第54話 悪魔族
誰も動けなかった。
つい数秒前まで、生徒たちの前に立っていたガレス。
その身体が今は、頭部を失ったまま氷の中に閉じ込められている。
ユウは、目を逸らすことができなかった。
――ガレスさんが……。
遠征が始まってから、何度もその動きを見てきた。
魔獣の気配を察し、誰よりも早く前へ出る。
剣を抜く動きも、地面を蹴る瞬間も、ユウの目には見えていた。
さっきだってそうだった。
ガレスが剣を抜いた。
身体を沈めた。
一歩、踏み込んだ。
そこまでは確かに見えていた。
なのに――その次には、頭部だけが消えていた。
何かが飛んだわけでもない。
女性が腕を振った様子もない。
魔法を放ったようにも見えなかった。
見ていたはずなのに、何をされたのか分からない。
「全員……動かないでください」
マルクの声が僅かに震えていた。
それでも、生徒たちを庇うように前へ出る。
「待ってください。私たちは学院の実地遠征で来ただけです。あなたと争うつもりはありません」
「それは分かっていますわ」
女性は静かに答えた。
こちらに敵意がないことなど、初めから承知している。
そんな口調だった。
「本来なら、誰にも知られずに済ませるつもりでしたの」
淡い瞳がマルクの後ろへ向く。
「けれど、これだけの人数に姿を見られてしまっては……困りましたわね」
「そんな……」
リリアの声が小さく漏れた。
女性の周囲に、細かな氷の粒が浮かび始める。
詠唱はない。
杖も持っていない。
それなのに泉の周囲の空気が冷え、白い息が混じるほどになっていく。
ユウは無意識に手を握りしめた。
指先が冷たい。
足も思うように動かなかった。
逃げたとしても、間に合うとは思えない。
ガレスでさえ、何一つできなかったのだ。
「……まさか」
マルクの掠れた声が聞こえた。
女性の視線が止まる。
「その力……あなたは……悪魔族、なのですか……?」
その言葉に、空気がさらに重くなった気がした。
「悪魔族……」
カイルが低く呟く。
ユウも、その名前を覚えていた。
学院の授業で習ったことがある。
古い神話に何度も登場する、魔族の中でも特に強大だとされる種族。
けれど、現在では実在を証明するものさえなく、伝説に近い存在として扱われていた。
そのはずだった。
女性は僅かに目を細める。
「……まあ。その名をご存じの方が、まだいらっしゃったのですね」
声色は少しも変わらない。
「でしたら、なおさら見過ごすわけにはまいりませんわ」
周囲を漂う氷の粒が増えた。
「皆さん、私の後ろへ!」
マルクが叫ぶ。
生徒たちが一斉に下がる。
その中で、ユウは隣を見た。
リリアの顔から血の気が引いている。
カイルも口を閉ざしたまま動けない。
エステルは杖を握っているものの、その指先は僅かに震えていた。
少し離れたアレンたちも、レオンたちも同じだった。
ユウの胸も強く締めつけられている。
喉が乾き、うまく息が吸えない。
それでも――。
一歩、前へ出た。
「ユウ!?」
リリアの声が響く。
もう一歩。
マルクの横を抜ける。
「ユウさん、戻ってください!」
足は震えていた。
それでも止まらなかった。
女性と仲間たちの間まで進み、ユウは両手を広げる。
「……お願いです」
思ったよりも声が小さかった。
ユウは一度息を吸い、女性を見た。
「みんなには、手を出さないでください」
女性が初めて、はっきりとユウへ視線を向けた。
「僕たちは帰ります。あなたの邪魔もしません。だから……お願いします」
返事はない。
しばらくユウを見つめたあと、女性の視線がその足元へ落ちた。
「……震えていますわね」
ユウも自分の膝へ一瞬だけ目を向ける。
確かに震えていた。
「それでも、私の前に立つのですか?」
ユウは少しだけ後ろを見た。
リリアたちがいる。
そして、もう一度女性へ向き直る。
「……平気じゃありません」
声はまだ震えていた。
「でも、みんなが傷つくのは嫌です」
それだけは、迷わず言えた。
女性の表情が僅かに変わった。
空中を漂っていた氷の粒が、その場で止まる。
「…………」
長い沈黙が流れた。
女性はユウを見つめ続けている。
「……理解できませんわね」
やがて、小さく呟いた。
「その身体は逃げたがっているのに、それでも他人の前へ立つなんて」
ユウは何も答えなかった。
答えられるようなことでもなかった。
ただ、後ろにいるみんなを守りたかった。
女性はもう一度ユウを見つめる。
しばらくして、周囲を漂っていた氷の粒が一つずつ砕け始めた。
「……人間にも、こういう子がいるのですね」
凍りつくようだった空気が、少しずつ元へ戻っていく。
「今回は、ここまでにしておきますわ」
「え……?」
「ですが、次も同じとは思わないことです」
女性の周囲に無数の氷晶が生まれる。
長い水色の髪が、その輝きの中へ溶けていった。
姿が消える直前。
女性はもう一度だけ、ユウへ視線を向けた。
その身体が無数の氷の粒となり、風にさらわれるように舞い上がる。
そして、跡形もなく消えた。
誰もすぐには動けなかった。
やがて、止まっていた時間が戻るように泉の水音が耳へ入ってくる。
その傍らでは、頭部を失ったガレスの身体が、今も氷の中に立ったまま残されていた。




