第110話 戻った感情
王立魔法学院の朝は、いつもと変わらず始まっていた。
廊下を行き交う生徒たちの声。教室へ向かう足音。窓の外では、薄い雲の隙間から朝の光が差し込んでいる。
リリアは自分の席に座ったまま、机の上へ視線を落としていた。
昨日まで胸の中を占めていた、理由の分からない拒絶感が消えている。
何かを思い出したわけではない。
最初から、何一つ忘れてはいなかった。
戻ったのは、ユウへ向けていた本来の感情だった。
「……ユウ」
名前が自然にこぼれた瞬間、胸が強く締めつけられた。
『来ないで』
『近くに来られるの、嫌だから』
自分がそう告げた時の光景は、はっきりと残っている。
ユウが傷ついたような顔をしたことも、それを見ながら、自分の中にあった拒絶感を疑わなかったことも。
「……っ」
古書店で出会った日のことも、学院で四人一緒に過ごした時間も覚えている。
そして――それだけではない。
追憶の都。
古い神殿。
自分を助けるため、一人で来てくれたユウ。
その背後から振り下ろされた一撃。
さらに、その後のことも。
知らない建物の中で、椅子へ縛りつけられていたユウ。
『リリア、大丈夫だった?』
『怪我は?』
拘束されていたのはユウの方だった。それでも、最初に心配したのはリリアだった。
自分が部屋を出ようとした時、ユウは震える声で呼び止めた。
『行かないで……』
『お願い……』
『僕……ここで何されるのか、分からないから……』
『怖い……』
『一人にしないで……』
「……ごめん」
誰にも届かない声が漏れた。
なのに自分は、『すぐ終わるから』と告げて部屋を出た。
ユウを、一人残して。
「リリア」
顔を上げると、カイルが立っていた。その後ろにはエステルもいる。
「……お前も、何か変じゃないか」
「カイルも?」
「ああ」
エステルも小さく頷いた。
「私も、お二人にお話ししたいことがあります」
三人は教室の端へ移動した。
「俺……あの時、ユウに近づくなって言った」
カイルが拳を握る。
「信用できねえって。何かされたわけでもねえのに、本気でそう思ってた」
「私もです。ユウさんと、以前のようにお話ししたいとは思えないと……そう伝えました」
「……私も。ユウに、来ないでって言った」
三人とも、自分が何を言ったのか覚えている。
同じ頃から、同じ相手へ、本来なら抱かない感情を向け、それを不自然だとも思わなかった。
「でも、私……それだけじゃない」
二人が顔を上げる。
「私が、ユウを追憶の都に呼んだの」
「……何?」
カイルの表情が固まった。
「家族の名前も、住んでる場所も……家の位置まで知られてた。言うことを聞かなかったら危害を加えるって。誰かに話しても分かるって言われた」
「そんな……」
「それで、ユウを呼べって言われた」
リリアは俯く。
「でも……呼んだのは私。何かの術式で私の声をユウに届けて、追憶の都に来るように伝えた」
「それでユウは?」
「来た。私を助けるために、一人で」
声が震える。
「でも、後ろから襲われて倒れた。そのあと私も別の場所に連れていかれて……そこで一度だけユウに会った」
「会った?」
「椅子に縛られてた」
リリアの指先が震えた。
「ユウ、私が無事なのを見て、最初に私の心配をしてくれた。それなのに私……『すぐ終わるから』って言った」
喉が詰まる。
「行かないでって言われた。一人にしないでって……怖いって」
「リリア……」
「なのに私、出ていった」
声が途切れた。
「私……ユウを置いてきた」
「……は?」
カイルの眉が寄る。
「お前……それで、出てきたのか?」
責めるような声が出た。
だが、それ以上は続かなかった。
自分もあの時、理由もなくユウを疑い、近づくなと突き放した。
「……悪い」
カイルは顔を背けた。
「お前だけじゃねえ」
リリアは首を振る。
「……でも、覚えてるの。ユウが怖いって言ってたのも、一人にしないでって言ってたのも……全部」
しばらく、誰も口を開けなかった。
やがてカイルが教室を見回す。
「……待て。ユウは?」
三人の視線が、いつもならユウがいるはずの席へ向かった。
そこだけが空いていた。
◇
三人はすぐにクラリスのもとへ向かった。
「ユウ・リシェルさんが、今朝から姿を見せていない?」
「はい。教室にも来ていません」
クラリスの表情が変わる。
「男子寮へ確認を。昨夜、ユウ・リシェルさんが戻っているか調べてください」
近くにいた教師が部屋を出ていった。
「先生」
リリアが声を絞り出す。
「追憶の都です。ユウは、そこへ行きました」
「なぜ、それを知っているんです?」
家族の顔が浮かぶ。
それでも、もう黙ってはいられなかった。
「……私が、ユウを呼んだんです」
リリアは、学院内で連れ去られたことから順に話した。
家族を脅され、ユウの名を答えたこと。黒い板状の装置を学院へ持ち込んだこと。そして、自分の声でユウを追憶の都へ呼んだことまで。
「装置は、まだ学院内にありますか?」
「中庭脇の用具庫です。奥の棚の裏に」
クラリスはすぐ教師へ指示を出した。
「用具庫を封鎖してください。誰にも触れさせず、学院長へ報告を。それから騎士団へ連絡し、リリアさんのご家族の安全確認と保護を最優先で要請してください」
「はい」
「学院の入構記録も確認を。ここ数日で入った外来者を調べてください」
教師が急いで出ていく。
「もう一つ確認します。昨日、学院にはあなたが風邪で休むと伝わっていました」
「……え?」
「あなたか、ご家族から欠席の連絡を入れましたか?」
「してません。家族にも頼んでません」
「分かりました。連絡元も確認します」
リリアはさらに、追憶の都でユウが襲われ、その後、拘束されたユウと一度だけ会ったこと、自分だけ昨夜学院近くへ戻されたことを話した。
「ユウがその後どうなったのかは……分かりません」
やがて、男子寮を確認した教師が戻ってくる。
「ユウ・リシェルさんは、昨夜から戻っていません」
カイルとエステルも、自分たちが同じ頃からユウへ理由のない不信や拒絶を抱いていたことを説明した。
クラリスは三人を順番に見た。
「分かりました。今は原因を決めつけません」
そして、近くの教師へ向き直る。
「追憶の都へ捜索班を出してください。騎士団にも協力を要請します。王都門にはユウ・リシェルさんの出門記録がないか照会を」
「はい」
「それと、学院長への報告を急いでください」
「分かりました」
教師が部屋を出ようとする。
「待ってください」
リリアが声を上げた。
「私も行きます」
「俺も」
「私もです」
三人の声が重なった。
クラリスは首を横に振る。
「今は許可できません」
「でも!」
「相手は学院内へ入り込み、生徒を連れ去り、ご家族を脅し、正体不明の装置まで持ち込ませています。何も分からないまま追えば、あなたたちまで危険に晒されます」
リリアが唇を噛む。
「今は責任の話をする段階ではありません。ユウ・リシェルさんの所在確認を最優先にします」
三人は何も言い返せなかった。
今すぐユウを探しに行きたい。
それでも、何も知らずに飛び込むことが助けに繋がるとは限らない。
◇
昼を過ぎる頃、王都門から返答が届いた。
書面には、短い記録が残されている。
『ユウ・リシェル/追憶の都』
クラリスがその文字を確認する。
「……リリアさんの話と一致しますね」
リリアの手が震えた。
ユウが追憶の都へ向かったことは、これで間違いなくなった。
だが、その先の足取りはまだ分からない。
リリアは震える手を握りしめた。
ユウは、まだ見つかっていない。
◇
同じ頃。
王国とヴァルグレア帝国を隔てる国境では、長く止まっていた軍列が動き始めていた。
一人の指揮官が、帝国本国から届いた命令書を開く。
「進軍命令が下った」
兵も、軍馬も、武器も、物資を積んだ車列も、すでに準備を終えている。
待っていたのは、この命令だけだった。
「全軍、前進」
号令とともに先頭の兵士が歩き出し、何列もの軍勢がその後へ続く。
集結を始めて以来、一度も越えていなかった国境線へ、帝国軍の先頭が達した。
最初の兵士が、王国領へ踏み込む。
続いて軍馬が、兵が、そして長い車列が、次々と境界を越えていった。
ヴァルグレア帝国による侵攻が、ついに始まった。




