第42話 祈光の丘(番外編 天界3話)
「シェル、祈光の丘に行かない?」
白い中庭で本を読んでいた少年が顔を上げた。
いつもの二人が、回廊の入口からこちらへ歩いてくる。
「祈光の丘?」
「今日は祈りがかなり多いらしいよ。朝からずっと増えてるって」
「向こうにいた天使が、手が足りないって言ってたぞ」
「そうなんだ」
シェルは読んでいた場所へ栞を挟み、本を閉じた。
「じゃあ行こう。僕たちも手伝おうよ」
「やっぱりそう言うと思った」
「何?」
「何でもない」
三人は中庭を出て、空へ続く広い回廊へ向かった。
白い欄干の向こうには、雲海と天界の街並みが遠くまで広がっている。
「ここから飛んだ方が早いな」
「うん」
三人が欄干の前へ横一列に並ぶ。
ぱさり、と三対の白い翼が広がった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
隣にいた親友が、自分の翼とシェルの翼を交互に見る。
「こうやって並ぶと、やっぱりシェルの翼って大きいな」
「今さら?」
「普段、三人で並んで翼を広げることってあんまりないだろ」
もう一人も一歩下がって見比べた。
「本当だ。結構違うね」
「そうかな?」
シェルの翼は、二人のものより明らかに大きかった。
根元から翼端まで伸びる線は滑らかで、長い風切羽まで乱れなく整っている。
そして何より、白さが目を引いた。
光を受けて白く見えるのではない。
初めから、ほかの色を一滴も含んでいないような純白。
重なった羽の一枚一枚は艶やかで、それでいて硬さを感じさせない。陽の光が表面を滑るたび、柔らかな輝きが羽先まで伝っていった。
「羽もすごく綺麗だよね」
「二人の翼も綺麗じゃない?」
「そういう話じゃないって」
親友の一人が翼へ手を伸ばしかける。
「触っていい?」
「いいよ」
「ほんとに?」
「聞いたのそっちでしょ?」
そっと指先が羽へ触れた。
「……柔らか」
「そんなに?」
反対側にいたもう一人まで手を伸ばす。
「ほんとだ。すごく柔らかい」
表面の羽は絹のように滑らかだった。
その下に重なる細かな羽毛は、指が僅かに沈むほどふわふわとしている。撫でれば羽の流れに沿ってするりと指先が進み、離せばすぐに元の形へ戻った。
「これ、ずっと触っていられそう」
「分かる。すごく気持ちいい」
「ちょっと、二人とも……」
指先が羽の付け根に近づいた瞬間。
翼がぴくりと揺れた。
「くすぐったいよ、もう……」
シェルが両方の翼を身体へ引き寄せる。
「あ、逃げた」
「二人でずっと触るからでしょ」
「だって触り心地いいんだもん」
「それに、なんかいい匂いするね」
「匂い?」
フィオが白い羽へ少しだけ顔を近づけた。
「陽に温められた白い布みたいな匂い。すごく柔らかい感じ」
「俺も分かる。陽だまりっぽいな」
「……僕には分からないよ」
「自分の匂いって分かりにくいからね」
「そういうものなのかな」
もう一度伸びてきた手を見て、シェルは翼をさらに遠ざけた。
「もう駄目」
「まだ何もしてないぞ」
「しようとしてたでしょ」
「ちょっとだけ」
「ほら、祈光の丘に行くんじゃなかったの?」
「あ」
「翼に気を取られてた」
「もう……」
三人は改めて翼を広げた。
純白の翼が、同じ風を捉える。
欄干を越え、三人は並んで空へ飛び出した。
◇
白い街並みを離れ、雲の上をしばらく飛んでいく。
やがて前方に、緩やかな丘が見えてきた。
祈光の丘。
そこには建物がほとんどない。
代わりに、空から数えきれないほどの小さな光が降り注いでいた。
白。
淡い金。
青白い輝き。
一つ一つは小さい。それでも丘全体を覆うほど集まり、ゆっくりと空から舞い降りている。
「本当に多いね」
「昨日よりずっと多そうだな」
「急ごう」
三人は高度を下げ、丘へ降り立った。
周囲では多くの天使たちが、人間界から届いた祈りを一つずつ確認している。
そのうちの一人が三人に気づき、こちらへ歩いてきた。
「シェル様、ちょうどよかったです。それに、ラティス、フィオも来てくれたか」
三人のうち、少し勢いのある話し方をする少年がラティス・アルフェル。
もう一人の穏やかな少年がフィオ・セレイン。
「今日はかなり多いね」
シェルが丘を見渡した。
「はい。朝からずっとこの調子でして。三人とも、少し手を貸してもらえますか?」
「もちろん」
「俺は向こうから見るよ」
「じゃあ僕は中央の方を見るね」
ラティスとフィオがそれぞれ光の集まる場所へ向かう。
シェルも、近くへ降りてきた一つの光に手をかざした。
込められた思いが、ぼんやりと伝わってくる。
病気の家族が、少しでも楽になりますように。
「すぐ治すのは難しそうだけど……苦しさを和らげられる天使がいるか聞いてみる」
近くの天使へ光を託し、次へ向かう。
別の光には、遠くへ旅立った家族の無事を願う思い。
さらに向こうには、雨を待ち続ける人々の祈りもあった。
祈りは、すべて叶えられるわけではない。
天使たちにもできないことはある。
それでも、ここまで届いた思いを最初から見なかったことにはしない。
「シェル」
「何?」
ラティスが丘いっぱいに漂う光を示した。
「これ、全部見るつもり?」
空からは今も、新しい輝きが降り続けている。
「全部は無理かもしれないけど」
シェルは丘を見渡した。
「できるだけたくさん見ていこう」
「やっぱりそう言うと思った」
「だから何?」
「何でもないって」
「シェル、こっちにもあるよ」
フィオの声に振り向く。
「今行く!」
「俺は向こうを見るぞ」
「じゃあ僕は、この辺から!」
三人は光の間を行き来していった。
祈りを受け取り。
できることを探し。
自分たちだけでは難しければ、できる誰かへつないでいく。
「シェル、そっちまた増えたぞ!」
「見えてるよ!」
「僕の方も増えてきた!」
「終わったら手伝うね!」
祈光の丘には今日も、人間界から届いた小さな輝きが絶えることなく降り続いていた。




