第21話 神話に残る者たち
十五分の休憩が終わり、廊下へ出ていた生徒たちも教室へ戻ってきた。
オルドは教壇の前に立ち、黒板に残していた三つの言葉へ目を向ける。
『記録』
『伝承』
『神話』
「では、四限目を始めましょうか」
指示棒の先が、一番下の『神話』へ移った。
「神話と歴史は同じものではありません。たとえば二百年前の本に、ある神話が語られていたと書かれていたなら、その時代にそうした物語が知られていたことは確認できます」
その横へ二つの言葉を書く。
『確認できること』
『確認できないこと』
「ですが、物語の中で語られた出来事そのものが本当に起きたかどうか。それは別のお話です」
生徒たちの筆が動く。
「神話だからすべて作り話だと決めるのも早い。古い本に書かれているから事実だと決めるのも早い。今日は、長い時代にわたって神話や伝承へ繰り返し現れる者たちを見てみましょう」
オルドは黒板へ、少し離して二つの名を書いた。
『天使族』
『悪魔族』
すぐに教室がざわめいた。
「天使?」
「悪魔族って、魔族とは違うのか?」
カイルも先ほどまでより姿勢を正している。
「名前だけなら、皆さんも聞いたことがあるでしょうね」
オルドはまず『悪魔族』を示した。
「三限目にも話しましたが、魔族というのは一つの種族名ではありません。姿も暮らしも異なる多くの種族を、人間側が大きくまとめて呼んできた言葉です」
『魔族』からいくつもの枝が伸び、その一つへ『悪魔族』と書き加えられる。
「悪魔族は、古い神話の中では、その魔族の中でも特に強大な種族として語られています。一人で多数の兵を退けた。巨大な魔物を倒した。城塞を破壊した――随分と大きな話も残っています」
「本当にそんなに強かったんですか?」
カイルが尋ねる。
「それは分かりません。神話ですからね。長く語られるうちに、話が大きくなった可能性もあります」
オルドはさらに三つの言葉を書く。
『人間』
『天使族』
『悪魔族』
悪魔族だけが、ほかの二つから少し離れていた。
「興味深いのは、悪魔族がどこか一つの側へ常に属する存在としては描かれていないことです」
ノアが首を傾げる。
「どっちとも敵だったってことですか?」
「そうとも限りません。人間と戦う話もあれば、人間を助ける話もある。天使族と争ったという物語もあれば、共に何かへ立ち向かったという伝承も残っています」
前方の女子生徒が資料を見ながら言った。
「じゃあ、悪いことをするから悪魔族って呼ばれてるわけじゃないんですね」
「少なくとも、残された神話だけでそう断定することはできません」
オルドは黒板へ短く書く。
『行動と理由は別』
「ここでも先ほどと同じです。何をしたかが物語に残っていても、なぜそうしたのかまで分かるとは限りません」
町を襲ったとされる悪魔族が、なぜそこを襲ったのか。
人間を助けたとされる者が、なぜ手を差し伸べたのか。
「理由まで書かれていなければ、そこから先は推測です」
それ以上断定せず、オルドはもう一つの名へ向き直った。
『天使族』
「こちらは、悪魔族とはまた随分と違った姿で語られてきました」
白いチョークで、文字の隣へ簡単な翼を描く。
「古い神話では、天上に住み、白い翼を持つ種族として描かれています。空を飛び、光を操る。傷ついた者を癒やし、災害や魔物から人を守った――そうした話が多く残っています」
「じゃあ、天使族は人間の味方だったんですか?」
別の生徒が尋ねた。
「そう考えたくなるでしょうね」
オルドはすぐには頷かなかった。
「ですが、それも急いではいけません」
黒板へ『描かれ方』と書き加える。
「天使族の物語は、後の時代に信仰と結びついたものが非常に多いのです」
古い資料を一枚持ち上げた。
「古い記録には、『白い翼を持つ者が傷ついた人々を助けた』とだけ書かれている。ところが、数百年後に書き写された同じ話では、『すべての正しき者を導く、絶対に善なる存在』へ変わっていることもあります」
「話が大きくなってる……」
リリアが小さく呟いた。
「ええ。人から人へ伝わる間に、物語は形を変えることがあります」
白い翼の者が人を救ったという記述があること。
多くの地方で似た存在が語られてきたこと。
そこまでは確かめられる。
「ですが、それだけで『すべての天使族が善だった』とまでは言えません」
オルドは二つの名を順番に示した。
「悪魔族だから悪い。天使族だから正しい。そう分ければ、とても分かりやすいでしょう」
ゆっくり首を横へ振る。
「ですが、歴史を学ぶ時には、分かりやすさだけで答えを決めない方がよいのです」
ユウも周囲の生徒と同じように話を聞き、帳面へ静かに筆を走らせていた。
オルドは黒板へ最後の言葉を書き加える。
『神話に繰り返し現れる存在』
「現在のところ、天使族と悪魔族が実在すると学術的に断定できるだけの証拠は確認されていません」
教室が少し静かになる。
「だから、いなかったと決める必要もありませんし、いたと決める必要もありません」
指示棒が、三限目から残る言葉を示した。
『分からないことを、分からないまま残す』
「分からないことを、分かったふりをしない。それは記録でも、伝承でも、神話でも同じです」
少しして、カイルが黒板の翼を眺めながら小声で言った。
「でも、本当に空を飛べるなら、一回くらい飛んでるところ見てみたいな」
「カイルなら、自分も飛んでみたいって言いそう」
リリアが返す。
「……それは言うかも」
「認めるんですね」
エステルまで加わり、近くの席から笑いが漏れた。
ちょうどその時、四限目の終わりを知らせる鐘が鳴った。
「今日は、このあたりまでにしておきましょう」
オルドが資料をまとめ始める。
ユウも帳面を閉じ、筆記具をしまった。
黒板には最後まで、二つの名が残っていた。
『天使族』
『悪魔族』
生徒たちはそれぞれ教科書を閉じ、次の授業の準備を始めた。




