第53話 命の泉
遠征四日目。
朝食を終えた第三合同班は、第二野営地に天幕を残したまま、《命の泉》へ向けて出発した。
今日は観察を終えたあと、再びこの野営地へ戻ってくる予定になっている。
必要な荷物だけを持ち、十二人はガレスを先頭に森の奥へ進んでいった。
しばらく歩いたところで、ユウは周囲を見回す。
「昨日より、緑が増えてない?」
地面には柔らかな苔が広がり、その間から小さな草花が顔を出している。
木々の幹には蔓が絡み、頭上を覆う枝葉も厚くなっていた。
「《命の泉》が近いからかもしれませんね」
エステルが答える。
「泉の周りは植物がよく育つって言ってたもんね」
リリアも足元へ視線を向けた。
ユウは見たことのない形の葉を見つけ、少しだけ足を緩める。
触って確かめてみたい。
そんな気持ちもあったが、昨日言われたことを思い出し、形だけを目に焼きつけて先へ進んだ。
◇
「ここから先は、特に立ち入りの制限が厳しい」
やがてガレスが足を止めた。
道の両脇には一定の間隔で目印が並び、その向こうには今まで以上に多くの植物が生い茂っている。
「決められた道から外れるな。何か見つけても、勝手に近づくんじゃないぞ」
「はい!」
生徒たちの返事が重なる。
マルクの後に続き、十二人は細い観察路へ入った。
少し進んだところで、ユウは耳を澄ませる。
「……水の音」
「泉かな?」
リリアも辺りを見回した。
「たぶんな」
カイルが答える。
姿はまだ見えない。
それでも進むにつれて、水の流れる音は少しずつ近くなっていった。
そして――。
木々の間が大きく開ける。
「わぁ……」
ユウの口から、自然と声が漏れた。
森の中に、一つの泉が広がっていた。
巨大というほどではない。
けれど、その水は驚くほど澄んでいた。
底に沈んだ白い石の形まで見えるほど透明で、水面には淡い青緑色の光が揺らめいている。
泉を囲むように草木が生い茂り、ところどころには小さな白い花が咲いていた。
風が吹くたびに葉が揺れ、その影が水面をゆっくりと横切っていく。
「これが……《命の泉》」
教室で初めて名前を聞いた時から、どんな場所なのだろうと想像していた。
《星降りの樹冠》とも、《大地の鼓動》とも違う。
何か大きな現象が起きているわけではない。
それでも、泉の周囲だけ空気まで違って見えた。
「皆さん、指定された場所から観察してください」
マルクの声で、生徒たちは記録用紙を取り出す。
「水の色も書いた方がいいかな」
「見る角度によって、少し違って見えますね」
エステルが水面を観察する。
「俺には、すごく綺麗な水にしか見えないけどな」
カイルが首を傾げた。
「それも気づいたことなんだから、書いていいんじゃない?」
「そういうもんか」
四人もそれぞれ記録を始めた。
◇
それから、しばらく経った時だった。
ユウは何気なく泉の向こう側へ目を向けた。
白い花が集まっている、そのさらに奥。
木漏れ日の中に、淡い水色が見える。
「……あれ?」
花ではない。
動いた。
人だった。
泉のすぐそばに、一人の女性が立っている。
長い髪は透き通るような水色。
手には細身の容器を持ち、その中には泉と同じように澄んだ水が揺れていた。
「先生」
ユウが小さく呼ぶ。
マルクが視線を向ける。
その表情が、一瞬で変わった。
「全員、その場を動かないでください」
ガレスも女性の存在に気づき、生徒たちの前へ出た。
右手がゆっくりと剣の柄に触れる。
「そこは許可を受けた者しか立ち入れない場所だ」
低い声が泉の向こうまで届く。
「何者だ?」
女性がゆっくり振り返った。
淡い色の瞳が、こちらを見つめる。
突然見つかったというのに、驚いた様子はなかった。
むしろ、ほんの少し困ったように目を細める。
「……人が来る時間ではないと思っていましたのに」
静かな声だった。
次の瞬間。
ユウの腕に、ぞくりと鳥肌が立った。
「……寒い?」
リリアが小さく呟く。
風は吹いていない。
それなのに、女性の足元に生えていた草の先が白く染まり始めていた。
霜だ。
その白さが、ゆっくりと周囲へ広がっていく。
ガレスの目つきが変わった。
「マルク! 生徒を下げろ!」
「全員、後ろへ!」
ガレスが剣を抜く。
そして一歩、地面を蹴った。
――そこで。
ユウには、何が起きたのか分からなかった。
さっきまでガレスの頭があった場所に、何もない。
身体だけが前へ進みかけ、その場で止まった。
「……え?」
誰かの声が漏れた。
首元から血が噴き出す――はずだった。
だが、一滴も地面へ落ちなかった。
白い霜が、瞬く間に切断面を覆う。
首元から肩へ。
肩から胸へ。
腕へ。
脚へ。
凍結は止まらない。
倒れることさえないまま、ガレスの身体は透き通った氷の中へ閉じ込められた。
森から、音が消えた。




