第33話 灰牙狼
学院へ戻る旧街道を、四人は来た時より少しゆっくりと歩いていた。
リリアとエステルが持つ採取籠には、十五束の薬草が収められている。歩くたびに傷まないよう、籠の上には薄い布がかかっていた。
「十五束、ちゃんと無事だな」
カイルが籠へ目を向ける。
「今のところはね」
「似た草ではないか、もう一度確認しますか?」
エステルが言うと、カイルが振り返った。
「全部ちゃんと見分けたって!」
「最初の一株がありますからね」
「もう忘れてくれよ……」
記録用紙はすでに鞄の中にしまってある。
薬草十五束。
草地に残っていた跡。
親の野猪一頭と、子ども二頭。
見たことはすべて書き留めてある。
「帰ったら、この記録を先生に見てもらおう」
「薬草も確認してもらわないとな」
「ちゃんと十五束あるって」
カイルがそう返した、その時だった。
林の奥から、獣の叫び声が響いた。
「――っ!」
四人の足が止まる。
先ほど見た野猪の声に似ていた。
だが、あの時とはまるで違う。
短く、鋭い。
続けて、枝が激しく折れる音がした。
林から何羽もの鳥が飛び立ち、一斉に空へ散っていく。
「何かいる……」
リリアの声が小さくなる。
風もないのに、街道脇の茂みが大きく揺れた。
「籠を置きましょう」
「うん」
リリアとエステルは二つの採取籠を道端の大きな石の陰へ下ろした。
カイルが剣の柄へ手を置く。
まだ抜かない。
「一度、来た方へ戻ろう」
周囲を確かめながら言う。
「学院と反対だけど?」
「今の音がした場所から離れよう。少し戻ってから、地図で別の道がないか確認しようよ」
「分かった」
音を立てないよう、四人でゆっくり後ろへ下がる。
一歩。
もう一歩。
その瞬間。
茂みが大きく弾けた。
灰色の影が、旧街道へ飛び出す。
硬そうな毛に覆われた巨体。
低く構えた身体。
長い口元から伸びる二本の牙には、まだ乾いていない血が付着していた。
普通の狼とは、明らかに大きさが違う。
「灰牙狼……」
エステルの表情が強張った。
「知ってるの?」
「Dランクの魔獣です」
授業で扱ったことがある。
深い林に棲み、素早い動きと鋭い牙で獲物を仕留める魔獣。
一度獲物として狙われれば長く追い続け、背を向けて走っても振り切るのは難しい。
灰牙狼は旧街道の中央へ立った。
学院へ戻る方向を塞ぐように。
低い唸り声が響く。
「……こっち、見てるよね」
「うん」
口の中が乾く。
握った手には、わずかに震えが残っていた。
「逃げたら、追ってくるんだよな」
カイルが剣を抜く。
金属音が旧街道へ響いた。
「おそらく」
エステルも杖を構える。
「それに、この距離では背を向ける方が危険です」
灰牙狼が牙を剥いた。
前脚で地面を掻く。
その周囲へ、灰色の魔力が集まり始めた。
「……怖い」
リリアが小さく零す。
「私もです」
「俺だって平気じゃない」
カイルは剣を構えたまま答えた。
三人を見る。
「僕も怖いよ」
一度、息を吸った。
「でも、四人で来たんだから」
三人に届くよう、はっきりと続ける。
「四人で帰ろう。誰も置いていかないから」
リリアがこちらを見る。
カイルが剣を強く握り直した。
エステルも杖を胸元へ構える。
「……うん」
「当たり前だ」
「四人で帰りましょう」
灰牙狼の身体が低く沈んだ。
その視線が、最も前に立つカイルへ向く。
「来る!」
狙いが定まったのを見た瞬間、手を前へ向けて詠唱を始めた。
「集いし光よ、我が意に従い、ここに巡りて隔てとなれ――」
灰牙狼が地面を蹴る。
速い。
あれほど大きな身体が、一気に距離を詰めてくる。
カイルが剣を構えた。
だが、本物の殺意を向けて突進してくる魔獣を前に、その反応が一瞬遅れる。
「《光障壁》!」
小さな光の壁が、カイルの前へ斜めに現れた。
灰牙狼の肩が激突する。
光が激しく揺れた。
この大きさでは、正面から受け止めきれない。
だから、止めない。
斜めに傾けた障壁が、突進の向きをわずかに逸らす。
「っ……!」
カイルが我に返った。
横を抜けた灰牙狼へ剣を引き、詠唱する。
「炎よ、刃に宿れ――《火纏》!」
剣身を赤い炎が包んだ。
初級魔法《火纏》。
「はあっ!」
炎をまとった刃が、灰牙狼の脇腹を掠める。
硬い毛が焼け、獣の唸り声が大きくなった。
「当たった!」
「まだ!」
灰牙狼は倒れない。
前脚で地面を抉りながら急停止すると、すぐさま身体を反転させる。
今度はリリアへ顔を向けた。
「こっち来ないで……!」
リリアの杖が上がる。
だが、いつもの練習より一拍遅れた。
息を詰めながら、それでも詠唱を続ける。
「流れし水よ、我が意に従い、ここに集いて形を成せ――《水球》!」
杖の先へ水が集まる。
リリアは生まれた水球をそのまま放たず、形を崩して細長く伸ばした。
水が鞭のようにしなり、灰牙狼の顔を強く打つ。
魔獣が頭を振った。
「エステル!」
「はい!」
エステルも一瞬遅れて杖を地面へ向けた。
「氷よ、足場を閉ざせ――《氷床》!」
灰牙狼の足元へ薄い氷が一気に広がる。
踏み込んだ前脚が滑った。
巨体が大きく傾く。
「今だ!」
カイルが間合いを詰める。
しかし。
灰牙狼は倒れかけた身体を、後脚だけで強引に支えた。
振り回された前脚が、横からカイルを捉える。
「ぐっ……!」
身体が街道の端まで弾き飛ばされた。
「カイル!」
ユウとリリアの声が重なる。
剣が地面を滑っていく。
背中から倒れたカイルは、すぐには起き上がれない。
灰牙狼が、その姿へ向き直った。
「駄目!」
動きを見た瞬間、カイルの前へ走りながら詠唱へ入る。
「集いし光よ、我が意に従い、ここに巡りて隔てとなれ――《光障壁》!」
光の壁を展開した直後、灰牙狼の牙が激突した。
眩しい光が弾ける。
「……っ!」
両腕に重さがのしかかる。
全身が後ろへ押され、靴底が土を削った。
「ユウ!」
返事をする余裕はなかった。
押し返そうとしているわけではない。
少しでも力を横へ逃がそうと、障壁の角度を保つ。
それでも、灰牙狼の力が強すぎる。
ぴしっ。
光の表面に細い亀裂が走った。
灰牙狼が吠える。
至近距離の咆哮が、胸の奥まで震わせた。
「重い……!」
実技場で受けた攻撃とは、力がまるで違う。
亀裂が一本、二本と増えていく。
あと少しで壊れる。
それでも退けない。
後ろには、まだ立ち上がれていないカイルがいる。
「リリア!」
「分かってる!」
リリアが杖を握り直す。
その隣では、エステルも次の術式へ備えていた。
灰牙狼の牙が、さらに深く光障壁へ沈む。
ぱきっ。
大きな亀裂が、障壁の中央まで走った。




