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白き天使と金色の竜眼Ⅰ  作者: 蒼空れっど
第五章 帝国侵攻編
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第111話 残された羽根(番外編 天界8話)

 追憶の都は、静まり返っていた。


 崩れかけた建物が並ぶ通りを、三つの影が進んでいく。

 先頭を歩くのはヴァレオン。その少し後ろを、ラティスとフィオが続いていた。


 天界で確認された最後の共鳴地点。

 シェルの自己封印と連動していた術式が消失する直前、その反応はこの地――古い神殿の周辺を示していた。


「……ここだ」


 ヴァレオンが足を止める。


 三人の前には、長い年月を経た石造りの神殿があった。

 外から見れば、とうに人の手を離れた遺跡にしか見えない。


 その一方で、地面には新しい足跡が残されている。


「最近、人が出入りした跡がある」


 ラティスも足元へ視線を落とした。


「一人や二人じゃないな」


「うん……」


 フィオは小さく答えた。

 天界を出てから、ほとんど口を開いていない。


 幼い頃、シェルが植えた花。

 その花から消えた、シェルの光。


 まだ何も分かっていない。

 胸の奥に残り続ける不穏な感覚だけが、どうしても消えなかった。


「行くぞ」


 ヴァレオンの声に、二人は頷いた。


     ◇


 神殿の奥には、地下へ続く道が隠されていた。


 石壁の一部が不自然に開かれ、その向こうから冷たい空気が流れている。

 三人は警戒しながら階段を下りた。


 やがて古い石造りの壁は途切れ、人の手で整えられた廊下へ変わっていく。


 いくつもの扉。

 部屋。

 そして、鉄格子。


「……何だよ、ここ」


 ラティスの表情が険しくなる。


 いくつかの牢には、壊された錠が残されていた。

 扉そのものにはほとんど傷がない。

 錠だけが、何かに正確に破壊されている。


「誰かが……ここにいたんだ」


 フィオが呟く。


「ああ」


 ヴァレオンは短く答えた。


 シェルの気配はない。

 白い魔力も、天使族特有の光も、どこにも感じ取れなかった。


 天界で確認した最後の反応は、確かにこの場所を示していた。


 それにもかかわらず、シェルだけがいない。


 三人はさらに奥へ進んだ。


 やがて、重い扉が現れる。

 半ば開いたままになっていた。


 ヴァレオンがゆっくりと扉を押す。

 軋んだ音が、静かな部屋へ響いた。


「…………」


 三人の足が止まる。


 部屋の中央に、一脚の椅子があった。


 両腕と両脚を固定するための拘束具は壊れ、割れた金具と千切れた革が、肘掛けや足元に残されていた。

 その周囲には魔導装置や細い管、刃物、何かを測定するための結晶が残されている。


 人を座らせ、逃げられない状態で何かを行うための場所。

 そう理解するには十分だった。


「……何だよ、これ」


 ラティスの声が低くなる。


「ただの研究施設ではないな」


 ヴァレオンも椅子を見つめていた。


 フィオは何も言えない。

 胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。


「フィオ?」


 ラティスに呼ばれても返事をせず、椅子へ近づいた。


 その足元に、何かが落ちている。


「……これ」


 フィオが屈む。


 一枚の羽根だった。


 形を見間違えるはずがない。

 天使の羽根。


 ただ、その色だけが異様だった。

 根元から先端まで、濁った赤黒に染まっている。


「…………」


 フィオの手が伸びる。


「触るな」


 ヴァレオンの声で、指先が止まった。


「何が残っているか分からない」


「……うん」


 フィオは羽根から目を離さなかった。

 僅かに息を呑む。


「……これなら、見られる」


「何を?」


「この場所の過去を。この羽根を手掛かりにすれば、シェルに何があったのか、分かるかもしれない」


 フィオが得意とする時魔法。


 その場所に残る物を媒介に、そこで起きた過去を観測する術だった。


 床や壁でも媒介にできるが、特定の人物と深く結びついた物なら、その人物を軸に過去の光景をより鮮明に追うことができる。


 羽根そのものが出来事を記憶しているわけではない。

 探るのは、この場所で起きた過去だ。


 過去へ戻ることも、起きた出来事を変えることも、そこにいる者へ触れることもできない。


 許されるのは、ただ見届けることだけ。


「待て、フィオ」


 ヴァレオンが言う。


「何が見えるか分からない」


「……分かってる」


「なら――」


「それでも、見たい」


 フィオの声が震えた。


「これがシェルの羽根なら……何があったのか、知らないままにはできない」


 誰も答えなかった。


 フィオは覚悟を決めるように息を吸う。

 そして、羽根へそっと触れた。


     ◇


 世界が遠ざかった。


 音が消え、視界が淡い光に覆われる。


 次の瞬間。

 同じ部屋が見えた。


 中央の椅子に、一人の少年が座っている。


 白い服。

 金色の髪。


「……シェル」


 声が震えた。


 見間違えるはずがない。

 探しに来た相手。

 ずっと会いたかった親友。


 だが、探していたのはこんな姿ではなかった。


 両腕も両脚も、椅子へ固定されている。


 首元には傷。

 腕には火傷。

 頬には涙の跡が残っていた。


『……帰りたい……』


 フィオの呼吸が止まった。


『帰りたいよ……』


 その言葉を聞いた瞬間。

 別の日の声が、胸の奥から蘇った。


『待ってるからね』


 人間界へ向かうシェルへ。

 あの日、自分が笑ってそう言った。


「……待ってたよ」


 フィオの唇が震えた。


「ちゃんと……待ってたよ、シェル……」


 その声が、過去のシェルへ届くことはない。

 帰りたいと泣いていたことさえ、フィオたちは知らなかった。


 像が揺れる。

 次の時間へ移った。


 刃を持った男が、シェルの顔へ近づいていく。


『嫌だ……嫌だ……』


 拘束された身体が逃げようとする。


『お願い……何でもしますから……』


 フィオの手が伸びる。


『そこだけはっ……!』


「やめて!」


 指先は、シェルの身体をすり抜けた。

 刃が振るわれる。


「――っ!」


 左目から血が流れた。


『いた……い……』


 掠れた声。


『助……け……』


 フィオは息を呑んだ。


 目の前にいる。

 すぐそこにいるのに。


 拘束を外すことも、刃を止めることも、手を握ることさえできない。


 術式を解けば、ここで見るのをやめられる。


 それでも、フィオは解かなかった。

 シェルがここで耐えたものから、自分だけ目を逸らすことはできなかった。


 時間が先へ進む。


 少年の胸元に、純白の光が浮かんだ。


「……神核……」


 見覚えがある。

 人間界へ向かうあの日にも見た。


 シェルの中にあった、濁りのない純白の光。

 その表面には今、いくつもの亀裂が走っていた。


「そんな……」


 シェルは泣いていた。


 右目から涙を流し、何度も首を横に振っている。


『それだけは……っ、やめて……ください……っ!』


 掠れた声が、途切れ途切れに響いた。


 研究者の一人が何かを告げると、周囲の術式が動き始めた。


『お願い……待って……っ!』


 黒い術式線が《神核》へ近づいていく。


「……やめて」


 フィオの声が小さく漏れた。


 闇が、純白の光へ流れ込む。


 その瞬間。

 シェルの声が消えた。


「……え?」


 叫ばない。

 違う。

 叫べない。


 身体は震え、口も開いている。

 それなのに、声が出ない。


 純白の光だけが必死に闇を拒み、押し返そうとしていた。


「もういいよ……」


 フィオの目から涙が落ちた。


「もう……頑張らなくていいよ……」


 その言葉も届かない。

 シェルの光は、それでも抵抗を続けている。


 やがて。

 少年の唇が、ほんの僅かに動いた。


『……だ……れ……か……』


「…………」


 フィオの表情が止まった。


 助けを求める声。

 それが、最後だった。


 シェルは力を失うように俯き、それ以上声を発しなかった。


「……シェル……」


 純白の光の抵抗が止まる。


 そして、光が変わり始めた。


 外から染められているのではない。

 白そのものが、内側から別のものへ変わっていく。


「……いや」


 フィオが首を振る。


 濃密な闇の魔力がシェルの身体を覆い、金色の髪も白い服も、その顔さえ見えなくなった。


「シェル……」


 時間が大きく揺れた。


 さらに先へ。


 魔力が収束していく。

 そこから現れた少年を見て、フィオは声を失った。


 黒い髪。

 傷も火傷も消え、傷つけられた左目さえ元に戻っている。


 ゆっくりと開かれた瞳は、もう空色ではなかった。


 黄金。

 縦に細い瞳孔。


「…………」


 顔立ちは同じ。

 見間違えるはずがない。


「……シェル……」


 そこにいるのは、確かにシェルだった。

 フィオが知る空色の瞳だけが、どこにもない。


 時間が再び先へ進む。


 少年の背から、翼が左右へ広がった。


「あ……」


 見慣れた純白の羽根。


 シェルの翼だった。


 その姿を見た瞬間、フィオの胸に懐かしい記憶が蘇った。


 時魔法がうまく使えず、落ち込んでいたあの日。


 シェルは何も責めず、そっと抱きしめてくれた。


 その背から広がった翼が、自分を優しく包み込んでくれたことも覚えている。


 頬に触れた羽根の柔らかさ。

 すぐ近くで感じた、シェルの匂い。


 あの翼に包まれていると、不思議なくらい安心できた。


「……シェル……」


 フィオの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


 だが、次の瞬間。


「……え?」


 羽根の根元に黒が現れ、そこへ暗い赤が重なった。


 見慣れた白さが、少しずつ失われていく。


「……待って……」


 フィオは思わず手を伸ばした。


 あの優しい翼までが、変わっていく。


「……シェル……」


 フィオの瞳から、涙が零れた。


「……人間界で……楽しい思い出を、たくさん作って……帰ってくるはずだったのに……」


 声が掠れる。


 一枚、また一枚と羽根が色を変えていく。


 やがて、最後まで残っていた純白も消えてしまった。


「…………」


 一枚の羽根が抜け落ちる。

 床へ落ちた。


 フィオの視線が、それを追う。


 今、自分が触れているものと同じ羽根。


 その一枚だけがオーラへほどけることなく、変わった色のまま床に残った。


 翼はやがてオーラへとほどけ、その力がシェルの全身へ静かに溶け込んでいった。


 床に残された羽根を最後に、過去の像は消えた。


     ◇


「――っ!」


 フィオの指が羽根から離れた。


「フィオ!」


 身体から力が抜ける。

 倒れる寸前、ラティスが抱き止めた。


「おい! フィオ!」


 返事ができない。


 目の前には、現在の部屋がある。


 拘束具。

 研究機材。

 そして、床に残された羽根。


 今見たものが、ここで本当に起きたことなのだと突きつけてくる。


「何を見た」


 ヴァレオンが尋ねた。


 フィオは答えられない。

 唇が震える。


 ぽたり。

 涙が床へ落ちた。


「……シェルが……」


「フィオ?」


「シェルが……」


 何度口にしても、その先が続かない。


『帰りたいよ……』


『助……け……』


 そして。


『……だ……れ……か……』


「……泣いてた……」


 ラティスの表情が固まった。


「……何?」


「シェル……泣いてた……」


「何、言って……」


「帰りたいって……」


 フィオはラティスの服を掴んだ。


「助けてって……」


「…………」


「助けてくれる人が……誰もいなかった……」


 声が崩れていく。


 あの時。

 シェルが助けを求めていた時。


 フィオたちは何も知らなかった。

 天界で、帰ってくるシェルを待っていた。


「僕……待ってるって言ったのに……」


 ラティスの目が揺れた。


「ちゃんと……待ってるって……」


「フィオ……」


「シェル、帰りたがってた……」


 涙が止まらない。


「帰りたいって……言ってたのに……」


 息を吸っても、声が震える。


「何も……してあげられなかった……」


 もう耐えられなかった。


 フィオはラティスの胸元へ顔を伏せ、泣いた。


「シェルが……シェルが……っ」


 ラティスは何も言えない。

 ただ、フィオを支える腕へ力を込めた。


 ヴァレオンも黙ったまま、部屋の中央を見つめていた。


 拘束具。

 研究機材。

 そして、床に残された一枚の羽根。


 ヴァレオンは、拳を強く握りしめた。

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