第1話 小さな古書店
昨日買い忘れた塩を、今日こそ買う。
そう決めて町へ来たはずなのに、ユウは古書店の前で足を止めていた。
店先には、擦り切れた革表紙や、角の丸くなった古書が並んでいる。どれも新しくはない。それなのに、一冊一冊が「読んでみて」と静かに呼びかけているように見えた。
「わあ……本がいっぱい」
ポケットには買い物のメモが入っている。
紙。インク。塩。針。糸。
昨日のスープは味が薄すぎた。
今日は絶対に忘れない。
「ちょっとだけ……見るだけなら、大丈夫だよね」
誰に言うでもなく呟き、一冊の本へ手を伸ばす。
表紙には、かすれた文字で『基礎魔法式と属性干渉』と記されていた。
「魔法式の本だ……!」
本を手にしたまま、吸い寄せられるように店内へ足を踏み入れる。
頁を開くと、黄ばんだ紙のあちこちに書き込みが残っていた。
「ここ、計算し直してる」
炎と水の属性干渉。
正面から魔力をぶつけて止めるのではなく、力の向きをずらし、外へ流すための理論だった。
「全部受け止めなくてもいいんだ……」
夢中になって文章を追う。
「流せば、少ない魔力でも衝撃を防げるかもしれない」
市場の声も、荷車の音も、いつの間にか耳へ入らなくなっていた。
読み進めていくうち、一つの式が気になった。
「ここを……こうつないだら……」
本に書かれた式を確かめながら、空中へ指を動かす。
起点を置き、流れをつなぎ、最後の部分を小さく閉じる。
先ほど読んだ理論を、自分なりに組み直していく。
すると、指先に流した魔力が、淡い光となって灯った。
「……あ、できた」
ほんの小さな光。
けれど輪郭は揺らがず、きれいな形を保っている。
「あっ」
慌てて手を引っ込めた。
「お店の中で試しちゃった……」
辺りを確かめる。
幸い、近くにいた客は誰も気づいていないようだった。
ほっとした、その時。
「坊や」
「はいっ!?」
店の奥から、白い髭をたくわえた老人が現れた。丸眼鏡の奥から、穏やかな目がこちらを見ていた。
「その本、読めるのかい?」
思わず本を抱え直した。
「読んではいけませんでしたか?」
「いや、そうじゃない。その本は古い魔法理論書でね。大人でも途中で投げ出す者が多いんだ」
「そうなんですか?」
改めて手元の頁を見る。
「すごく面白いです」
「面白い?」
「はい。この式、力を正面から止めないで、流す形になっているんです。それなら、魔力が少なくても、できることが増えそうで」
話し始めると、次々に言葉が出てきた。
「それに、この書き込みもすごいです。何度も計算を直していて……実際に試しながら考えたんだと思います」
店主は黙って聞いていたが、やがて口元を緩めた。
「変わった坊やだな」
「そうですか?」
「自覚はないらしいな」
ユウは不思議そうに首を傾げた。
「どこかの学院の子か?」
「学院?」
「魔法学院だ。魔法式も、実技も、歴史も学ぶ場所さ」
聞き慣れない言葉に目を瞬かせる。
「魔法を……学べるんですか?」
「ああ」
「そんな場所があるんですね!」
「知らなかったのかい?」
「はい。町のこと、まだあまり知らなくて」
「町の外に住んでいるのか?」
「森の方です。小さな家を直しながら暮らしてます」
「一人で?」
「はい」
店主は驚いた様子を見せたものの、それ以上は尋ねなかった。
「魔法を学べる場所……」
声に出すと、ますます気になった。
店主が棚から薄い冊子を取り出す。
「興味があるなら、これを見てみるといい」
「これは?」
「学院の案内だ」
表紙には、大きな門と高い塔が描かれていた。
両手で受け取る。
そこで学べたなら。
知らない魔法を、もっと知れるかもしれない。
今よりも、困っている人にできることを増やせるかもしれない。
「でも……僕、大きな魔法はほとんど使えないんです」
「さっきは光を出していただろう」
「本当にわずかです」
自分の指先を見つめる。
「それに、できるなら……誰かを傷つける魔法より、人の役に立てる魔法を覚えたいです」
「なら、そういう魔法を学べばいい」
「そういう魔法もあるんですか?」
「結界を張る魔法。傷を和らげる魔法。道を照らす魔法。戦うこと以外にも、魔法にはいろんな使い方がある」
「僕にもできますか?」
「それは分からん」
店主は迷わず答えた。
「だが、学ばなければ分からない」
手の中の学院案内へ目を落とす。
「……僕、知りたいです」
「何をだ?」
「僕に何ができるのか」
そして顔を上げた。
「誰かを守るために、僕ができることをもっと知りたいです」
店主はしばらくユウを見つめ、それから古い理論書を紙袋へ入れた。
「その本、持っていきなさい」
「えっ?」
「売れ残りだ。いつか感想を聞かせてくれれば、それでいい」
「でも……」
「遠慮するなら返してもいいぞ」
「い、いえ!」
慌てて紙袋を受け取る。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げた。
店主はその様子を見てから、ふと口を開く。
「ところで坊や」
「はい?」
「町へ来た用事は、それだけかい?」
「……あっ」
動きが止まった。
急いでポケットからメモを取り出す。
紙。インク。塩。針。糸。
まだ一つも買っていない。
「忘れてた……! 雑貨屋に行かないと」
「雑貨屋なら、この通りを真っ直ぐだ」
「ありがとうございます。今度こそ行ってきます!」
紙袋と学院案内を抱え、店を出ようとした時だった。
「ねえ」
横から声がした。
本棚の向こうに、一人の少女が立っていた。
赤に近い桃色の長い髪。その一部を編み込み、後ろには濃紺のリボンを結んでいる。赤い瞳には、隠しきれない好奇心が浮かんでいた。
年齢はユウと同じくらいに見える。
「その本、本当に読めるの?」
「えっと……全部ではありませんけど、分かるところはあります」
「ほんとに?」
「はい。すごく面白い本ですよ」
少女は古びた本とユウを交互に見た。
「……同じくらいの歳だよね。そんなにかしこまらなくていいよ」
「いいの?」
「うん」
ユウの表情が明るくなる。
「じゃあ……うん。すごく面白い本だよ」
「やっぱり変わってるね」
「それ、今日二回目だよ」
少女が思わず吹き出した。
笑いを収めると、改めてユウへ向き直る。
「私はリリア」




