第113話 戦わずして
国境に朝が訪れていた。
王国側の監視塔では、兵士たちが誰一人として持ち場を離れず、遠眼鏡を帝国軍の方角へ向け続けていた。
昨日。
国境線を越え始めた帝国軍の上空を、突然現れた黒雲が覆った。
遠方からでも異常だと分かるほど、空は暗く染まっていた。
そして黒雲が消えたあと、軍列は動かなくなった。
夜が明けても、帝国兵が王国側へ進んでくる様子はない。
「……動かないな」
監視兵の一人が呟いた。
「昨日からずっとだ」
「撤退したんじゃないのか?」
「それなら、荷馬車まで置いていくか?」
遠眼鏡の先には、帝国の軍旗が見える。
車列も残っている。
軍馬らしき姿も確認できた。
だが、動きがない。
遠目には、巨大な軍列だけが不自然な静けさに沈んでいた。
「伝令を」
監視隊をまとめる兵士が命じる。
「状況不明。帝国軍の進軍停止を報告。現地確認のため、斥候の派遣を要請する」
「はい!」
兵士が階段を駆け下りていく。
残った者たちは、再び遠眼鏡を構えた。
黒雲はもうない。
昨日、一部の兵士が目撃したという赤黒い何かも見当たらない。
残されているのは、静まり返った帝国軍だけだった。
◇
数刻後。
王国軍の斥候隊が、国境線近くの現場へ入った。
敵軍との遭遇を想定し、全員が武器を抜いている。
しかし、待ち伏せはない。
矢も飛んでこない。
魔法が放たれることもなかった。
「……何だ、これは」
先頭の兵士が足を止める。
地面が黒い。
昨日まで青々としていた草は萎れ、帝国兵が進んだ先まで枯れ果てていた。
木々も同じだった。
葉は色を失い、枝先まで乾ききっている。
「ここだけ……死んでる」
誰かが呟いた。
一行は慎重に先へ進む。
最初の帝国兵を見つけた。
地面へ倒れたまま、動かない。
その先にも死体がある。
一体。
また一体。
やがて、それが数えられる数ではないと分かった。
「……全員、死んでいるのか?」
答えられる者はいなかった。
鎧は黒く腐食し、剣や盾も原形を失いかけている。
軍馬が倒れ、物資を積んだ車列も途中で止まっていた。
王国軍との交戦を示す痕跡はない。
矢が撃ち込まれた跡も。
剣を交えた形跡も。
爆発や衝撃によって地形が崩れた痕跡も見当たらなかった。
「隊長」
一人の兵士が声を上げる。
「こちらを」
岩山の近く。
洞窟の内部にも、多数の帝国兵が倒れていた。
入口付近だけではない。
死体は奥まで続いている。
斥候隊長が、そのうちの一体へ近づいた。
「……首をやられている」
喉元が大きく抉られていた。
同じような傷を負った兵士が、周囲にも何人もいる。
「獣ですか?」
「違う」
隊長は洞窟内を見渡す。
「これだけの人数が、同じ場所で獣に襲われるはずがない」
「では……」
「分からん」
それ以外に答えようがなかった。
再び外へ出る。
視界の先まで、帝国軍の死体が続いている。
生存者を探す声が何度も飛んだ。
返事は一度もなかった。
「……一人も?」
斥候兵の声が震える。
「これだけの軍勢で……?」
斥候隊長は黙ったまま、帝国軍が進んできた方角を見る。
さらに先にも、黒く枯れた大地が続いていた。
「確認範囲を広げる。ただし、深入りはするな」
「はい」
「それから至急報告を」
隊長は周囲に広がる光景をもう一度見渡した。
「帝国侵攻軍――確認範囲では、壊滅状態」
◇
その後、複数の斥候から届いた報告は、王国側の指揮所へ集められた。
机の上には、国境周辺の地図が広げられている。
集まった軍関係者たちの間に、重い沈黙が落ちていた。
「生存者は?」
「現時点で確認されていません」
「捕虜も?」
「一人も」
「王国軍との交戦は」
「ありません」
報告を受けた将官が眉を寄せた。
「……では、誰が帝国軍を攻撃した」
「不明です」
「昨日の黒雲は?」
「国境監視隊が確認しています。黒雲が発生する前、上空に赤黒い球体のようなものがあったという証言もあります」
「球体?」
「内部に人影らしきものがあったとも。ただし距離があり、詳細は確認できていません」
誰も言葉を続けられなかった。
やがて、一人の軍人が別の書類を机へ置く。
「侵攻軍の規模について、これまでの偵察記録と諜報部が把握していた帝国軍の戦力情報を照合しました」
「結果は?」
一瞬だけ、言葉を選ぶような間があった。
「……今回、帝国が国境へ集結させた部隊は、同国が保有していた実戦兵力の大部分に相当します」
「大部分とは?」
「およそ九割です」
部屋から音が消えた。
「……九割?」
「はい」
「では、帝国に残っている兵力は?」
「国境警備、帝国内の治安維持、各拠点へ残された部隊が中心と見られます」
別の将官が地図へ目を落とした。
「再侵攻は」
「現実的ではありません」
即答だった。
「人員だけではありません。装備、軍馬、物資も同時に失われています。少なくとも、再び王国へ大規模侵攻できる戦力を短期間で整えることは不可能です」
「…………」
帝国は侵攻した。
確かに国境を越えた。
それでも、王国軍との本格的な会戦は一度も起きていない。
その間に、帝国の主力だけが消えた。
「……つまり」
一人が低い声を漏らした。
「この侵攻は、もう続かないのか」
「少なくとも正規軍による大規模侵攻は不可能です」
「我々は……」
そこで言葉が止まる。
「何もしていないぞ」
誰も否定できなかった。
勝ったのではない。
帝国軍を打ち破ったわけでもない。
王国軍が剣を交えるより先に、敵の主力は壊滅していた。
昨日まで国境を埋めていた軍勢。
そのほとんどが、今はもう存在しない。
「現場を封鎖する」
指揮官が静かに告げた。
「死体にも、黒く変色した土地にも不用意に触れるな。原因が判明するまでは、未知の魔法による災害として扱え」
「はい」
「警戒態勢も解除するな」
一人が顔を上げる。
「帝国軍は壊滅したのでは?」
「だからこそだ」
指揮官は地図を見つめたまま答えた。
「帝国の主力を、王国軍と交戦させることすらなく壊滅させた何かが存在する」
室内の空気が再び重くなる。
「それが我々の味方だと、誰が保証できる」
答える者はいなかった。
「王都へ正式報告を送れ」
「報告内容は?」
指揮官は僅かに沈黙した。
「帝国侵攻軍、壊滅」
そして続ける。
「……原因、不明」
◇
その日の午後。
王立魔法学院にも、国境で起きた異変の知らせが届き始めていた。
まだ正式な発表ではない。
帝国軍が進軍を停止した。
大きな被害が出たらしい。
全滅したという話まである。
断片的な噂だけが、生徒たちの間を行き交っていた。
「帝国軍が……?」
カイルが眉を寄せる。
「昨日、侵攻したばっかりだろ」
「詳しいことは、まだ分からないみたいです」
エステルが答えた。
リリアは何も言わない。
教室のあちこちで、同じ話題が飛び交っている。
帝国が負けた。
戦争は終わった。
王国は助かった。
安堵する声もあった。
信じられないと繰り返す声もあった。
そんな教室の中に、一つだけ空いた席がある。
いつもそこにいたはずの少年は、今日も戻っていない。
国境では、帝国の主力軍が消えた。
王国を脅かしていた侵攻も、本格的な戦いになる前に終わろうとしている。
それでも。
あの席にいた少年の行方だけは、まだ誰にも分からない。
そして今日も。
彼の席は、空いたままだった。




