第111話 残された羽根(番外編 天界8話)
追憶の都は、静まり返っていた。
崩れかけた建物が並ぶ通りを、三つの影が進んでいく。
先頭を歩くのはヴァレオン。その少し後ろを、ラティスとフィオが続いていた。
天界で確認された最後の共鳴地点。
シェルの自己封印と連動していた術式が消失する直前、その反応はこの地――古い神殿の周辺を示していた。
「……ここだ」
ヴァレオンが足を止める。
三人の前には、長い年月を経た石造りの神殿があった。
外から見れば、とうに人の手を離れた遺跡にしか見えない。
その一方で、地面には新しい足跡が残されている。
「最近、人が出入りした跡がある」
ラティスも足元へ視線を落とした。
「一人や二人じゃないな」
「うん……」
フィオは小さく答えた。
天界を出てから、ほとんど口を開いていない。
幼い頃、シェルが植えた花。
その花から消えた、シェルの光。
まだ何も分かっていない。
胸の奥に残り続ける不穏な感覚だけが、どうしても消えなかった。
「行くぞ」
ヴァレオンの声に、二人は頷いた。
◇
神殿の奥には、地下へ続く道が隠されていた。
石壁の一部が不自然に開かれ、その向こうから冷たい空気が流れている。
三人は警戒しながら階段を下りた。
やがて古い石造りの壁は途切れ、人の手で整えられた廊下へ変わっていく。
いくつもの扉。
部屋。
そして、鉄格子。
「……何だよ、ここ」
ラティスの表情が険しくなる。
いくつかの牢には、壊された錠が残されていた。
扉そのものにはほとんど傷がない。
錠だけが、何かに正確に破壊されている。
「誰かが……ここにいたんだ」
フィオが呟く。
「ああ」
ヴァレオンは短く答えた。
シェルの気配はない。
白い魔力も、天使族特有の光も、どこにも感じ取れなかった。
天界で確認した最後の反応は、確かにこの場所を示していた。
それにもかかわらず、シェルだけがいない。
三人はさらに奥へ進んだ。
やがて、重い扉が現れる。
半ば開いたままになっていた。
ヴァレオンがゆっくりと扉を押す。
軋んだ音が、静かな部屋へ響いた。
「…………」
三人の足が止まる。
部屋の中央に、一脚の椅子があった。
両腕と両脚を固定するための拘束具は壊れ、割れた金具と千切れた革が、肘掛けや足元に残されていた。
その周囲には魔導装置や細い管、刃物、何かを測定するための結晶が残されている。
人を座らせ、逃げられない状態で何かを行うための場所。
そう理解するには十分だった。
「……何だよ、これ」
ラティスの声が低くなる。
「ただの研究施設ではないな」
ヴァレオンも椅子を見つめていた。
フィオは何も言えない。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
「フィオ?」
ラティスに呼ばれても返事をせず、椅子へ近づいた。
その足元に、何かが落ちている。
「……これ」
フィオが屈む。
一枚の羽根だった。
形を見間違えるはずがない。
天使の羽根。
ただ、その色だけが異様だった。
根元から先端まで、濁った赤黒に染まっている。
「…………」
フィオの手が伸びる。
「触るな」
ヴァレオンの声で、指先が止まった。
「何が残っているか分からない」
「……うん」
フィオは羽根から目を離さなかった。
僅かに息を呑む。
「……これなら、見られる」
「何を?」
「この場所の過去を。この羽根を手掛かりにすれば、シェルに何があったのか、分かるかもしれない」
フィオが得意とする時魔法。
その場所に残る物を媒介に、そこで起きた過去を観測する術だった。
床や壁でも媒介にできるが、特定の人物と深く結びついた物なら、その人物を軸に過去の光景をより鮮明に追うことができる。
羽根そのものが出来事を記憶しているわけではない。
探るのは、この場所で起きた過去だ。
過去へ戻ることも、起きた出来事を変えることも、そこにいる者へ触れることもできない。
許されるのは、ただ見届けることだけ。
「待て、フィオ」
ヴァレオンが言う。
「何が見えるか分からない」
「……分かってる」
「なら――」
「それでも、見たい」
フィオの声が震えた。
「これがシェルの羽根なら……何があったのか、知らないままにはできない」
誰も答えなかった。
フィオは覚悟を決めるように息を吸う。
そして、羽根へそっと触れた。
◇
世界が遠ざかった。
音が消え、視界が淡い光に覆われる。
次の瞬間。
同じ部屋が見えた。
中央の椅子に、一人の少年が座っている。
白い服。
金色の髪。
「……シェル」
声が震えた。
見間違えるはずがない。
探しに来た相手。
ずっと会いたかった親友。
だが、探していたのはこんな姿ではなかった。
両腕も両脚も、椅子へ固定されている。
首元には傷。
腕には火傷。
頬には涙の跡が残っていた。
『……帰りたい……』
フィオの呼吸が止まった。
『帰りたいよ……』
その言葉を聞いた瞬間。
別の日の声が、胸の奥から蘇った。
『待ってるからね』
人間界へ向かうシェルへ。
あの日、自分が笑ってそう言った。
「……待ってたよ」
フィオの唇が震えた。
「ちゃんと……待ってたよ、シェル……」
その声が、過去のシェルへ届くことはない。
帰りたいと泣いていたことさえ、フィオたちは知らなかった。
像が揺れる。
次の時間へ移った。
刃を持った男が、シェルの顔へ近づいていく。
『嫌だ……嫌だ……』
拘束された身体が逃げようとする。
『お願い……何でもしますから……』
フィオの手が伸びる。
『そこだけはっ……!』
「やめて!」
指先は、シェルの身体をすり抜けた。
刃が振るわれる。
「――っ!」
左目から血が流れた。
『いた……い……』
掠れた声。
『助……け……』
フィオは息を呑んだ。
目の前にいる。
すぐそこにいるのに。
拘束を外すことも、刃を止めることも、手を握ることさえできない。
術式を解けば、ここで見るのをやめられる。
それでも、フィオは解かなかった。
シェルがここで耐えたものから、自分だけ目を逸らすことはできなかった。
時間が先へ進む。
少年の胸元に、純白の光が浮かんだ。
「……神核……」
見覚えがある。
人間界へ向かうあの日にも見た。
シェルの中にあった、濁りのない純白の光。
その表面には今、いくつもの亀裂が走っていた。
「そんな……」
シェルは泣いていた。
右目から涙を流し、何度も首を横に振っている。
『それだけは……っ、やめて……ください……っ!』
掠れた声が、途切れ途切れに響いた。
研究者の一人が何かを告げると、周囲の術式が動き始めた。
『お願い……待って……っ!』
黒い術式線が《神核》へ近づいていく。
「……やめて」
フィオの声が小さく漏れた。
闇が、純白の光へ流れ込む。
その瞬間。
シェルの声が消えた。
「……え?」
叫ばない。
違う。
叫べない。
身体は震え、口も開いている。
それなのに、声が出ない。
純白の光だけが必死に闇を拒み、押し返そうとしていた。
「もういいよ……」
フィオの目から涙が落ちた。
「もう……頑張らなくていいよ……」
その言葉も届かない。
シェルの光は、それでも抵抗を続けている。
やがて。
少年の唇が、ほんの僅かに動いた。
『……だ……れ……か……』
「…………」
フィオの表情が止まった。
助けを求める声。
それが、最後だった。
シェルは力を失うように俯き、それ以上声を発しなかった。
「……シェル……」
純白の光の抵抗が止まる。
そして、光が変わり始めた。
外から染められているのではない。
白そのものが、内側から別のものへ変わっていく。
「……いや」
フィオが首を振る。
濃密な闇の魔力がシェルの身体を覆い、金色の髪も白い服も、その顔さえ見えなくなった。
「シェル……」
時間が大きく揺れた。
さらに先へ。
魔力が収束していく。
そこから現れた少年を見て、フィオは声を失った。
黒い髪。
傷も火傷も消え、傷つけられた左目さえ元に戻っている。
ゆっくりと開かれた瞳は、もう空色ではなかった。
黄金。
縦に細い瞳孔。
「…………」
顔立ちは同じ。
見間違えるはずがない。
「……シェル……」
そこにいるのは、確かにシェルだった。
フィオが知る空色の瞳だけが、どこにもない。
時間が再び先へ進む。
少年の背から、翼が左右へ広がった。
「あ……」
見慣れた純白の羽根。
シェルの翼だった。
その姿を見た瞬間、フィオの胸に懐かしい記憶が蘇った。
時魔法がうまく使えず、落ち込んでいたあの日。
シェルは何も責めず、そっと抱きしめてくれた。
その背から広がった翼が、自分を優しく包み込んでくれたことも覚えている。
頬に触れた羽根の柔らかさ。
すぐ近くで感じた、シェルの匂い。
あの翼に包まれていると、不思議なくらい安心できた。
「……シェル……」
フィオの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、次の瞬間。
「……え?」
羽根の根元に黒が現れ、そこへ暗い赤が重なった。
見慣れた白さが、少しずつ失われていく。
「……待って……」
フィオは思わず手を伸ばした。
あの優しい翼までが、変わっていく。
「……シェル……」
フィオの瞳から、涙が零れた。
「……人間界で……楽しい思い出を、たくさん作って……帰ってくるはずだったのに……」
声が掠れる。
一枚、また一枚と羽根が色を変えていく。
やがて、最後まで残っていた純白も消えてしまった。
「…………」
一枚の羽根が抜け落ちる。
床へ落ちた。
フィオの視線が、それを追う。
今、自分が触れているものと同じ羽根。
その一枚だけがオーラへほどけることなく、変わった色のまま床に残った。
翼はやがてオーラへとほどけ、その力がシェルの全身へ静かに溶け込んでいった。
床に残された羽根を最後に、過去の像は消えた。
◇
「――っ!」
フィオの指が羽根から離れた。
「フィオ!」
身体から力が抜ける。
倒れる寸前、ラティスが抱き止めた。
「おい! フィオ!」
返事ができない。
目の前には、現在の部屋がある。
拘束具。
研究機材。
そして、床に残された羽根。
今見たものが、ここで本当に起きたことなのだと突きつけてくる。
「何を見た」
ヴァレオンが尋ねた。
フィオは答えられない。
唇が震える。
ぽたり。
涙が床へ落ちた。
「……シェルが……」
「フィオ?」
「シェルが……」
何度口にしても、その先が続かない。
『帰りたいよ……』
『助……け……』
そして。
『……だ……れ……か……』
「……泣いてた……」
ラティスの表情が固まった。
「……何?」
「シェル……泣いてた……」
「何、言って……」
「帰りたいって……」
フィオはラティスの服を掴んだ。
「助けてって……」
「…………」
「助けてくれる人が……誰もいなかった……」
声が崩れていく。
あの時。
シェルが助けを求めていた時。
フィオたちは何も知らなかった。
天界で、帰ってくるシェルを待っていた。
「僕……待ってるって言ったのに……」
ラティスの目が揺れた。
「ちゃんと……待ってるって……」
「フィオ……」
「シェル、帰りたがってた……」
涙が止まらない。
「帰りたいって……言ってたのに……」
息を吸っても、声が震える。
「何も……してあげられなかった……」
もう耐えられなかった。
フィオはラティスの胸元へ顔を伏せ、泣いた。
「シェルが……シェルが……っ」
ラティスは何も言えない。
ただ、フィオを支える腕へ力を込めた。
ヴァレオンも黙ったまま、部屋の中央を見つめていた。
拘束具。
研究機材。
そして、床に残された一枚の羽根。
ヴァレオンは、拳を強く握りしめた。




