第35話 石像に刻まれた名(番外編 天界2話)
三人の天使は、白い塔の上層にある遠見の間へ集まっていた。
部屋の中央には、澄んだ水をたたえた円形の器が置かれている。水面の周囲には細い術式環が幾重にも刻まれ、天井から差し込む光を静かに返していた。
「それで、見せたいものって何?」
「見れば分かるよ」
「またそれ?」
人間界に興味を持つ少年が器を覗き込むと、親友の一人が水面へ指を触れた。
「遠見の練習中に、人間界から流れてくる祈りを見つけたんだ。いつもよりまとまってたから、場所を辿ってみた」
「勝手に?」
「見るだけだって」
「向こうに気づかれないよね?」
「たぶん」
「たぶんなんだ……」
もう一人の親友も術式へ魔力を加える。
水面に淡い光が広がり、揺れていた輝きが別の景色へ変わった。
映し出されたのは、大きな石造りの神殿だった。
高い天井。色硝子の窓から差し込む光。長い床の両側には燭台が並び、その間を人々が静かに歩いている。
旅装の男。幼い子どもの手を引く母親。杖をついた老人。
人々は祭壇の前で足を止め、胸元で手を組んでいた。
「人間界の神殿だね」
「うん。見せたいのは奥の方」
遠見の焦点が祭壇へ近づいていく。
そこには三体の巨大な天使像が、半円を描くように並んでいた。
中央に立つのは、長い衣をまとった女性の像だった。左右へ大きく翼を広げ、片手には細長い杖を持っている。表情は厳しく、祭壇の下にいる人々を静かに見下ろしていた。
台座には、人間界の文字が刻まれている。
「『天使族を統べる天座、エルシェリア・ユヴィナ』だって」
少年は像を見つめ、少しだけ眉を寄せた。
「母上、あんなに怖い顔じゃないよ」
「でも、天座らしくは見える」
「杖も全然違うし」
「人間が伝承を頼りに造ったんだから仕方ないだろ」
人間界で三大天使の一柱として伝えられる、エルシェリア・ユヴィナ。
その実像は、現在の天座として天使族を束ねる者だった。
人間界では、天上からすべてを見守り、善き者へ祝福を、悪しき者へ裁きを与える存在として語られているらしい。
実際の彼女を知る三人には、少し厳めしすぎる姿だった。
右側には、全身を鎧で覆った男性の像が立っている。
「こっちは『守護の大天使、ヴァレオン・グラン』」
「剣、大きすぎない?」
「本人が見たら喜びそう」
「絶対喜ぶね」
左側に立つのは、両手で厚い書物を開く女性の像だった。
「『叡智と癒やしの大天使、ミレイア・セレス』」
「ミレイア様、あんなに真面目な顔で本を読まないよね」
「読んでる途中で寝てることの方が多いかも」
「それは人間には教えない方がいいよ」
三人は像を見比べた。
衣装や表情には実物と異なる部分が多い。それでも、翼の形や細かな装飾には、本人たちの面影も残っていた。
「でも、三大天使を見るだけなら、僕を呼ばなくてもよかったんじゃない?」
「だから、その前を見ろって」
「前?」
遠見の景色が少し下へ動く。
三体の巨大な像の中央。
天座エルシェリアの像より一段低い場所に、もう一体の石像が置かれていた。
ほかの三体よりも石の色が白く、表面にもほとんど傷がない。最近になって新しく造られたものらしい。
それは、白い翼を持つ少年の像だった。
柔らかな髪。
穏やかさを残した、美しい顔立ち。
片手を肩より高く掲げ、その周囲には七つの光球が、それぞれ異なる軌道を描くように刻まれている。光球同士は触れ合うことなく、少年の手を中心に大きな輪を作っていた。
「…………」
二人の親友が、石像と隣にいる本人を交互に見る。
「似てる」
「思ったより、雰囲気は似てるね」
「……そうかな?」
「顔立ちも少し似てる」
「髪はちょっと違うけどな」
「人間界の人たち、僕を見たことないはずなのに……」
「祈りや古い啓示から、雰囲気くらいは伝わったのかもね」
少年像の台座にも文字が刻まれていた。
親友の一人が身を乗り出し、ゆっくりと読み上げる。
「『天座の光を継ぐ若き翼――天使シェル・ユヴィナ』」
その名が、遠見の間へ響いた。
人間界への憧れを何度も口にしていた少年の名は、シェル・ユヴィナ。
現天座エルシェリア・ユヴィナの息子であり、若い天使の中でもひときわ多くの魔力を持つ者。そして、いつの日か母から天座を継ぐことを定められた少年だった。
「人間界にも、シェルの名前まで伝わってるんだね」
「僕も知らなかったよ」
「自分のことなのに?」
「人間の神殿に、自分の像があるかなんて普通は調べないでしょ?」
もう一人が像の周囲に刻まれた光球を数える。
「本当に七つある」
「七つなら、ずいぶん控えめだな」
「数を多くすればいいって話じゃないよ」
「でも、人間たちはシェルの魔力を表したかったんだろ?」
「それなら、像の周りを光球で埋め尽くすつもり?」
「見栄えはするんじゃない?」
「絶対おかしいよ」
二人が面白がるほど、シェルは居心地が悪そうに像から目を逸らした。
その時。
幼い子どもが、母親に手を引かれて少年像の前へ進み出た。
小さな両手を胸元で組み、目を閉じる。
静かな祈りが捧げられた。
像の足元から、淡い光の粒が一つ浮かび上がる。
それは神殿の天井へ昇り、遥か上にある天界へ向かっていく。その一部が遠見の水面を柔らかく震わせ、三人のいる部屋にも微かな温もりを届けた。
人間たちの祈りは、ただ願いを伝えるだけのものではない。
誰かを大切に思う心。
明日を信じようとする心。
天へ向けられた真っ直ぐな思いは、僅かずつではあっても天使たちの力となる。
シェルは胸元へ手を添えた。
「……祈ってくれて、ありがとう」
「向こうには聞こえないぞ」
「うん。でも、祈ってくれたんだから、ありがとうって思うくらいいいでしょ?」
どのような願いが込められていたとしても、まだ一度も会ったことのない自分へ心を向け、信じて祈ってくれた。
その気持ちだけで、シェルには十分に温かかった。
「人間界へ行けたら、こういう神殿にも来てみたいな」
「自分の像を見に?」
「違うよ」
祈りを終え、母親と歩き出した子どもを見る。
「祈ってくれた人たちに、僕からも何か返せることがあればいいなって思ったんだ」
「像の本人だって言ったら、神殿中が大騒ぎになるぞ」
「言うわけないでしょ?」
「でも、像の前に立ったら、ちょっと似てるって言われるかも」
「石像と歩いてる人を、いちいち比べたりしないよ」
二人は、また像とシェルを見比べた。
「……雰囲気は結構似てるけどね」
「もう、その話はいいよ」
シェルが水面から離れる。
「そろそろ遠見を閉じよう。長くつないでたら、向こうに気づかれるかもしれないよ」
「自分の像、もう見なくていいの?」
「十分見たってば」
親友の一人が術式から指を離す。
神殿の景色が淡い光へ溶けていった。
「行こう、七つの光球様」
「その呼び方、本当にやめてよ」
三人の声が重なる中、水面は何も映さない澄んだ状態へ戻っていった。




