第55話 残された氷
女性の姿が消えたあとも、《命の泉》には先ほどまでと変わらない水音だけが響いていた。
その傍らには、異質なものが残されている。
頭部を失ったまま、透明な氷の中に閉じ込められたガレスの身体。
「……ガレスさん」
リリアの声が、かすかに漏れた。
マルクは何度か呼吸を整えると、生徒たちの前へ出た。
「皆さん、氷には近づかないでください」
声にはまだ緊張が残っている。
「どのような魔法なのか分かりません。触れたことで何が起きるのかも判断できませんから」
誰も近づこうとはしなかった。
近づけなかった、という方が正しかった。
目の前で起きたことを、まだ現実として受け止めきれない。
「《命の泉》の観察は中止します」
マルクはそう告げてから、ガレスへ目を向けた。
「……今ここで、ガレスさんを動かすことはできません。帰還後、すぐに冒険者ギルドへ報告します。場所と状況を伝え、回収をお願いします」
「……ここに、置いていくんですか」
カイルが俯いたまま尋ねる。
「……はい」
返答までに、わずかな間があった。
「今の私には、皆さんを無事にここから連れ帰る責任があります。それに、ガレスさんほどの方を一瞬で倒した相手の魔法です。軽率に触れるわけにはいきません」
カイルは何も返さなかった。
握られた拳だけが僅かに震えている。
リリアは目元を拭っていた。
エステルも杖を胸元へ寄せたまま、氷の中のガレスを見つめている。
ルークも黙っていた。
いつもなら誰より先に声を上げるのに、今は何も言わない。
アレンも、レオンたちも同じだった。
マルクは地図を取り出し、現在地を確認する。
ガレスが残されている場所。
氷の状態。
泉との位置関係。
必要な情報を一つずつ確かめると、地図を閉じた。
「……必ず、冒険者ギルドの方に連れ帰ってもらいます」
その言葉を聞いて、ユウはガレスへ目を向けた。
遠征が始まってから、いつも先頭にいた。
危険な場所へ入る時は真っ先に周囲を確認していた。
魔獣を相手にした時には、自分たちが戦える状態なのかを見極めてくれた。
戦いが終われば、良かったところも、気をつけるところも教えてくれた。
ついさっきまで、そこにいた人だった。
ユウはその場で姿勢を正し、ガレスへ向き直った。
「……ガレスさん」
声にしてから、言葉が続かなかった。
何を言えばいいのか分からない。
俯いたまま息を整え、ようやく一言だけ口にする。
「ありがとうございました」
そして、深く頭を下げた。
その隣へリリアが並び、黙って同じように頭を下げる。
カイルも続いた。
エステルも。
やがてアレンたちが並び、レオンたちも静かにガレスへ向き直った。
十二人全員が、氷の中に残されたガレスへ頭を下げていた。
最後にマルクも目を閉じ、静かに頭を下げた。
やがて顔を上げ、静かに告げた。
「……帰りましょう」
◇
来た道を、一行は戻り始めた。
先頭を歩くのはマルクだった。
行きとは違い、誰もほとんど口を開かない。
足音。
枝が揺れる音。
時折聞こえる鳥の声。
それだけが続いた。
ユウも前を向いて歩いていたが、道を戻る途中、一度だけ振り返った。
木々の隙間から、《命の泉》が僅かに見えている。
その傍らに、日の光を反射する氷もまだ見えた。
この遠征では、ガレスがいつも一行の先頭を歩いていた。
けれど今は、一人だけ後ろに残されている。
「ユウ」
リリアが歩調を緩め、隣に並んだ。
「……うん」
ユウは前へ向き直った。
その後は、もう振り返らなかった。
◇
第二野営地へ戻ると、マルクはすぐに人数を確認した。
「……十二人。全員いますね」
生徒たちは荷物を下ろす。
朝にここを出発した時とは、野営地の空気がまるで違っていた。
マルクは荷物の中から、手のひらほどの小さな魔法具を取り出した。
学院の遠征では、事故や襲撃などの重大事態に備え、引率教師へ緊急連絡用の魔法具が一つだけ支給されている。
普段の連絡に使うものではない。
通常の帰還を待たず、学院へ知らせなければならない事態が起きた時だけ使用するものだった。
マルクは魔法具へ魔力を流す。
淡い光が表面を走った。
《命の泉》で正体不明の強敵と遭遇したこと。
ガレスが死亡したこと。
第三合同班の生徒十二人は全員無事であること。
そして、予定を中止して帰還する必要があること。
必要な情報だけを学院へ送った。
しばらくして、魔法具が再び淡く光る。
学院から帰還指示が返ってきた。
第三合同班は予定を切り上げ、翌朝の準備が整い次第帰還すること。
学院側から、ほかの合同班にも順次帰還指示を出すとのことだった。
内容を確認したマルクは、魔法具をしまった。
「本日の活動はすべて中止します」
十二人が顔を上げる。
「学院から帰還指示が出ました。私たちは明日の朝、準備が整い次第ここを撤収し、学院へ戻ります。他の合同班にも順次帰還指示が出されます」
誰も異を唱えなかった。
「学院へ戻ったあと、今日の出来事について正式に報告します」
ガレスのことも。
悪魔族である可能性についても。
誰も聞き返さなかった。
「しばらく各自の天幕で休んでください。夕食の準備については、こちらから改めて声をかけます」
「……はい」
返事は小さかった。
マルクも、それ以上は何も言わなかった。
生徒たちはそれぞれの天幕へ戻っていく。
やがて夕食の時間になっても、普段のような話し声はほとんど聞こえなかった。
第二野営地には、木々を抜ける風の音だけが長く残っていた。




