いくつもの都市。
そして、リーヴェル王国との国境線。
「国境付近の部隊は?」
低い声が落ちた。
机の前に立つ男は、黒い軍服の上から長い外套を羽織っていた。
胸元には、いくつもの徽章が並んでいる。
「予定通りです」
向かい側に立つ将校が答えた。
「第一、第二部隊ともに指定された地域への移動を開始しています。ですが、王国側から見れば通常の配置換えと判断できる範囲でしょう」
「それでいい」
男は地図へ視線を落とした。
「今は目立つ必要がない」
「はい」
指先が国境線をゆっくりとなぞる。
だが、その指が線を越えることはなかった。
「物資は?」
「七割ほど。残りも数日中には指定場所へ届く予定です」
「遅らせるな」
将校が頷いた。
部屋の端には、もう一人の男が立っている。
軍服ではない。
灰色の上着に身を包み、それまで黙って二人のやり取りを聞いていた。
黒い軍服の男がそちらを見る。
「王国内部は」
「問題ありません」
灰衣の男が答える。
「いくつかの場所で準備を進めています。今のところ、予定からの遅れはありません」
「例の学院は?」
「そちらも順調です」
男は懐から小さな紙片を取り出し、机の上へ置いた。
書かれているのは、ほんの数行だけ。
黒い軍服の男が目を通す。
「学年別対抗戦……」
「現在、一年生の対抗戦が行われています」
「警戒は?」
「教師の多くが実技場周辺に集まっています。ただし、学院全体の警備が弱くなっているわけではありません」
「当然だ」
紙片が机へ戻される。
「余計なことはさせるな。疑われれば、それまでだ」
「承知しています」
「現地には?」
「必要なことしか伝えていません」
灰衣の男は淡々と答えた。
「指定されたものを、指定された場所へ。それだけです」
「全体の目的は」
「知らせていません」
「その方がいい」
黒い軍服の男が短く答える。
将校が二人の顔を見た。
「……学院にまで手を入れる必要があるのですか?」
「何が言いたい」
「軍事施設ではありません。いるのは学生がほとんどです」
少しだけ沈黙が落ちた。
「だからこそ、警戒の仕方が違う」
男の指が、机の端に置かれていた別の地図へ移る。
そこには学院と、その周囲の建物が細かく記されていた。
「王国はあそこを教育の場として扱っている。だが、魔法や術式に関する資料が集まり、将来王国を支える者たちも育つ」
「……」
「正面から扉を壊すより、内側に小さな綻びを作る方が容易なこともある」
将校はそれ以上何も言わなかった。
「もっとも、まだ動く時ではない」
黒い軍服の男が椅子へ腰を下ろす。
「準備が整う前に何か起こせば、こちらの存在を知らせるだけだ」
「設置には、もう少し時間が必要です」
「どれほどだ」
「対抗戦の終盤までには、すべて揃えられるかと」
「なら問題ない」
部屋に静けさが戻った。
将校は再び国境の地図を見る。
以前より僅かに増えた駒。
指定地点へ運ばれている物資。
そして、王国内部で同時に進められている何か。
「王国側が気づけば、動くでしょう」
「ああ」
黒い軍服の男は否定しなかった。
「いずれはな」
「その時は?」
男はしばらく答えなかった。
代わりに、一つの駒へ指を伸ばす。
国境から少し離れた位置にあったそれを、僅かに前へ動かした。
「だからこそ、気づかれる前に整える」
一つ。
続けて、もう一つ。
駒が少しずつ国境へ近づいていく。
「急ぐ必要はない」
指が離れた。
「急げば、それだけ痕跡が残る」
灰衣の男が一礼した。
「では、学院についても予定通りに」
「ああ」
黒い軍服の男は学院の地図へ視線を移した。
「まだ大きく動かすな」
「承知しました」
「今は――」
地図の中央。
実技場と思われる場所に、指先が触れる。
「何も知らず、対抗戦を続けていればいい」




