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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第二章 王立学院編
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第20話 誰かが残した歴史

 オルドは、黒い表紙の本を教卓の上へそっと置いた。


 先ほど授業の終わりに取り出した、題名さえ記されていない古い本だった。


 開かれた頁には、東部の年代記とはまったく違う文字が並んでいる。細く曲がった線が重なり、そのそばに小さな点や短い印が添えられていた。


「この文字を今から皆さんに読んでもらう……というのは、さすがに難しいでしょうね」


 何人かが困った顔をし、教室に小さな笑いが広がる。


「ですから、今日は翻訳されたものを使いましょう」


 用意された紙が前列から回された。


 リリアが受け取り、四人の机の間へ置く。


 一番上には、


『リーヴェル王国建国以前 北方旅記』


 と記されていた。


「この本を書いた者の名前は分かっていません」


 オルドは黒い本へ目を落とす。


「どこで生まれたのか、どの種族だったのか。それもはっきりしていません。ただ、文字や本文に記された土地、暮らしの様子から、北方に暮らしていた魔族の一種ではないかと考えられています」


「考えられている、なんですね」


 ノアが言った。


「ええ。書き手自身が名乗っているわけではありませんから」


 オルドは翻訳文を手に取った。


「では今度は、この旅人の目から内戦を見てみましょう」


 静かな声で文章を読む。


「――南へ向かう途中、二つの軍勢を見た。一方は皇帝の旗を掲げ、もう一方は新たな王を掲げていた」


 紙をめくる音が止まる。


「――だが、焼かれた村に住む者にとって、その旗にどれほどの違いがあるのか、私には分からなかった」


 先ほどまで見ていた地図なら、帝国側と東部側は分けられた。


 だが、この旅人が見ていたのは国境でも軍の配置でもない。


 戦いに巻き込まれた村だった。


「――皇帝の兵は食料を求めた。東方の兵もまた食料を求めた。馬を持つ者は馬を取られ、蓄えを持つ者は蓄えを減らした」


「……東方の兵もなんだ」


 どこかから小さな声がした。


 オルドは咎めず、黒板へ残る二つの言葉を指す。


『記録された出来事』


『記録した者の視点』


「先ほどは、東部の町から内戦を見ました。今度は、どちらの勢力にも属していなかったと考えられる旅人から同じ戦争を見ています」


「この人は、リーヴェル王国ができることも知らなかったんですよね」


 リリアが尋ねる。


「そうでしょうね。私たちは結果を知っていますが、この旅人はその先を知らずに歩いています」


 オルドは次の箇所へ進んだ。


「旅人は、北方へ戻る途中のことも記しています」


「――夜になり、人間の家族が北方の集落へやって来た。幼い者は寒さで歩けなくなっていた」


 一呼吸置く。


「――集落の者たちは火を用意し、食べ物を与え、雪が弱まるまで家の中へ置いた」


 何人かが顔を上げた。


「この集落について、書き手は種族名を記していません。ただ、地名や建物、暮らしに関する別の資料と照らすと、魔族の集落だった可能性が高いとされています」


 魔族は、人間を襲う存在として語られることも多い。


 けれど目の前の記録には、人間の家族を助けた者たちがいた。


「ところが、別の日にはこうあります」


「――西の町が夜襲を受けた。襲撃者の中には、北方から来た魔族がいたと聞いた」


 前方の男子生徒が首を傾げた。


「さっきは人間を助けてたのに……」


「でも、同じ人たちとは書いてないよ」


 近くの女子生徒が答える。


 エステルも翻訳文を見ながら頷いた。


「『北方から来た魔族』というだけですね」


「その通りです」


 オルドは黒板へ新しい言葉を書いた。


『同じ分類でも、同じ考えとは限らない』


「人間という言葉の中に多くの人がいるように、魔族という大きな呼び名の中にも多くの者がいます。種族も、暮らしも、人間との関わり方も同じではありません」


「魔族って、一つの種族の名前じゃないんですか?」


 ユウが尋ねる。


「ええ。異なる多くの種族をまとめて呼ぶための言葉です」


「それなら、魔族は王国側だったとか帝国側だったとか、一つには決められないんですね」


「そう考えるのがよいでしょう」


 オルドは先ほどの旅記を示した。


「では、人間の家族を助けた者たちは、なぜ助けたのでしょう」


 誰かを指名せず、いくつかの可能性を挙げる。


 困っている者を放っておけなかったのかもしれない。


 以前から人間との交流があったのかもしれない。


 訪れた者へ寝床を貸す習慣があったのかもしれない。


「ですが……書かれていません」


 今度は町を襲った記述を示す。


「こちらも同じです。食料が必要だったのか、土地を巡る争いがあったのか、以前に何かが起きていたのか。いくつでも考えることはできます」


 黒板へ二つの言葉が加わる。


『事実』


『推測』


「なぜだろう、と考えることは大切です」


 指示棒が二つの言葉の間を動く。


「ですが、自分で考えた理由を、いつの間にか昔本当に起きたことへ変えてはいけません」


 教室のあちこちで筆が動く。


「記録に残されていないなら、『分からない』と残しておく。それも歴史を読むために必要なことです」


 帳面へ短く書き留め、すぐに顔を上げた。


 何気なく翻訳文の最初へ視線を戻す。


『リーヴェル王国建国以前 北方旅記』


 そこで少しだけ手が止まった。


 この文章が書かれた時には、まだリーヴェル王国は存在していない。


「先生」


「はい」


「この題は、あとから付けられたものですか?」


 何人かの生徒も紙の上部を見る。


「そう思った理由は?」


「この記録を書いた時には、まだリーヴェル王国はできていないからです。書いた人が『リーヴェル王国建国以前』とは呼べないと思います」


「ええ。その通りです」


 オルドは黒い本の表紙を示した。


「元の本には、題名そのものがありません。これは後の研究者が資料を整理するために付けたものです」


 黒板へ三つの言葉を書く。


『原文』


『翻訳』


『後世の注釈』


「最初の書き手が残した言葉。それを今の私たちが読める形へ移したもの。そして、後の人が説明のために加えたもの」


 ノアが翻訳文を見直す。


「紙だけ見たら、全部この旅人が書いたみたいに見えますね」


「そうなのです。だからこそ、誰の言葉なのかを確かめる必要があります」


 古い言葉の中には、今の言葉へ完全には置き換えられないものもある。同じ言葉でも、時代や土地によって意味が違うこともある。


「翻訳は、とてもありがたいものです。これがなければ、今日の皆さんは一行目で随分長い時間を過ごしたでしょうから」


 教室の空気が少し和らぐ。


「ですが、便利だからこそ、最初からその形で書かれていたと思い込まないことです」


 オルドが黒い本を閉じたところで、授業終了の鐘が鳴った。


「ちょうどよいところですね。十五分ほど休憩にしましょう。次の時間もこのまま王国史です」


 椅子を引く音と話し声が戻る。


 カイルが大きく背を伸ばした。


「思ったより頭使うな、歴史」


「だから面白いんじゃない?」


 リリアが答える。


 オルドは黒板の文字を消さず、その端へ三つだけ新しく書いた。


『記録』


『伝承』


『神話』


 何人かが気づいて黒板を見る。


「先生、次は神話なんですか?」


 カイルが尋ねた。


「ええ。続きは休憩のあとにしましょう」


 それだけ言うと、オルドは教壇脇の椅子へ腰を下ろした。


 黒板には、三つの新しい言葉が並んだままだった。

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