第112話 黒雨
帝国軍の先頭は、すでに王国領へ踏み込んでいた。
長大な軍列の大半は、今なお国境線を越えつつある。
先頭を行く歩兵。その後方には騎兵、魔法兵、武器や食料を積んだ車列が果てしなく続いていた。
侵攻は始まったばかりだった。
王都リーヴェルまでは、まだ遠い。
王国軍との本格的な衝突すら起きていない。
「隊列を崩すな!」
「後続を急がせろ!」
指揮官たちの声が軍列を行き交う。
その時、一人の兵士が何気なく空を見上げた。
「……ん?」
青空の一点に、黒い何かが浮かんでいる。
雲ではない。鳥でもない。
人が一人収まるほどの、赤黒い球体。
陽光の下にありながら、その周囲だけ光が沈んでいるように見えた。
「何だ、あれ……」
「あそこだ。黒いやつ」
長大な軍列の中で、ぽつり、ぽつりと兵士たちが足を緩めていく。
目を凝らせば、球体の内部には人影らしきものがあった。
「……人か?」
「まさか。あんなところに?」
顔も服装も分からない。
男か女かさえ判別できなかった。
ただ、その影だけが遥か上空から軍勢を見下ろしているように見える。
「魔法兵! 上空のあれを確認しろ!」
「はっ!」
数人が球体へ意識を集中させた。
「魔力は感じます。ですが……捉えきれません」
「どういう意味だ?」
「どこまでが、あれの魔力なのか分からないんです」
周囲に緊張が走る。
赤黒い球体は、まだ何もしていない。
攻撃も警告もない。
それでも、この時点で隊列を離れる者はいなかった。
◇
異変は、空から始まった。
「……暗くないか?」
晴れていた空から、少しずつ色が失われていく。
「雲……?」
帝国軍の上空に、黒雲が生まれていた。
風に運ばれてきたものではない。
黒の奥に鈍い赤を滲ませながら、巨大な何かが身じろぎするように形を変えている。
「魔法だ!」
「防御陣を展開しろ!」
軍列各所へ防御障壁が広がった。
赤黒い球体へ杖を向ける魔法兵もいる。
「放て!」
炎と光が上空へ走った。
球体へ触れる寸前、術式そのものが崩れる。
「……は?」
炎がほどけ、光が散った。
爆発すら起きない。
「もう一度だ!」
その瞬間。
一滴の黒い雨が、兵士の兜へ落ちた。
「……?」
金属から白い煙が上がる。
「な――」
兜が黒く変色し、形を失っていった。
「う、あああああっ!」
「雨だ! 触れるな!」
二滴目が別の兵士の頬へ落ちる。
皮膚が黒く変色し、男は顔を押さえて倒れた。
直後、黒い雨が一斉に降り始める。
「退避!」
「障壁を維持しろ!」
雨粒が防御障壁に無数の黒い染みを広げ、魔力で構築された壁を侵食していく。
「持たない!」
障壁に穴が開いた。
鎧が腐食し、剣が崩れ、盾が形を失う。
肉体も例外ではない。
黒い痕を広げながら、兵士たちが次々と倒れていった。
軍馬が暴れ、車列が横転する。
「走れ!」
「森へ!」
「岩陰に入れ!」
整然としていた軍勢は、一瞬で崩壊した。
◇
一人の騎兵が、馬を全速力で走らせていた。
軍列はすでに遠い。
悲鳴も小さくなっている。
「……逃げられる」
その直後、周囲が暗くなった。
「……え?」
見上げた空には、黒雲。
「何でだ……?」
軍勢の上空を覆っていたはずの雲が、細く引き伸ばされるようにこちらへ伸びている。
右へ曲がれば、雲も曲がった。
森へ入っても、木々の隙間から覗く空だけは暗い。
「やめろ……俺はもう、あそこにはいないだろ……」
一滴の黒い雨が肩へ落ちる。
「――あ」
馬が駆けていく音だけが、その先へ続いた。
◇
「洞窟だ! 中へ入れ!」
数十人の兵士が、岩山の洞窟へ逃げ込んだ。
雨は岩盤に遮られている。
「……助かった……」
「何なんだ、あれは……」
「王国軍の魔法か?」
「そんなわけあるか!」
「あの空にいた奴は?」
「知らん。人だったのかさえ分からない」
答えを持つ者はいなかった。
しばらくして。
入口から、何かを引きずる音が聞こえた。
暗がりから一人の男が現れる。
「おい! 生きてたのか!」
駆け寄ろうとした兵士の足が止まった。
先ほど黒い雨を浴びて倒れた仲間だった。
崩れた鎧が身体へ張りつき、露出した肌は黒く腐食している。
生きていられる姿ではない。
『……いた……い……』
「……何だ?」
『……くる……し……』
確かに男の声だった。
だが、口の動きと合っていない。
『……いた……い……』
残された言葉だけが、繰り返されているようだった。
死骸が顔を上げる。
黒く濁った瞳が、一人の兵士を捉えた。
「うわっ――!」
飛びかかる。
狙ったのは首元だった。
「離せ! 離せっ!」
死骸は深く食らいついたまま、激しく頭を振る。
「――あああああっ!」
鈍い音とともに肉が抉り取られ、血が地面へ散った。
兵士は喉を押さえながら倒れ、やがて呼吸が途絶える。
その直後。
黒い魔力が、身体の輪郭へ絡みついた。
「……何だ?」
手足へ激しい痙攣が走る。
身体が何度も跳ね上がり、背中が反り返った。
頭が、人の意思ではあり得ない角度へ傾く。
やがて、すべての動きが止まった。
「…………」
数秒後。
倒れていた男が、ゆっくりと地面へ手をつく。
「……嘘だろ」
起き上がった。
喉元は大きく抉られている。
『……たす……け……』
「来るな……」
男だったものが一歩踏み出す。
「来るなって……!」
次の瞬間、走り出した。
別の兵士の首元へ食らいつく。
悲鳴。
倒れた身体を黒い魔力が包み、再び激しい痙攣が始まった。
「……増えてる……」
入口には、さらに人影が現れている。
黒い雨の中で命を失った者たち。
そして、洞窟の中で死んだ者まで立ち上がり始めていた。
『……いた……い……』
『……たす……け……』
『……いや……だ……』
死者たちは、同じ言葉を何度も繰り返していた。
「入口を塞げ!」
「無理だ! もう中にいる!」
「俺だ! 分からないのか!」
返事はない。
仲間だったはずの死者たちは、生き残っている者だけを追い続けていた。
一人が倒れるたび、激しい痙攣の末に立ち上がり、次の生者へ向かう。
死者が増えるほど、生者の逃げ場は失われていった。
やがて洞窟の奥には、悲鳴と嘆きだけが響き続けていた。
◇
帝国兵は森へ逃げ、谷へ下り、岩陰や地下へ身を隠した。
それでも黒雲は離れない。
黒い雨に倒れた者も、逃げ込んだ先で死骸に襲われた者も、命が途絶えるたびに死者の列へ加わっていった。
誰も敵の正体を知らない。
王国軍と戦ってすらいない。
何が起きているのかも分からない。
生きている者だけが、確実に減っていく。
やがて。
最後の悲鳴が途切れた。
黒雲が動きを止める。
生者を探していた死骸も、糸を切られたように崩れ落ちた。
黒い雨が止み、雲が薄れていく。
あとに残されたのは、黒く変色した大地。
枯れ果てた草木。
腐食した武具。
倒れた軍馬。
止まった車列。
そして、帝国侵攻軍だったもの。
動く者は、もういなかった。
◇
静寂が戻った頃、空に浮かんでいた赤黒い球体も姿を消していた。
音もない。
光も残っていない。
どうやって現れ、いつ消えたのか。
それを知る者は、もう誰もいなかった。
ヴァルグレア帝国による侵攻。
そのために集められた主力軍は、王国軍と本格的に刃を交えることすらなかった。
誰に襲われたのか。
何の魔法だったのか。
あの空に何がいたのか。
帝国軍の側に、その答えを持ち帰る者はいなかった。
ただ国境一帯には、生命の色を失った大地と、沈黙した帝国侵攻軍だけが残されていた。




